2008年10月18日 育療学会小規模研究会 報告のためのレジメ・基礎資

2008年10月18日 育療学会小規模研究会 報告のためのレジメ・基礎資料
学習院大学 川口幸宏

はじめに
人間の子どもとして生れ落ちた人びとの中で、人間として扱われず、育てられず、ある者は闇に葬られ、ある者は「村」の外に棄てられ、ある者は生涯を囲いの中で過ごさせられていたその人群れの中に、「白痴」(重度知能障害者)等がいた。「白痴」等に、教育によって人格発達の可能性を実現させ、普遍化することの歴史的意義を確立した、そのプロセスについての今から150年以上も前の話。つまり、「白痴」等は「人間」であり、「白痴」等を「人間世界の闇」から「人間世界の陽の当たる所」に導き出した歴史過程の一場面の話。「白痴教育」は盲・聾等の教育に続いて実現した障害児教育であり、孤児・病弱児などに対する教育保障の実現過程に符節を併せて実現している。舞台はフランス・パリ。
キーワード群:
 エドゥアール・オネジム・セガ
 サン=シモン主義「哲学」(「19世紀の哲学」)
  対比的に:
  J.M.G.イタール
ジャン・ジャック・ルソー啓蒙主義哲学(「18世紀の(唯物論)哲学」)
  普通教育(「義務教育」)
  秘密結社「家族協会」 義務・無償教育、「弱者」の人権
  1848年2月革命
 白痴教育
  王立公教育に関する管理委員会
  パリの施療院・救済院および在宅援助の管理総評議会(「救済院総評議会」)
  各種施療院、救済院(固有名詞)
  1838年法(精神病者の疾患別収容、衛生改善等)
  病弱児教育

「白痴」等に対する時代の目
1.大衆小説作家ウージェーヌ・シュー『パリの秘密』(1842−1843新聞連載小説)より
ビセートル救済院(男子養老院)描写の一場面―
精神病者の生活に覚えた陰鬱さにもかかわらず、ジェオルジュ夫人は、やや経って、不治の白痴者が閉じこめられている鉄格子のはまった庭の前を通り過ぎることになった。まさに動物の本性でさえ持たない哀れな存在、たいていは彼らの生まれについては知られていない。あらゆることを、そして彼ら自身を知らず、こうして、彼らは、まさに精神の、感情の異邦人として、生涯を送る。まったく能力のない動物的な欲求を覚えるだけだ・・・。極度に汚く、劣悪な家での、悲惨さと放蕩との忌まわしい交わりが、概して、貧困階層に蔓延するこの種のすさまじい堕落の起因である・・・。概して精神病者の容貌をただ見るだけの上辺だけの観察者には狂気がまったく分からないとしても、白痴の生理学的な特徴を見分けることは極めて簡単である。エルバン博士はジェオルジュ夫人に、粗野な白痴状態、愚鈍な無感覚あるいは痴愚の茫然自失の表情に気付かせようとはしなかった。そうした哀れな人々の顔立ちには、同時に、恐ろしくかつ不愉快な音声表現が示される。ほとんどの者が大変汚い長丈のぼろぼろの服を着ていた。というのも、可能な限りの監視にもかかわらず、本性や理性がまったく奪われたこれらの人々が、一日を過ごす庭2の泥の中に、動物のように寝転がって衣類を引き裂いたり汚したりするのを妨げることはできないのだ。
白痴たちを収容する納屋の暗がりの隅に、洞窟の動物のように、丸まって、ひとかたまりになって、しゃがみ込んでいた一人の白痴が、内にこもった連続的なゼイゼイというような声を口にした。さらに、立ったまま、動かず、黙ったまま、壁にもたれかかった白痴がじっと太陽を見つめていた。また、奇形なまでに太った一人の老人が木の椅子に座って、動物ががつがつ食べるように、横目で、怒ったような目線をあちこちに投げながら、救済院から提供された食事を貪っていた。また、自分で境界を作ってその小さな空間をぐるぐると急ぎ足で歩く者もいる。この奇妙な行為はまったく中断されることはない。彼らは、上半身を前後に揺さぶって、まるで地震のために絶えず揺れているようだ。そのめまいを誘うような単調な動きをやめることはない。大きな笑い声を上げながらである。その笑い声はきいきいという、喉から出されるしゃがれ声であり、白痴の特徴である。完全に自失状態にある人たちは食事の時にしか目を開けず、気力なく、死んだような、おしの、つんぼの、めくらの、声一つなく、生命力を伝えるしぶり一つない・・・。
言葉や知性のコミュニケーションが完全に欠落するのは白痴者の集まりの非常に陰鬱な特徴である。少なくとも、彼らの言葉と彼らの感情の支離滅裂さにもかかわらず、狂人たちは話し合い、認め合い、探しあう。しかし、白痴者たちの間では、愚鈍な無関心、非社交的な孤立が支配している・・・。誰もはっきりとした発音で決して話をせず、幾人かは未開人のような笑いをし、あるいはまったく人間でないうめき声や叫び声を挙げるときがある・・・ほとんどが彼らの監視人の存在を認識していない・・・。だけれども、驚きをもって繰り返して言うが、これらの不幸な人たちは、知的能力を完全に失っているために、もはや我々と同類にも属さず、それかと言って動物種に属さないようにさえ思われる。癒しがたいほどに病に襲われたこれらの人々は、生物よりももっと無気力な人間としてあり、長い人生をずっと生きてきて、入念な手当てと充足とに取りまかれている。彼らはそのことを意識しないのだが・・・。間違いなく、もはや見かけが人間ではないようなこれらの不幸な人々にまで人間の尊厳の原理を尊重することはすばらしいことである・・・。」
「エルバン博士は壮年の人であるが、非常に才気煥発で気品のある顔立ちである。まなざしは深く、その慧眼はすばらしく、それでいていつも微笑みを絶やすことがない。その声は耳に快く響き、わざとらしくない。彼が精神病者に語りかけるときは、まるで愛撫するがごとくである。そう、心地よい語調、柔和な語り口はこれら不幸な人々の生来の怒りっぽい性格を鎮め続けるのである。かなり前から彼は、かつて狂気の治療で用いられていた、鎖とか、打擲とか、シャワーを浴びせるとか、とりわけ隔離とかの恐ろしい矯正手段(いくらかの例外的な症例を除いて)に哀れを覚え、優しく接し続けてきている。
その高い知性は、偏執が、狂気が、恍惚が、監禁や暴行によって強められてしまうと理解していた。精神病者を孤独にしたり脅したりすることは害を増すだけであり、また逆に、彼らに共同生活を送らせると、気が散ったり、混乱したりして、固定観念固執する機会を妨げてしまう、とも理解していた。」
「疑いなく、数年のうちに、共同房という現実の監獄システム、すなわち、徒刑場があり、鎖があり、晒し台あり、死刑台ありという実際のおぞましい訓練(ecole)は、間違い、野蛮、残虐であるとみなされるようになるだろう。精神病者に加えられていたこれまでの施療は、今日では、不条理で恐ろしいように思われるのである。」
「(原著による注)そう言えば、衛生的な清潔さの研究を計画した慈善的な知性に対して、非常な驚きなしで見ることは不可能である。白痴者に備えられた共同寝室とベッド。かつてこれらの哀れな人たちが悪臭を放つ麦藁の中で埋まっていたこと、そして今ではそれは、本当にすばらしい手段によって申し分のない衛生状態に保たれた、すばらしいベッドであるということを考えれば、もう一度、悲惨な状態の緩和に身を捧げる人たちを賞賛せずにはおられない。動物がその主人に対する感謝と同じではない感謝が期待されるはずだ。ただただ人間性という聖なる名の善行によってなされている。立派で、偉大だとしか言いようがない。ビセートルの管理者と医師をどれだけ賞賛してもしすぎることはない。さらに際だつのは、そうしたことを支えているのが、かのフェリュス博士の高度で公平な権威である。彼は、精神病者救済院の全体的な監督の任にある。彼のおかげで、すばらしい精神病者に関する法を得た。学問的かつ深い観察に基づく法である。」
2.『イリュストラシオン』誌 第4巻(1844年)
ピネルの時代から、ビセートルに収容された白痴者たちは、狂人たちと完全に一緒にされていた。害を及ばさないとみなされた者及び有益になりそうな者たちは、使用人としてあるいは単純な人夫として、その知性に応じて病院で奉仕した。フェルス氏は、技芸のあらゆる源を超えるものとして長い間みなされてきた、それ故にまったくやる気を起こさせないこれらの不幸な状態の者(=白痴者)を精神病者たちから完全に切り離すことを、主張していた。同時に、さまざまな試みが、微かな知性を完全にするための方向性でなされた。学識の深い看護人が最も知恵の遅れた白痴者に読み書きの練習をなす責務を負うこととなった。(*医学博士以外に白痴者たちに教育訓練をなしていたことが分かる記述。この「看護人」はセガンではない。)
それに関しては、ヴォアザン氏は、ド・セヴル通りの救済院の癲癇患者と白痴者の医療業務の任務を帯びていたが、癲癇患者に、1830年から、特殊教育の力で、不完全でまちがったやり方で組織された知能を多く獲得してしまう可能性に注視していた。彼は1833年に横隔膜矯正の施設を設立した。そこで彼の理論が適用された。白痴者たちはビセートルに委ねられたが放置されたままの状態であることを残念に思い、彼は、1839年にビセートルの救済院の業務を引き受けた時に、白痴者たちのために、ド・セヴル通りで不幸な境遇にある兄弟たちに行ったことを施設管理が行うよう、要求した。この願いは部分的に叶えられた。ビセートルの白痴者街はつねに非常に悪い状態にある。しかし2年後、これらの知性の劣る子どもたちは特殊教育を受けることになる。
当該事に関するたくさんの新しい理念とすぐれた方法を担った一人の卓越した教育者、セガン氏の手に委ねられたことによって、白痴者たちは基礎的な観念を獲得している。それなくしては共同生活に参加する状態にはならないのだ。我々は、彼によって開発された体と心の教育のその方法の理念に適うような空間を準備できなかったことを、残念に思う。時間をかけ、またとりわけ根気よく、あらゆる苦難のもと、本当にすばらしい成果を得ていたのに。


エドゥアール・オネジム・セガンという人
エドゥアール・オネジム・セガン(米国名:エドワード・セガン)は、1812年に、フランス東部の小都市ニエヴル県クラムシーで、医学博士の医師を父とする家庭の、3人きょうだいの長子として生まれ育った。10代後半にはパリに出、サン=シモン主義者(サン=シモニアン)として社会・教化運動に参加し、また芸術評論を著した。そして、重度の知能障害を持つ子どもに対する教育(白痴教育)を実践開拓し理論化した。さらには山岳派の共和主義者として社会・政治運動にも参加している。1850年頃にアメリカに移住し、アメリカにおける知能障害を持つ人たちの教育・福祉等に貢献した。そのまま故国に帰ることなく1880年にニューヨークで没している。ニューヨーク市立大学から医学博士の学位を授与された。

<参考>1 精神薄弱問題視研究会編『人物でつづる障害者教育史』日本文化科学社、1988年に見るセガ
セガン(Séguin, Edouard Onesimus(ママ) 1812-1880)
 エデュアル・セガンは、フランスのニーブル州クラムシーの医者の家に生まれ、アメリカのニューヨーク市で死去した。近代精神薄弱児教育の確立者として位置づけられる。
 セガンが晩年に記した思い出によれば、ルソーの『エミール』に共鳴していた彼の父親は、子どもたちと一緒に遊具を手作りして遊んだり、できるだけ田園の生活の中で事物と経験を通して自発的に学ばせようとしたという。こうした知的雰囲気と自然の中で育ったセガンは、都会で中等教育を終了した後、さらに医学校で内科、外科等を学んだ。1837年、セガンは「アヴェロンの野生児」の教育実験等で高名な老イタールの指導を受けつつ、初めて1人の「白痴」児の教育に取り組んだ。翌年イタールは亡くなったが、引き続き、ピネルの高弟エスキロルに師事し、その結果を彼と連名で『われわれの14ヶ月間の教育実践』(1839)という小冊子にして発表した。その後、サルペトリエール院やビセートル院の『白痴児』の教育・治療にも携わった。青年セガンが「白痴」と言われる人々の研究と教育を開始した1830〜40年代のフランスは、産業革命による深刻な社会問題が顕在化し、社会改革を目指す様々な運動が活発に展開された時代であった。サン・シモン(Saint-Simon)の主張に共感し、その派の有力メンバーとも交わっていたセガンは、『新キリスト教主義』(サン・シモン著、1825年)の思想に基づき、自らの「白痴」教育の仕事を「最も低い、最も貧しい階級を、最も速やかに向上させる」ための社会的実践として位置づけた。そして、「白痴のマグナ・カルタ」と激賞された最初の体系的著作『白痴の道徳的治療、衛生および教育』(1846年、全734頁)には、「本書の生みの親はサン・シモン派である」と謙虚に記している。だが、1848年の「二月革命」の後、政治的反動が始まり、共和政支持者への弾圧も強まってきた。そこでセガンはアメリカに新しい希望を抱いて、家族とともに移住した。アメリカでは、1860年ペンシルヴァニア州立白痴学校の校長を短期間ながら務めた他、各地の精神薄弱者の教育・保護事業の推進に指導的役割を果たした。1873年、ウィーン万国博覧会の教育部門に関する合衆国委員としてヨーロッパに行き、『教育に関する報告書』(1873)を合衆国政府に提出した。1876年、「アメリカ白痴および精神薄弱者施設医務職員協会」の初代会長に選ばれた。セガンの生涯で最後の大きな事業は、ニューヨーク市に「精神薄弱および身体虚弱な子どものための生理学的学校」を創設したことであった。その学校の案内書に「私は教育に生理学を適用することに死ぬまでの歳月を投じる」と記した。かれの生理学的教育の思想や実践は各国の精神薄弱教育はもちろん、モンテッソーリ、ドクロリー等を通して世界の新教育運動にも大きな影響を与えた。
 セガンは、いかなる「白痴」であろうと「活動・知性・意志」をもった「統一体」であり、従って、彼らに同じ人間としての深く強い愛と信頼を抱き、その障害の整理=心理的事実についての科学的理解に基づく、系統的で総合的な教育的治療を行うならば、必ずその障害を軽減し、能力・人格を高めてゆくことができるのだ、と言うことをその生涯にわたって実践的・理論的に追求した。その体系が「生理学的教育」であり、その根底にはルソーの「自然主義教育」の思想が流れている。それは「白痴」を直接の対象としたが、その意図するところは人類全体の福祉の向上であり、人間教育としての普遍性の探究にほかならなかった。セガンの先駆性をそこに見たい。(清水寛)

<参考>2 Museum of disABILITY Historyアメリカ合衆国)に見るセガ
エドワード・セガン(1812−1881(ママ))
エドワード・セガンはフランス、クラムシーに生まれ、学業のためにパリに上った。1837年に、彼の指導者となるジャン・マルク・ガスパル・イタールと出会った。
セガンはサルペトリエール精神病院の主任医師エスキロールの下で働いた。彼はエスキロールとの共著を出版し、ビセートルで、フェリックス・ヴォアザンの下で大勢の患者の指導を任せられた。その初期からセガンはビセートルの管理者たちとの間でトラブルを起こし、1834年<注:1843年の誤記>フランス医学界によって追放された。
1850年、彼はアメリカ合衆国に移住し、ボストンのサムエル・グリドリィ・ハウの学校で仕事を得た。しかしまもなくそこを去り、後にシラキューズ州立学校となる機関で、ウィルバー博士と合流した。彼はエルウィン州立学校の校長となった。
セガンは生理学的方法を導入したことでアメリカでは非常によく知られている。この方法は、白痴という状態は中枢神経系の変性に起因しているという考えに基づいている。神経系を強化することが人間の統制能力を改善させるに違いないと、彼は信じた。彼は身体訓練と感覚の発達の効用によって、発達障害のある人の認識諸能力が増大するはずであると気づいた。
セガンは、知的障害を持った人々は教育可能であり、それによって物事を為すようになることができると、信じた。彼は、言語訓練と自己介護技能に照準を合わせることに多くの時間をかけた。これは、白痴状態は治療できないとか患者たちは改善されえないとする時代の支配的な見方に抗する見方であった。<参考>3 フランスのセガン研究者による最新の年譜
 これまでのすべての「セガン研究」の中でもっとも信頼できるものである。しかし、秘密結社「家族協会」への加盟などセガンの急進的な政治・社会運動についてはまったく言及していないし、ビセートル救済院を罷免された後、セガンは「白痴教育」に携わったとしているが、資料的に確認されている事柄ではないなど、今後検討を要する事柄もある。
 原文をそのまま訳出すると長くなるので、抄訳にした。
1811 : セガン父夫妻の結婚。セガン家は新婦の家に42,000フランを払っている。
1812 : 1月20日セガンの誕生。戸籍名はオネジム=エドゥアール・セガン。オーセールのコレージュを経て、ルイ・ル・グランで学ぶ。
* ルイ・ル・グランは誤り。
1830-1832 : サン=シモン主義運動に加わった、それがセガンの生活の中心理念となる。
1836 : セガンの著書出版予告がなされた、「芸術論入門」。
1836 : ジラルダンの『ラ・プレス』紙に3本の芸術評論を発表。
1837 : 重病に罹り、人生を転換。イタールの指導の元で白痴の子どもの特殊教育に従事。
1839 : 第1著書『H 氏へ/われわれが14ヶ月前から為してきていることの要約/1838年2月15日から1839年4月15日まで』出版。
1839 : 第2著書『子息の教育に関するO…氏への助言』出版
1839 : モルピュルゴ医学博士がセガンの白痴教育の理論についてかなりの字数で紹介。
1839 : 11月、王立公教育に関する評議会が、白痴の子どもの教育のための施設を開くことを許可。
1840 : ピガール通りに私立学校を開設。
1840 : 11月、パリ救済院総評議会が、ド・セヴル通りとファブール・サン=マルタン通りの救済院の白痴の子どもたちの教育のために、「白痴の教師」の資格で実験する許可。
1841-1842 : 救済院での教育の結果を2冊の書物『遅れた子どもと白痴の教育の理論と実践』に著す。
1842 : 10月12日、救済院総評議会がビセートル救済院での教育実験を許可。
1842 : 結婚。相手の女性のことは名前も含め、分かっていない。息子は、エドゥアール=コンスタン,1843年生まれ。 
* だが、詳細については検討を要する。というのは、1846年の著書に「この本は私の息子の揺りかごの横で、同じ光のもとで縫い物をする妻の横で書かれたものである。」との記述が見られる。このことから推測すると、息子の誕生は1843年より2年は後になるだろう。そうすれば結婚の時期も異なってこよう。
1843 : 『白痴の衛生と教育』出版。セガンの白痴教育論が確立した。
1843 : ウージェーヌ・シュー『パリの秘密』でビセートルの白痴学校を賛美。
1843 : 8月25日、医学アカデミーの委員会がビセートルのセガン学校を視察。
1843 : 12月11日、科学アカデミーで、医学博士パリゼがセガンの方法に対して非常に好意的な報告をなす。
1843 : 11月、ビセートルの管理者と諍い。セガンがてんかんの子どもに関わらないことのために。12月20日罷免される。
1844-1846 : 白痴の子どものための特殊教育を継続。
1846 : 5月、『白痴の精神療法、衛生と教育』出版。734頁の大著。批判者への攻撃舌鋒が鋭い。
1847 : 発話法の開拓者ペレール伝出版。
1847 : クレアトン医学博士が長い『1846年著書』紹介文を発表。
1848-1849 : 1848年から1849年のセガンの政治的医学的活動は不明。 
* 山岳派共和主義者としての活動を継続している。
1850 : アメリカ合衆国移住を決意。
1851 : ボストン、バレ、クレーヴランドで、白痴の教育施設創設の助言。
1854-1857 : アルバニーの実験学校で、医学博士ウィルバーを援助。
1857 : 妻の病気のためフランスに戻ったと言われる。
1861 : ニューヨーク市立大学で医学博士号を受ける。
1863 : ニューヨークに永住。
1866 : 『白痴とその生理学的方法による治療』出版。軍医の息子が協力。
1867 : 医学用体温計を開発。
1870-1871 : 1870年父、1871年母、死。
1873 : ウィーン国際博覧会に、アメリカ合衆国の教育委員として派遣される。『教育に関する報告』をまとめる。
1879 : 生徒の一人エリーズ・ミードと結婚。生理学学校創設。
1880 : 10月28日死去。
1898 : 息子死亡。
1930 : 妻エリーゼ死亡。

研究史の特徴>
 博士論文
 Mable E. TALBOT, ÉDOUARD SEGUIN, A Study of an Educational Approach to the Treatment of Mentally Defective Children. Burrau of publocations ― Teachers College, Columbia University, New York, 1964.
資料集
 Y. Pélicier et G. Thuillier, Un pionnier de la psychiatrie de l’enfant Edouard Séguin(1812-1880), Comité d’histoire de la sécurité social, 1996
 我が国における研究の集大成
  清水寛編著『セガン 知的障害教育・福祉の源流 ― 研究と大学教育の実践』全4巻、日本図書センター、2004年
 ★1.生誕からアメリカ合衆国への移住までのフランス時代のライフ・ヒストリー
 ★2.知能障害教育展開過程の論理検証
 に不十分と言わざるを獲ない。


ライフ・ヒストリー史料(主として公文書による)
父の生誕(ヨンヌ県クーランジュ・シュール・ヨンヌ)
 1781年2月16日、本パロワスの薪商人フランソア・セガン氏とその妻マリー・テレーズ・ギマール夫人との息子、ジャック・オネジムが誕生し洗礼が施された。ジャック・オネジム君の洗礼には、パン屋を営む代父フランソア・ミショウと娘ユージェニー・セガン夫人の代理の娘の代母マリー=シモンヌ・セガンが立ち会った。いずれも本パロアス(小教区)の者である。かれらはわれわれと共に署名をした。
(Act de Baptême du dernier enfant de François SEGUIN, Archives départementales D’Auxerre, Série 2E 119, 3 BM3, 1766-1785, Coulanges-sur-Yonne.)
母の生誕(ヨンヌ県オーセール)
 1793年9月16日、フランス共和国2年、午後4時、オーセール役場の、ラ・リヴィエール地区担当の公吏である私ニコラ・ジャック・ムールのところに、当市ド・ポン通りに居住する市民ジョセフ・ユザンヌが出頭し、昨日夜9時に誕生した女児を小職に見せた。その子は氏と妻マリー・アニエス・ペロニエとの間にできた子どもで、ファースト・ネームをマルグリットと名づけられた。
本証書は、当市に居住するムーリス・デュランとジャン・ジョセフ・テナントの立会いのもとで作成され、子どもの父親および私と共に署名した。
(Acte de naissance de Margueritte UZANNE, Archives départmentales d’Auxerre. Série 2 E 24, Naissance an II, Auxerre)
父母の結婚(ヨンヌ県オーセール、ニエヴル県クラムシー)
1811年4月29日夜8時、市役所の、われわれ助役、戸籍係のところに、ジャック・オネジム・セガン氏、30歳、クラムシーの医師 ― クーランジュ・シュール・ヨンヌで(共和暦)6年牧月23日に死去した故フランソア・セガン氏とクーランジュ・シュール・ヨンヌで9年収穫月19日に死去したマリー・テレーズ・ギマールの息子 ― と、マルグリット・ユザンヌ嬢、17歳、オーセール居住 ― 既にフィアンセを引き合わされ娘の結婚に同意した商人ジョセフ・ユザンヌとマリー・アニエス・ペロニエの娘 ― とが出頭した。既にわれわれは、今月14日ならびに21日に、両人の結婚式を執り行い市役所の正面玄関に結婚公示をなすよう、要請されていた。同様のことはクラムシーにも届け出られている。
この結婚の妨げとなるものは何も無いゆえ、われわれは、結婚に関わる書類のすべてと民法典第6条とを読会した後、かれらの求めにただちに応え、われわれが式を執り行い公示を為した次第である。われわれは未来の夫と未来の妻にそれぞれが夫となり妻となる意思があるかと訊ねた。二人はそれぞれ、その意思があると応えた。われわれは、法の名において、ジャック・オネジム・セガン氏とマルグリット・ユザンヌ嬢が、保証人クラムシー居住の兄ジャック・セガン・ブーヴェ、保証人義兄ジャン・バプティスト・モノ、保証人兄の商人アントワーヌ・ユザンヌ、ならびに保証人オーセール居住の代訴人アントワーヌ・マレの立会いのもとで作成された証明書に基づく婚姻によって結ばれたことを宣言した。  
続いて、出席者全員に本証明書が読会され、われわれをはじめすべての保証人が署名した。 
(Act de mariage de Jacque Onésime SEGUIN et Marguerite UZANNE., Archives départementales d’Auxerre, Série 2 E, NMD 1811, Auxerre.)
セガンの生誕(ニエヴル県クラムシー)
 1812年1月22日午前11時、小職ことコミューン長テネール・デュラック氏によって権限を委嘱されたクラムシーの副戸籍責任者ジャン・バプティスト・ピエール・フランソア・サロのところに、旧クラムシーのオ・バー・プティ・マルシェ通りに居住する医学博士ジャック・オネジム・セガン氏31歳が出頭した。その時小職は、申告者自身とその妻マルグリット・ユザンヌ夫人との間に今月20日夜8時に生まれた男児を見せられた。氏はその子にオネジム・エドゥアールとのファースト・ネームをつけると告げた。当該の届出は、ともに旧クラムシーに居住する間接税収税吏ジャック・セガン・ブーヴェ氏36歳と医学博士ガブリエ・ピエール・サレ氏67歳の立会いのもとでなされ、小職が本証明書をかれらに読会した後、父親、立会人、小職とが署名した。
(Acte de naissance de Onésime Edouard SEGUIN, Archives départementales de Nevers, Série IV E, NMD 1811-1812, Clamecy, No 11.)
セガンの体質(20歳の時の徴兵検査結果)
クラムシー・カントン
53番
セガン・オネジム・エドゥアール
パリのアパルトマン入居者
職業:法学部学生
所見:右手にゆがみがあり虚弱体質
兵役可能、召集兵第19番を引き当てる
 (Recensement Canton de Clamecy, Archives départementales de Nevers, Série R)

セガンの学歴
1. オーセールのコレージュ・ジャック・アミヨ
セガン家は寄宿料として年額400フラン、教授への報酬として年額20フランを支払っている。
(Archives Nationales AJ 16 114. 寄宿費等の記録は1825年のことである。)
2. パリのコレージュ・サン=ルイ
 「サン=ルイ王立コレージュ 受賞者一覧」の「1829年8月18日の記録」より 
数学特別進学クラス第一年次
ゴダン氏、教授
第四次席賞 セガン(エドゥアール)
クラムシー生まれ
 ヴァンサン氏のアンスティテュション
 (Archives Nationales AJ 16 94)
3. パリ法学部
 「パリ法学部学籍簿」より
セガン(オネジム・エドゥアール)
ニエヴル県クラムシー郡
1812年1月20日生まれ
パリのバカロレア有資格者
1830年11月5日 第1学籍登録
1831年 1月14日 第2学籍登録
1831年11月14日 第3学籍登録
1832年1月16日  第4学籍登録
1832年4月13日  第5学籍登録
1832年7月14日 第6学籍登録
1833年11月4日 第1回試験
1833年11月14日  第1回バカロレア有資格者
1833年11月15日 第7学籍登録
1835年1月12日  第8学籍登録
1835年3月10日  第9学籍登録
1835年4月8日  第10学籍登録
[年月日欄空白] 第11学籍登録
[年月日欄空白] 第12学籍登録
1835年3月10日  第2回バカロレア有資格者
1841年9月24日  第3回バカロレア有資格者
 (Archives Nationales AJ 16 1619.)
4. パリ医学部
 1843年1月27日付けで、公教育大臣は視学長官に「セガン氏に、医学博士号取得のための4年間の学籍費用支払い」を命じている。不就学。
(Archives Nationales AJ16 23)

サン=シモン主義者セガ
 1831年5月9日、サン=シモン「家族」会合の席でのこと
 我らが父、世界に我らを施された、この世を我らの愛にお任せになった、現世神の子、サン=シモンの名において、人間味溢れる家族の側で、我らは、汝等の父たちは、我らの最高の言葉で、我らの子どもの何人かを選び抜いたことを告げるものである。
 予備位階 ― フィステおよびディジェ、そして我がオリビエの父、汝等の使命は大きい。新しい楽園の鍵は汝等の手にある。やがて全人類が今日汝等に委ねられたこの聖なる門を押すだろう。汝等は、汝等に感謝を捧げる多くの汝等の息子のためにその門を開ける。汝等の父たちは汝等を祝福する。
 第3位階 ― レバゼイユ ― ボナミィ ― ロビネ ― ベランジェ ― セガン ― は第3位階のメンバーである。タラボとランベルとは第3位階の長にして、汝等の子どもたちは予備位階に昇進することになる。また汝等は、汝等の兄弟、汝等の息子であるにふさわしい者たちとして、以下の汝等の父親たちに引き合わされる。
 ボー、ペレール、リゴー、ジェルー、ディゲ、フィステ
 かれらは第2位階のメンバーである。(以下略)
(Œuvre de Saint-Simon et Enfantin, Dentu, 1865-1867. Volume III, Paris, pp. 109-110.)

山岳派共和主義者セガ
1.1835年5月26日に、セガンは、秘密結社「家族協会」の会合を持っているところを警察当局に踏み込まれ、他のメンバーとともに逮捕された。山岳派に属した。
(Jacques Grandjonc, Communisme/ Kommunismus/ Communism. Origine et développement international de la terminologie communautaire prèmarxiste des utopistes aux néo-babouvistes 1785-1842, Pièces justificatives.Trier, Karl Marx Haus, 1989. pp. 397-401.)
「家族協会」の綱領
第 1 現在の政府をどのように思うか? ― 人民と祖国を裏切っている。
第 2 政府は誰に利益をもたらせているか? ― きわめて少数の特権階級に。
第 3 今日、どのような人が特権階級であるのか? ― 金持ち、銀行家、商人、独占商人、大地主、相場師、一言で言えば、人民を犠牲にして太る搾取者。
第 4 かれらを真正面から支えているのは誰か? ― 軍隊。
第 5 社会の主な悪徳は何か? ― エゴイズム。
第 6 名誉、誠実、徳の代わりになっているものは何か? ― 金。
第 7 現代社会で尊敬されるのは誰か? ― 金持ちと権勢家。
第 8 軽蔑され、迫害され、法から外されているのは誰か? ― 貧者と弱者。
第 9 入市税権、塩・飲み物税権をどう思うか? ― それはひどい税だ。人民から金を搾り取り金持ちの蓄えに回されてしまう。
第 10 人民とは何か? ― 人民とは働く市民の集合体だ。
第 11 人民は諸法によってどのように処遇されているか? ― 奴隷として処遇されている。
第 12 金持ちの政府のもとでプロレタリアの境遇はどのようであるか? ― プロレタリアの境遇は鹿や黒人奴隷の境遇と似ている。
第 13 ちゃんとした社会に有益な基盤となる原理は何か? ― 平等。
第 14 非常に整った国家の市民の諸権利は何であるべきか? ― 生存の権利、無償教育の権利、政治の参加・参与の権利。市民の諸義務は、社会に対する忠誠および同胞に対する友愛。
第 15 政治革命ないしは社会革命はなされるべきか? ― 社会革命がなされるべきである。(以下略)
(Rapport – Fait à la cour, par M. Mérilhor, pair de Frane, L’un des commissaires chargés de l’instruction du procès déféré à la cour des pairs, par ordonnance royale du 14 mai 1839.)
2.1848年3月2日、「共和政の防衛を信頼できるすべての愛国者に訴えるために設立された委員会」設置宣言署名者(山岳派
不断の警戒、見識ある愛国心、断固とした犠牲的精神、それらは臨時政府を動かす感情であり、それらは共和政が求める感情である。そうした感情を持つが故に、よきすべての市民はなんと臨時政府を援助することか!
1830年の争奪戦の数々の記憶が激しい欲望を蘇らせた。その欲望は緊急に抑制されなければならない。すでに、悪賢い奴らは、大いに妄想あるいは術策をもって、ほとんど受けるに値しないにもかかわらず、任命された。奴らは宗教を利用して政府に取り入った。政府にそのことを明らかにしてやるには、今が絶好の時である。
臨時政府が悪い方へ悪い方へと転がっていくのを阻止するために、数多くの信頼できる市民は、澄み切った心で持ち続けてきた愛国心の助けを求める責を負った委員会を、選出した。献身的な市民は、かつてないほど緊密に同盟を結ぶ必要のあることが、分かるだろう。共和政の救済はそれらの同盟にこそよっているのだから。
このアピールは数多くのパリの愛国者のみでなく、全フランスの愛国者たちに発せられている。政府は、相も変わらず勝利の翌日に出没するこれらの猛禽どもの素性を明らかにしなければならないし、フランスが新しい専制君主制になり続けることから免れるようにしなければならない。これがアピールの内容だ。
市民ソブリエは加盟を受け付けるための代表に選ばれた。ソブリエは、ブランシュ通り25にある警察省の前人民代表である。
(冊子グラビア参照)

文学者セガ
1.『ラ・プレス』紙寄稿 1836年
1836年8月3日号(第29号)の「雑報」欄、同年年9月8日(第60号)「文化」欄、同年9月22日(第72号)「文化」欄の3本である。それぞれ、「芸術 ― 芸術批評について(第1論文)」、「芸術 ― 批評に見られる偏狭な原理について(1)(第2論文)」、「芸術 ― 芸術批評―積極的批評 (第3論文および最終論文 )」と題されている。9月22日号をもって一連の芸術批評を締めている。
(冊子グラビア参照)
2.「筏師たち」 1841年
(LES FLOTTEURS, Le Prisme, Album des Français forme le tome IX des Français peints par euxmêmes. Paris. 1841. pp.40-43.)


知的障害教育開拓史料

(1)1838年2月から、イタール の指導下にあって、セーヌ川右岸2区カルチェ・ラ・ショッセー・ダンタンのラ・ショッセー・ダンタン通り41の自宅アパルトマンで、アドリアン・H(Adrien H.)という唖で白痴(あるいは痴愚)の少年に対して行った実践(「第1実践」)。私塾実践に発展する。
(2)1840年1月3日に出発した公教育大臣公認の、セーヌ川右岸2区カルチェ・ラ・ショッセー・ダンタンのピガール通り6の寄宿制の私立学校における実践(「第2実践」)。
(3)1841年10月から6ヶ月間、セーヌ川右岸5区カルチェ・ド・ラ・ポルト・サン=マルタンのフォブール・サン=マルタン通り男子不治者救済院において、白痴の教師という肩書きで、救済院総評議会によって招聘されて行った実践(「第3実践」)。
(4)1843年1月からパリ南郊外クレムラン・ビセートルの男子養老院内にすでに設置されていたécole(訓練施設)における、やはり白痴の教師としての実践。同年末には救済院総評議会によって罷免された(「第4実践」)。

第1実践:基本史料(セガン著書)
・Édouard SEGUIN, À Monsieur H….. Résumé de ce que nous avons fait Depuis quaterze Mois. Du 15 février 1838, Au 15 avril 1839, Imprimerie de Madame Porhmann, Paris, 1839
・Édouard SÉGUIN, Théorie et pratique de l’éducation des enfants arriéres et idiots – Deuxième trimester leçons aux jeunes idiots des Incurables, Chez Germer Ballière, Paris. 1842.
・Édouard SÉGUIN, Traitement moral, hygiène et éducation des idiots et des autres enfants arriérés au retardés dans développement, agités de movements involantaires, débiles, muets non-sourds, begues etc., Chez J. B. Baillières, Paris, 1846
・Edward SEGUIN, Idiocy: and its treatment by the physiological method, William Wood & Co, 1866. その他論文。

第2実践:基本史料
 ・公教育大臣ヴィルマンが視学長官ルッセルに宛てた1839年10月31日諮問
感覚がなく、知的能力もほとんどない白痴児の教育に適用可能な教育のやり方の発明者であると自称するセガン氏が、氏の方法に適った公認の私立学校を開くこと、及びそれを氏自身の手で為し、それによって得られるであろう結果について特別委員会で証明されることを許可されたいと、私に申し出てきております。私は、本状に添付した氏の要求を試み、請求者の方法が提示されうる有効性に関する報告を私になされることを、貴殿に要請するものであります。
  (Archives Nationales AJ 16, 156. なお、同文書の欄外に、「要請は1839年9月6日付けで、公教育大臣に宛ててなされた。セガンの住所ラ・ショッセー・ダンタン通り41」と記入されている。)
 ・公教育大臣の諮問に対する1839年12月7日視学長官答申
白痴の子どもの教育に従事し、その惨めな状態に置かれているにもかかわらず知的状態が訓練によって確認されるであろう生徒たちに、教育の方法を実験することの許可を得たいと願い出ているエドゥアール・セガン氏の要請に対し、閣下に本状を謹んでお送りいたします。
   請求者は、私が本状に添えております文書において、かれが具体的成果を得ようとしていることを文書で説明しております。かれが口頭でなした別の展開に関しては、 ラングロア氏は、セガン氏の報告書の要約を口頭試問で確かめておられますが、その結果、その文書を認め、人間性と公平性の観点からまったく賞賛すべきことであると心惹かれておられます。私も氏の意見に同意いたします。
(Archives Nationales AJ 16, 156.)
・公教育に関する王立評議会による公教育大臣への1839年12月20日答申
報告者、評議員オルフィラ
評議会は
白痴児が、衛生治療のみならず、声の、すなわち話すことの習慣を得、知性を啓かれるという観点で、知性を伴った教育指導を果たすような施設を、ユニヴェルシテの監督の下、自費で、自身の責任でつくることを許可されんとの医学博士エドゥアール・セガン氏の要望に鑑み:
初等程度の教師を1人、その施設で雇うとの条件で、要望された許可に同意して当然であると決定した。
  (Archives Nationales F 17 12875. No 5794)
・公教育大臣から視学長官に宛てた1839年12月31日付け書簡
視学長官殿
  私は、医学博士セガン氏によって提出されていた、白痴の子どもたちのための教育施設をパリに設立許可を得たいという要請を、公教育に関する王立評議会に諮問しました。
   初等程度の教師1人をその施設に雇用する条件でかれが願い出た許可を認めてしかるべきであると、私は決定しました。
   この旨を、セガン氏にご通知くだされたく。
敬具
フランス貴族院議員
公教育大臣
ヴィルマン
(Archives Nationales AJ 16, 156. なお、同文書欄外に、「通知はピガール通り6セガン氏に1840年1月3日になされた」と記入されている。)
・1841年2月4日付『裁判記録』より
その名がろう唖の若者たちの教育で非常に立派な方法と結びついているド・レペ師を手本にして、セガン氏は、白痴の若者たちの教育に身を委ねる博愛主義的な思想を抱いてきている。(中略)セガン氏は、ピガール通り6に、アパルトマンを借り、そこにかれの学校を設置した。セガン氏のもとに子どもを預けようとか、かれの教育や子どもに施している治療に関する情報を得ようとかの目的でやってくる、たくさんの両親たちの訪問があった。ところがこれらの訪問客はいっさい目的を果たすことはなかった。(後略)
1840年6月24日付けビセートル救済院長・フェリュスによる内務大臣シャルル宛て報告書
「貴下は私にピガール通り6に、若い白痴の子どもたちの教育のためにセガン氏によって開設された施設を訪問し、その博愛的な事業によってかれが得た結果について私が理解したことを報告せよと、お手紙を下さいました。」・・・8歳の白痴児に読み、書き、計算、話すことなどの成果が見られること、白痴の若者Mの進歩・向上を自身が目撃していること、生徒Aに対しては3ヶ月でアルファベが綴れるようになったこと、などを内容とし、「セガン氏はこの困難な仕事において、非常に強い意志、驚くべき忍耐そして豊かな人間性」を備えた人物であります。」
(Le rapport de FERRUS sue l’école de la rue Pigalle’, Yves PELICIER et Guy THUILLIER, Un pionnier de la psychiatrie de l’enfant Edouard Séguin(1812-1880), Comité d’histoire de la sécurité social, 1996.pp.26-32.)
(内務大臣シャルルは「パリの施療院、救済院および在宅援助の管理評議会」(「救済院総評議会」)の最高管理者である。内務大臣がフェリュスにピガール通りの学校視察を命じている。何故に?)

第3実践:基本史料
・救済院総評議会1840年11月4日決定
  「セガン博士は、かれ自身の手によって開発された独自の方法を、白痴たちの治療に適用することを許されていること」、「セガン氏は、その到達を以て、現在、その業務のさらに大きな展開を得ることあるいは為すことを願っていること」、「それを受けて、評議会は、不治者救済院でセガン氏を白痴の子どもたちの教師として管理下に置くこと」を内容とする決定
(この会議の記録は「救済院総評議会決定等文書綴」AP-HP古文書館蔵で欠番となっている。しかしながら、会議の内容は、1842年6月29日の第2部局(不治者救済院部局)の審議結果記録(No 91599)に、その概要が記録されている。引用は同審議結果記録によっている。この記録原簿にあるm le Docteur SÉGUIN(セガン博士氏)の記述でle Docteurに太くふぞろいの黒線が引かれているが、明らかに、後日、誰かの手によって上書きされたものである。(グラビア参照))

第4実践:基本史料
・救済院総評議会1842年6月29日決定「男子不治者救済院の白痴の治療の任にあるセガン博士からなされた請願を検討するための委員会の任命」
  (第85950号1840年11月4日決定趣旨を継承して)
   現に、ビセートルにせよ不治者救済院にせよ、セガン氏に身柄を預けられうる一定数の子どもがいることを鑑み、氏によって適用された治療の結果と、場合によってはそれを大部分の子どもにも当てはめるという可能性とを、委員会に確認させる任を負わせるべきこと。
   評議会は、
   報告者の結論を採択し、
  次のことを決定する。
   オルフィラ、フシェルおよびアルペン各氏の3人の救済院総評議会メンバーと、 ブロンデルおよびバテュ各氏の2人の、不治者救済院(男子)に所属する管理委員会メンバーで構成される委員会が、セガン博士によってその施設の白痴に適用された治療の結果と場合によっては大多数の子どもに通じる可能性とを確認するために、組織される。
   本決定は第2部局に速やかに送致される。
(la collection des minutes des arrêtés du Conseil général des Hospices No 91599)
・救済院総評議会1842年10月12日決定 雇用の決定
  1.セガン氏は、1843年末まで、氏が不治者救済院の白痴の子どもたちに適用していた教育の方法の試みを、養老院(男子)の多くの白痴の若者たちに対して為すために、引き続き招聘される。
2.かれは賄い付きで施設内に居住する。食事は第1食堂で摂る。またかれは後に決定される手当金を受け取る 。光熱費手当に関しては他の職員と同等の扱いとなる。
3.セガン氏は施設監督者の権限のもとに配属される。かれは、救済院の他の職員と同様、行政と秩序安寧のためのあらゆる決まりに従わなければならない。かれは常駐していなければならない。自身に委ねられた子どもの教育につねに時間を割かなければならない。
4.セガン氏と協力して第2部局を預かる評議会のメンバーによって選ばれた、白痴、てんかん、狂人の子どもたちは、直ちにビセートル救済院に移籍され、同類の子どもたちの部局に配属される。
5.第1部局および第2部局の評議会メンバーは、これらの子どもたちや、子どもたちがなじんだ家具調度類、下着類、上着類、仮寝のためのベッド、および、かれらが馴染んでいるあらゆる道具・器具を転院することについて、協議する。
6.1人の監視人がビセートル救済院の人員に加えられ、不治者救済院のそれは減ぜられる 。単純な変化でしかないけれど、このために必要な予算は1842年度と1843年度の追加予算項目として要求される。
   救済院長と精神医師たちはセガン氏によって採用される方法の過程と結果とを注目し続ける責を負う。
   1843年度の任期切れの際、この教育者によって得られた結果に関して、評議会に報告がなされる。
(la collection des minutes des arrêtés du Conseil général des Hospices No 92430)
・救済院総評議会第1部局1842年10月26日決定
  「男子養老院の教師、セガン氏に600フランの手当て」を内容とする。ただし、ただし、手当金400フランと「かれの方法の適用によって得られた結果がこれらの少年たちの教育に著しく認められるならば」年末に200フランを支払うという内容である。
(la collection des minutes des arrêtés du Conseil général des Hospices No 96493)
・救済院総評議会1843年12月20日決定 罷免の決定
  総評議会は、第1部局の管理者と男子養老院の特別監督の任にある総評議会メンバーとによって提出された報告書を聞いた後、セガン氏同席のもとでこの施設長と精神病医療を行う医師の1人との出席を得て午前中になされた調査の結果を踏まえ、
   セガン氏は、白痴教育の創造者であると自称し、白痴の教師としてその体系を白痴の子どもたちに適用することを許されたのだが、かれが、幾人もの不品行で有害な習慣を持つ子どもたちに習慣をつけることがなされ、その成果を上げてきたと、信頼に値するものを発揮していない、というのが報告内容であることを鑑み、
 決定する
   セガン氏の任は解かれる。直ちに職務を停止し、24時間以内に救済院を立ち退くこと。
(la collection des minutes des arrêtés du Conseil général des Hospices No.97067)

その他の関連事項について
★1.病弱児施療院との実体的関係があったかどうか
★2.病院・福祉施設における子どもの教育との関係性
★3.施療院・救済院の近代化過程との関係
「パリの施療院、救済院ならびに在宅援助管理総評議会」
 「弱者」の「子どもの教育」の進展  一方で「義務教育」困難

むすび―セガンの白痴教育論 
白痴者−この被造物は現在に至るまで嫌悪の目で見られてきた−を、次のように、道具に仕立てることは19世紀の精神にふさわしいものではない。人類学の啓蒙を計るために資すること、人間の本質の真実の理論は神性についてのより良き理解から生まれるということを証明するために資すること、さらにはわれわれと我らの創造主との間をこうしたヴェールの類で覆い隠すことに資すること。今は謎とされているが、来る世代は本当のこととして認識することだろうけれども。
しかし、本当の学問的な原理を見出したかと言えば必ずしもそうではない。原理を適用してみることは避けられない。それは、まさしく実践的な仕事であり、実際にやってみることと比較してみることで試したのだが、体系的でなく秩序立てられていないような原理はすべて誤りであったり、役に立たなかったり、不可能であったりすることが分かった。そうして、教授と発達についてそれまで蓄積されてきた根拠のないものすべてを取り除いた後、白痴者の治療は、人類の教育が幾世代もの時を重ねて辿ってきたと同じ歩みに従うようになったのである。すなわち、民族や個人の最初に必要としたことは活動的な感覚力である。その感覚力によって人間は、進み、行動し、闘い、そして勝利する。この必要性は、古代種族にとっては、競技スポーツや闘いの訓練への導きの源であった。テーベからリュクサーに到るところにみられる歴史的建造物にさえ私たちはその痕跡を見出す。私たち(=私)は、こうした古代の人びとの体育に、白痴者たちの教育の第一歩を見出したのである。
(Edward Séguin:Origin of the treatment and training of idiots, American Journal of Education, t. II, 1856.)<附>セガン家の資産

地番 面積 譲渡年 取得年 売却価格(1区画当) 売却価格(全体)
2265 7.80.70 1871 2.88 254.50
2266 6.93.70 1871 20.88 246.38
2266 6.90.45 1871 0.41 244.78
2267 8.44.93 1871 0.27 253.54
2268 8.57.93 1871 9.28 253.67
2410 8.54.63 1871 9.85 53.14
2514 2.69.50 1871 6.11
2525 0.87.00 1841 8.12
2631 0.18.15 1871 0.96
2632 0.08.15 1871 0.08
2482 1.77.10 1871 5.31
193 1.67.40 1871 1.67
697 0.02.20 1855 1.60
698 0.00.05 1855
891 1873 200.00
891 0.09.95 1873 0.59
899 0.09.15 1871 0.09
2656 0.10.63 1871 1816 1.09
2657 0.58.95 1871 1816 1.77
2657 0.07.80 1871 1816 1.75
2660 0.25.05 1871 1816 0.25
2661 0.26.25 1871 1816 2.23
2769 0.25.50 1871 1816 2.12
2658 0.13.00 1871 1863 0.10
233.84 1306.01
総計 58.38.17 1539.85

クラムシー市の「ナポレオン地図」および「土地台帳」の、ある一頁について。「ナポレオン地図」はクラムシーのほぼ全体を地番で表しており、「土地台帳」は土地・家屋の所有移動が地番で示されている。
「土地台帳」の所有者見出し(No. 1231):所有者は、Seguin Onesime Medisin à Clamecy(クラムシーの医師、セガン・オネジム)、Seguin Edouard Medicine aus Etats Unis(合衆国の医師、セガン・エドゥアール)と記入されている。父親の死は1870年、母親の死は1871年セガンは遺産をそっくり相続し、1873年にはそれらをすべて手放した。つまり、1873年にクラムシーのセガン家は名実共に消滅したことになる。
所有者名欄に続いて、「移動の年」欄がある。これは所有権取得欄と所有権放棄欄(譲渡欄)とがあるが、取得欄の記入は1816年(6件)と1863年(1件)のみであり、あと(17件)は空白となっている。これは、セガンの父親が自力で取得したのが前2者であり、その他は父親がセガンの祖父から財産を継承したものと考えてよい。
セガン家はかなりの資産家であった。セガンが、パリで、続いてアメリカで、「白痴」教育などに携わった、その資金はどこから捻出されたのか。この両者が密接に関わっているのだろうというのが、現時点での推測である。先行研究では、セガンは財政的に窮乏していた、と断定的推定がなされている。彼自身の教育活動や文学活動などによる収入は、記録を見る限り、「窮乏」であったであろう。しかしながら、セガンの父親が家財産を担保としてセガンの諸活動を支えていた、という推定も可能な現時点である。
 全資産を総計すると延べで約60ヘクタール(60万?、60町)となる。その売却価格は総計約1540.00(1540百=15千4万)フランという計算になる。60万?の土地には旧市街の家屋がついているものも含まれる(地番三桁)が、大半が郊外である。地目は山林、農地と推定される。セガン家は地主階級でもあったとほぼ断定することができる。

<附> セガンの実践足跡と当時の医療福祉のため諸施設(19世紀末のパリ地図使用)

ラ・コミュヌ・ド・パリ研究会 O先生1

 たいそうご無沙汰いたしております。暑中見舞いの書状に添えて「新聞」38号39号をお送りくださいましてありがとうございました。着実に「パリ・コミュヌ」研究をすすめられておられるご様子に、大いに学ばせていただいております。
さて、私が先生の「新聞」の「読者」であるための姿勢はどのようなものであるべきなのかと、考えながら拝読いたしました。今回の記事で言えば、堺利彦論文の紹介は、私にとってきわめてありがたいものであり、感謝申し上げます。我が国における「パリ・コミューン」史観の一つの頂点を座学させていただけるわけですから。その点ではこれ以上のことを申し上げるべき事はないと思います。
ただ、堺利彦論文に付された注の中に、いささかの疑問を持つ箇所がいくつかあるのを、どのように先生にお示しすればいいのか、悩むところです。というのは、注記は先生自身がお書きになったものではない、ということにあります。たとえば、(第38号)注24の末尾に記されている「新聞も解消された」とは、おそらく「新聞も発行禁止等の政策によって弾圧され、発行ができなくされた」という意味内容だろうとは理解しますが、「新聞も解消された」という表現の仕方そのものはあるのだろうか、と思います。「先生の手になる文章ではない」(であろう)が故に、引用者の先生に責任はない、ということで果たしていいのだろうか、とは思いますが。
また、これは編集・表現の統一の問題に関わりますが、第39号「さっそく行きたいシテ島」記事中「ヘンリー4世」(右ページ)、「アンリ4世」(左ページ)とあります。いうまでもなく前者は英語読み、後者はフランス語読み、HENRI IVはフランス国王でありますので、フランス語読みで統一されてしかるべきかと思います。
他にもありますが、先生の手に全ての編集権がありますし、これまでも何度も「読者としての意見・質問」を申し上げてまいりましたが、一切のご回答をいただいていないので、これ以上は申し上げないようにいたします。「新聞とは編集権者の独白機関である」限り、私は、大変失礼な形ではありましたが、以前申し上げました「新聞ではない」という考えを変えるつもりはありません(「広報」「情宣」紙ではあると思います)。とくにヴィクトル・ユゴーの詩を「バリケードの上で」として引用された記事については是非ともお答えいただきたいのですが、叶わない望みと諦めております。「研究もジャーナリズムも、クリティークを忘れてしまっては何の進歩=クリエイティブもない」とは、梅根悟先生のご講義(一般教養「教育学」)の中で幾度も聞かされたフレーズでありました。
最後に、「3年後」「20万円」で「モンマルトルの丘」にいらっしゃるとか。皆様方の夢が叶いますことをお祈り申し上げます。

2005年8月22日
川口幸宏

(再録)H 氏へ/われわれが14ヶ月前から為してきていることの要約/1838年2月15日から1839年4月15日まで

原著 E. Seguin
翻訳 川口幸宏

要約と結論

1.
  三つの能力、すなわち活動、知性および意志は、人に備わったその他のあらゆる能力を支配する。私がこのように三つの能力を割り振った順は、市井の人に対する影響のその順序とはまるで正反対を表しているが、われわれが取り組む特別な教育を首尾よく導くためにはそれらの能力を発達させなければならず、そのためにはどうしても必要な順序であることを言い表している。

2.
痙攣し絶えず落ち着かずに動いている身躯に出会ってから、私は1ヶ月間かけて、身体が痙攣しないような、不安定に動かないような姿勢を取らざるを得ないようにし続けた。というのは、痙攣なく不安定な動きがない状態こそが、正当な活動を獲得するために必要な唯一の手段であったからだ。兵士の行進、その、頭と腕のさまざまな動きを模倣することによって、子どもは自我という観念を身につけ始めた。

3.
  続いて、幾つかの図形から相互に関係しあうものを取り出したり、たくさん並べ置いた図形から違うものを取りわけたりすることによって、非我の観念が生まれた。
  この二つの観念(それらは長続きせず、漠とした状態なのだが)は、まさに従順で受動的な活動そのものを得るために必要であった。というのも、人のあらゆる活動は、自分ではない事象と接触することであり、そのことで自我と非我との一致が明確にされうる。

4.
これらの前提的な作業は、可能な限り言葉を代表とする表象を用いて、行われた。それで、われわれは、アルファベ25文字の識別作業(アドリアンは言葉がないので、精神的な意味なのだが)にまで至った。私は、それらを、音節グループ、単語グループ、語句グループに分け置いた。そうして、かれがそれらを読んだ。もちろん発語はされない。
命ぜられたままに書くことがほぼ並行して進められた。首や腕に電気仕掛けの機械を乗せているかのように、外在の意志に動かされて、かれは書いた。
この子どものそれ〈この引退した手〉が機能し続けるためには、一体、何が欠けているのだろうか?...
後ほどお分かりになるだろう。
とにかく事実は、きちんとした活動がただ神経質で不規則な活動に取って代わったということであり、このことが、子どもが自分の意志でもって直接関わっている間は持続されていた、ということははっきりしている。
第2の点、知性に移ろう。

5.
  アドリアンに一つのものを要求しても、ほとんどそれに応えることはなかった。二つ同時にはまったく駄目。かれに対象物を指し示しても、かれはその名前を教えることが出来ない、その単語はそこに、つまり、対象物のそばに、かれの目の前にあるにもかかわらず、である。しかしわれわれは(発語無しの)読みを交流しあった。すると子どもは自ずと名前を教えるようになったし、ものを隠してしまう前に必ずその名前を教えるようになった。そして次第にかれは、書き文字と発音された単語との関係を理解するようになったし、さらには単語とものとを関係づけるようになった。
  計算の理論はかれにはたやすかった。かれと同年齢の他の子どもと遜色ないほどに、簡単に暗算した。
  絵画を補助として、かれは表象とそのものとの関係を理解した。アルファベで始められたゆっくりと漸進的な歩みの学習は、この年、居間での200の主要な活動内容の理解で終わった。
  このような最終的な結果を得る5ヶ月前には、すでに、知性が十分に発達していた。ただし表現方法はそうではない。(話し)言葉は未だ無い。あれこれくり返して努め、手段を講じてはみたものの、結果は得られなかった。

6.
  しかし、言葉のない知性とは一体何なのだろう?...
  形而上学者にとって、言葉は観念の典型的な記号である(とりわけ、かれらはきまって、意志と感情との、と付け加えるはずである)。そのことはさておいて、次に進もう。
  私の場合には、言葉とは、私がすでに別個に得た活動と知性との結合以外にはあり得なかった。つまり、人間が、動物に対して、おそらく、ただ一つの根本的に優越する能力において、活動と知性とが混じり合って現れてきた。私が得たに違いない能力とは言葉なのである。

7.
  では、言葉とは何なのだろう?
  言葉は、現れ方は単純であるが、それが生み出される観点で見れば複雑である。それは異なる二つの現象の結果である。二つの現象とは、すなわち、音声つまり文字通り言い出された声の発出と調音による音声の変化である。
  音声は肺から喉頭で生じる。その際、音調の変化はあるが、それが音声の同一性に影響を与えることはない。それで音楽にこそ有効性を持つ。
  音楽によって子どもは音声や声を発達させた。その音声や声は、ある種の動物のように、とんがったような激しさで発せられたものであったが。
  調音は口の器官のさまざまな運動の結果である。すなわち、内外のこの運動を注意深く観察・模倣することによって、子どもは、フランス語の発音が構成される調音の大部分を獲得した。

8.
  うまく言葉が出るようになったので、アドリアンは、まわりの人に、わりに話しかけている。
  しかしかれは、読む時にしか、書く時にしか、不動の姿勢を取る時にしか、仕草をまねる時にしか、話さない。かれは、衝動とか欲望とかに駆り立てられてことを行う時にしか、話さない。つまり、他の意志による支配のもとで、かれは話すのである。とはいえ、要するに、かれは働きかけ、思考し、話すのである。だがそれは、厳密に言えば、かれに対して、これらのことを、他者が為さしめようとする条件の下でのことでしかない。
  驚くべきことなのだろうか?…
  動作は秩序正しくなって、体は秩序に従順になった。
  精神はコントロールされるようになって、知性が働き始めた。
  音声が発せられ変化させられるように指導を受けて、話すようになった。
  だが、まだかれは意志の指導は何も受けていない。

9.
  つまり、かれに不足しているのは、意志あるいは自発性である。
(否、食べたい、走りたい、叫びたい、飲みたいという衝動的な自発性は、他の導きが無くとも、人を欲望に駆り立てるのだが)。
しかしながら、知的なかんずく精神的自発性は、観念と感情との二重の領域において、原因を引き起こせば、結果が出始めるのである。

10.
  まずは、調子を合わせたり、ご機嫌を取ったりすることが出来るようなものが与えられた機械。
  さらに、鉄のごとき堅い意志でもあるかのように黙々と習い、まわりをぐるぐると回る活動的な生活に振り回される、受け身的な存在者。
  この二つの立ち位置の中でアドリアンは、絶えず、注意や言葉や命令に責め立てられなければならなかった。注意や言葉や命令は、アドリアンを、わずかな進歩でさえたいそう難しいと苦しめたのである。

11.
  このように、かれに意欲の能力が欠けているとすれば、それは、かれの器官とかれの第1段階の訓練という二重の当然の帰結によるものである。われわれが第2段階で発達させることに取り組まなければならないこと、それは発意(イニシアティヴ)によって発現される、意志であり、自発性である。アドリアンはイニシアティヴを為さねばならない。

12.
  これを為すために、これまで命令の形でしか成し遂げられてこなかった訓練は、監視という特徴を帯びなければならない。監視とは、悟られないような管理やそれと感じることが出来ないような権威をとり続ける受容的な姿勢のことである。
  この時期には、子どもの欲求や欲望に向かっていくものすべては、かれの周辺に円のようにして、離して置かれなければならない。中心にはかれがいるが、かれが欲しがっているものは円周に置かれており、かれはその対象物に向かって、自分の意志によって、自分から手を差し出すことでしか、円周に手を届かせることは出来ない。
  意志を否定するようなことは、なるほど、体育、読み方、発音、記憶、などといった身体的知的諸活動によって遮られるには違いない。だからといって、この作業は二次的な位置にあってはならず、くれぐれも、そうした無駄骨を折る子どもを癒してやるようなことがあってはならない。

13.
  かつてないほどに、同情、援助、救助、世話といった有害な影響はかれから引き離されなければならない。患者に重病であり、だから手当てをする、とは言わない。ある子どもにお前は弱い、だからあえて歩かせない、とは言わない。世の中のことなど何も知らなくてよい、どうせ何も出来やしないのだから、とは言わない。
  毎日、刺激物として、逞しい男性が必要である。歩きぶり、振る舞い、声に力強さが感じられ、そのことで、自信を得させたいとわれわれが願っている人間に影響を与えるような男性が必要なのである。
  アドリアンの側には、兵士のように、きちんと服従することを知っている男性が必要である。穏やかで規律正しい男性、為すのか為さないのかのテキパキとした指示は、為すがままにさせるか制止するか、つまりアドリアンが命令に従うかどうかで、為すがままにさせるか制止するかになる。
  ただそれだけのことだが、それ以下ではない。
14.
  このような精神的条件でこそ、信頼、決断、意志、自発性、勇気の向上が速やかになされ、やがて、先に発達していた二つの大きな能力と平行して進むことになる。
  この方法以外では、身体と知性の訓練は、その進歩は不完全でむなしいものという特徴しか残らない。自発性の諸能力はけっして結びあうことはないし、それ故豊かにしあうこともないのだ。
  われわれは子どもを暗い部屋に閉じこめ、決して外に出さないようにしてしまうだろう。

15.
  待たなければならないと言ってはならない。われわれはすでに十分に待った、すでに2月が過ぎてしまった。時を取り戻せるだろうか?2月を。夏のいらいらさせられる気温は身体的精神的衰弱を強く引き起こしてしまうだろう。非常に遅れている。今度の春までには時間はないのだ!…

16.
  私はあなたに率直に申し上げるべきだと思う。つまり、大急ぎでこのわれわれが今あるところを不完全ながらまとめ上げたが、あなたに理論と実践との一致を証明したかったのだ。
  これは、アドリアンの完全なる発達へわれわれを導く可能性のあるただ1本の真っ直ぐな線として私がかいま見た、論理的な筋道である。あなたが、ご子息のために為し得たであろうけれども為さなかったことについての、まことに残念な証であろう。

17.
  この根拠のある助言は、今、あなたが与えることが出来る愛情の非常に大きな証である、ということを、どうか、信じてくださらんことを。

敬具
エドゥアール・セガ
1839年4月23日

1839年4月24日、エスキロール博士の同意を得て


パリ、マダム・ポルトマン印刷所

(翻訳紹介)「教育の自由」1850年1月15日立法院議会におけるヴィクトル・ユゴーの演説

訳者 川口幸宏

翻訳紹介にあたっての若干の解題
 原題を LA LIBERTÉ DE L’ENSEIGNEMENT とするヴィクトル・ユゴー(Victor Hugo)の演説は、1850年1月15日の立法議会(Assemblée législative)においてなされたものである。この演説は、フランス共和国史における教育改革の重要なエッポックとなる、時の公教育大臣・ファロゥ(de Falloux)による教育改革法(ファロゥ法と呼ばれる)提案に対してなされたものであった。
 ヨーロッパのいずれの国においてもそうであるように、キリスト教の、つまりは宗教の強い影響を無視してその国、その社会、その文化、その教育を語ることは不可能である。18世紀末の大革命は、いわゆる「近代」の到来を象徴するものとして語られるが、それをもって中近世的支配の象徴である宗教支配が無くなったと見ることができるはずもない。大革命以降の「近代」は、まさしく、この宗教的影響からいかに離脱していくか、という大きな課題を持っていた。ユゴーの演説の随所に見られるように、宗教的影響は、具体的であり、日常的に及んでいた。組織的にはカトリック党という政党あるいは実戦部隊である修道士会などの活動に現れていた。「近代」の特徴である国民皆学(義務教育)に対しても、宗教者集団は、施設、設備、教材、教具、教師に至るすべての学校システムを支配下に置き、宗教教育(宗教的教化啓蒙)の役割を果たしていた。もちろん、こうした宗教教育から一刻も早く離脱した、いわゆる非宗教教育(世俗教育)の確立を願う大きな動きはあった。しかし、その動きがあるたびに、宗教者集団は巻き返しをはかり、民衆に対する影響力を拡大、拡充することを試みる。
 公教育大臣・ファロゥは「教育の自由」を法として整備することを試みた。民衆の近代的な教化・啓蒙をさらに拡充・発展を図ったわけである。この法の特徴は、「教育の自由」の名の下に、宗教者がさらに学校教育に関与することが可能となる。否むしろ、宗教者による学校教育支配の合理的理由を与えることになったと言えよう。宗教者が教員免許を交付するなどという事態が生じていく。宗教者に従順な者は<誰でも>教員となることができ、逆に宗教者に逆らう者は、たとえ教育職を務めているとしても、<誰でも>学校から追放される事実を生み出す。
 近代科学・近代文明が発達し、近代的な理性が、人々に生活や労働を通して行き渡るようになっていくと、宗教的理性と相反する状況が生まれる。この二律背反こそが「近代」の初期の大きな問題なのであるが、まさにこの時期のフランスの宗教者は、近代的理性に対置して宗教的理性を人々に求めたわけである。しかしこれは何も、宗教者だけの願いではない。近代的理性を人々が豊かに持つと、資本主義の初期形成期において、それを最も嫌い、排斥したいと思う社会層が存在した。それは、寄生地主であり、資本家たちである。近代的理性を持たない従順な農民・労働者の存在こそ、彼らの願うところであった。したがって、宗教者と寄生地主・資本家たちとは、「どのような人間こそが望ましいか」という点で利害関係は一致していたわけである。もちろん、そのような人間像を形成する機関として、学校に期待するところは大きいものがある。後にフランス国民議会の政権をになうことになるティエールという議員は、このころ、「私は数学者よりも教会の鐘突男の方を、教師として好ましいと思う。」と発言しているが、まさに本心であったわけである。
 さて、ユゴーの「教育の自由」の演説の根底には、上述の宗教者集団による様々な支配に対する強い批判意識が見られる。ユゴーは「教育の自由」とは宗教者集団からの自由無くして成立し得ないと捉えた。寄生地主や台頭しつつあった資本家たちの利益代表者が多く占める議会は、彼の演説が佳境に達していくにつれて、騒然とした雰囲気に包まれる。一方でまた、資本主義が確立していく過程でその職能を奪われつつあった高級職人や、また身体一つを労賃で「契約」を結ぶ新しい雇用形態にある労働者などが、数次のフランス社会の革命を通じて、先鋭化し、台頭しつつあったし、その利益代表者たちも議会に選出されている。その他にも、ユゴーのように、近代文化の精神的な実践者、いわゆる文学者・芸術家・ジャーナリストたちもいた。彼らはまた、ユゴーの演説に深く共感し、歓呼の声をあげる。しかし、ユゴー自身はフランス社会からキリスト教を追放するという意識は毛頭無く、宗教を良心の自由の発現だとして位置づけ、キリスト教会の真の権威的復活を望んでいる。このあたりは、同じ進歩派に属するといっても、台頭しつつあった社会主義とは一線を画していたと見なければならない。
 ユゴーの「教育の自由」という主張に含まれている教育論の特徴を以下のように整理することができる。
 第1に、政教分離を大原則とする。政治への宗教的影響・支配を排除する。そして、学校教育もまた同じとしてとらえている。教会による宗教教育は個人の意志で、個人の選択に任せられるべきだ、という立場を貫いている。社会的には「世俗教育」を首尾一貫すべきだという立場である。第2に、教育は国家的事業としてとらえていることが特徴である。すなわち、初等教育にはじまり高等教育に至るまで、施設・設備をはじめとして内容整備に至るまで、国家の権利に位置づけるべきだとする。このあたりについては、先に触れた、宗教者による支配的影響からどう離脱するべきかという意識が強く働いていると見ることができるだろう。つまり、国家の教育権主張は、宗教者集団の教育権に対置した概念としてみるべきであり、いわゆる国民の教育権に対置した概念ではないことを押さえておかなければなるまい。その証拠として、彼は、国家によるあらゆる教育的営みを、国民にとってみれば完全無償にすべきだ、と強く主張しているのである。そして、第3に、初等教育の完全義務化、すなわち国民皆学の主張が見られることを指摘しておかなければなるまい。そして、ただただ驚かされるのは、義務教育を「子どもの権利」として位置づけているのである。「子どもの権利」は、上述の意味での「国家の権利」と並び立つものという。義務教育を学習者の権利としてとらえたのは、おそらく、ヴィクトル・ユゴーが、歴史的にははじめてのことではないか。
 これら、「世俗教育(宗教的中立性の教育)」「無償教育」「権利としての義務教育」は以降の歴史の中で、実現に向けて、フランス社会はひた走ることになる。「ファロウ法」は1850年3月に成立する。訳出した「世俗学校のための闘い」に明らかであるが、まさしくユゴーが予言しているように、教育における宗教支配は強められていく結果を生む。が、その一方で、宗教者によって「学校」を追われた専門的教育者たちは、「教育の自由」の名の下に新たな「学校」設立の試みをする。彼らはやがて「“新しい教育”協会 la société <> 」(あるいは「“新しい学校”協会」という記録も見られる)という組織を作り、大衆教育を試みる。それは宗教者たちが設立する「私立学校」とはまったく質の異なった「私立学校」であった。「“新しい教育”協会」は、「すべての子どものための教育は、政治・経済問題を含み、また政治・経済問題以上に、重要な問題である。」「すべての子どものための教育は、どのような思想・心情を持っていようと、すべての子どもに開放されなければならない。」「すべての子どものための教育は両性の子どもにたいして無償かつ完全でなければならない。」「すべての子どものための教育は、どのような社会的地位にあろうとも、すべての子どもの手に入る権利であり、子どもの両親・保護者の社会的義務であるという意味での義務教育である。」との根本理念をうち立て、その実現を求めて大社会運動を展開した。その最初のゴールは、ユゴーの演説の21年後の、いわゆるパリ・コミューン(「ラ・コミュヌ la Commune = la commune de Paris」)においてであった。「ラ・コミュヌ」下の教育改革については、拙著『19世紀フランスにおける教育のための戦い セガン パリ・コミューン』(幻戯書房、2014年)を参照していただければ幸いである。

*******
「教育の自由」

 諸君、祖国の命運にとってこのような重大な議論が始められる場合には、即刻かつ躊躇することなく、質疑の本質に入らなければならない。
 私はとりあえず望むところを述べるが、与えられた時間内ではとうてい語り尽くせるとは思えない。
 諸君、私の考えるところでは、望むところとは、火急を要するものであり、かつささやかなことである。とはいえ、教育に関する重大な問題について、以下提案するものである。(次! 次!)
 諸君、質疑のすべては教育についての観念である。私の提案する教育の質疑についての観念、それは次のようなことである。すなわち、無償かつ義務の教育。初等教育の義務、学校教育すべての無償。(右翼席で不平の声。――左翼席で拍手喝采)義務制の初等教育、それは子どもの権利であり(ささやき)、疑いもなく、保護者の権利よりも尊く、国家の権利と同等である。
 繰り返して言う。私の考えるところ、質疑の観念は次のことである。すなわち、先ほど強調した限りでの義務と無償の教育。崇高な公共のための教育というものは、国家によって提供され経費が賄われるのであり、村の学校はもとより、コレージュ・ド・フランスさらにはアンスティテュ・ド・フランスに及ぶ各学校・教育機関すべてを含むものである。すべての知識人に開かれたすべての重要な科学の門。場があるところはどこでも、才能のあるところはどこでも、書物があるところはどこでも。小学校無きコミュヌ無く、コレージュ無き市部は無く、大学無き県庁所在地は無い。包括的な施設、換言すれば、リセ、ギムナジウム、コレージュ、講座、図書館という知的活動の場の全体網は、地方から人材を生み出し、至るところで才能を呼び覚まし、かつ、至るところで資質を育む。一言で言えば、国家の手によってしっかりと組み立てられ、多くの陽の当たらないものを引き立てるために取り付けられ、そして知性に達する人間らしい知識の梯子。まったく断絶がなく、大衆の心がフランスの頭脳と結びあうために。(長い拍手喝采。)
 以上のように私は国民公教育を理解している。諸君、このような素晴らしい無償教育に加えて、国家によって示されるところの完全な秩序のある知性を請い願い、すべて、無料で、最もよい教師と最もよい方法とを提供する。知性と教師・方法とが科学と、基準の、フランスの、キリスト教の、自由な規律とを形づくるのだ。科学と規律とは、疑うまでもなく、国民の特性を非常なまでの強靱さに高めてきている。私は、ためらうことなく、教育の自由、私教育教師の教育の自由、修道士会の教育の自由、完全な、無欠の、絶対の、一般法ならびに他のすべての自由に従った教育の自由を提案する。さらに私は、どう出るかもわからない国家権力によってそれらの自由をあれこれ識別することは、決して望まない。私は、それらの自由に対して、なべて等しく国家による無償教育を提案するものである。(左翼席でブラボー!――右翼席で不平の声。)
 これこそが、諸君、私は繰り返して言う、これこそが質疑の観念である。静粛に願う、話はまだ続く。問題の解決には重要な財政上の考え方を含まれているのだ。そればかりではない、現代のすべての社会問題が含まれている。
 諸君、この理念を明らかにする必要がある。というのは、人が、それにはじつに多様な観点がある、しかしそれを深めるには時間がない、などと言う時は、いつも反対を意味しているのだ。私は会議の一時一時を大切にする。だから私は、即刻、今日において明確で現実にある問題に言及する。私は、今日、問題が所在するところを理解している、さらに進んで言えば、一方では情勢が、他方では公共的理由が引き起こしているところを理解している。
 現在の状況から限られた、しかし現実的な観点に立って、私は教育の自由をこそ望み、宣言する。だが私は国の監督を望むとともに実効性のある監督を望む、私は宗教支配から脱した、完璧な世俗の、もっぱら非宗教の国家を望む。尊敬するギゾー議員は、かつて、私に言ったことがある、教育の事項については、国家は非宗教以外の何ものでもなく、非宗教以外の何ものであってもならないものだ、と。
 私は望み、言う、国の監督の下の教育の自由を。そして、非常に繊細かつ非常に困難なこの監督を国に具現化することを認めるし、それには、各地の活性的な諸能力のすべての選抜試験を強く要求するものである。選抜試験によって人々はより安定した職を我がものにすることは疑うまでもないことだ。かといってその人々は、良心にせよ、政治にせよ、国家的一体から離れてどんな関心も持たないということではない。
 監督特別委員会においてであろうと、小委員会においてであろうと、私は、司教を参加させないし、代表にもしないと、強調するものである。私には聞こえてくる、この古くさいが有効な、教会と国家との分離を強く願っている声が、かつて無いほどに主張するのが。それは我が祖先の憧れであった。そして教会の利益でもあり国家の利益でもある。(左翼席で歓声――右翼席で異議。)
 私は望むところを今申しあげた。ところでまだ申しあげてないことがある。
 提案されている法律を望まない。
 なぜか?
 諸君、この法律は一つの手段なのだ。
 手段というものは決してそれ自身としてあるのではない、それは、それを掌握する手を介してのみ、存在する。
 ところで、何がこの法を掌握せしめる手であろうか?
 それが質疑のすべてである。
 諸君、それは聖職者集団の手である。(そのとおり!――長い喧噪。)
 諸君、私はこの手をたいそう恐れるものである。私はこの手段をうち砕きたいと思い、この案を拒絶する。
 いうまでもなく、議論に入る。
 私は、私の観点に反対の立場への反論に、しかも明らかに重大だと思われる反論に限定して、直ちに取りかかることにする。
 このようなことが言われている、おまえは国の監督委員会から聖職者を排除するというのか?つまりお前は宗教教育を追放したいのか?と。
 諸君、私は釈明する。思い違いをしないでもらいたい、私はそのようなことを言ったこともないし、そのような考えを持ったこともないのである。
 私が宗教教育を追放することを望んでいるどころか、あなた方が強く願っているのではないのか?今も昔も、私に言わせれば、それは必要なのである。人が成長するにしたがって信じなければならない。人は、神に近づけば近づくほど、より深く神を信じなければならない。(ささやき。)
 現代には不幸がある、ほとんど不幸しかないと私は言った。不幸は全生活に及んでいることは確かである。(興奮。)世俗と実際の生活が人に目的と目標とを与えるとしても、とどのつまりは、否定によってさらに惨めな生活になる。人は、不幸な状態に落胆するばかりか、非情という、耐えられない重さを背負うことになる。それは決して苦しみすなわち神の定めなどではない、絶望すなわち地獄の掟を手に入れるに過ぎないことなのだ。(長いささやき。)そこから、社会の深部に及ぶ混乱へ。(そうだ!そうだ!)
 確かに、私は、そう、疑いもなくこの現実社会の人間として望む者である。つまり、率直に言うに過ぎず、言葉があまりに弱く、言葉にならないほどの感情を持って願うのだが、手段の限りをつくして、不幸な人々の物質的な境遇をその生活のなかで改善することを望む者である。だがしかし、まず改善のはじめにあるもの、それは人々に希望を与えることである。(右翼席でブラボー!)続いて、果てしない希望が加わった時、私たちの悲惨さは終わるのだ。(トレ・ビアン!トレ・ビアン!)
 私たちは、私たちが立法院議員であろうと司教であろうと、司祭であろうと作家であろうと、すべての者に、あらゆる形式で、悲惨さと戦い根絶するためのすべての社会的活力を広め、積極的に与えなければならない(左翼席でブラボー!)、と同時に、すべての生命を天に昇らせること(ブラボー!右翼席で)、あらゆる魂を導くこと、公平が行き渡るところのその後の生活の方へすべての期待を向けること。単刀直入に言おう、人は不公平も無益もなく呼吸するであろう。死は再生である。(右翼席でトレ・ビアン!――ささやき。)物質的世界の法、それは公正である。道徳的世界の法、それは公平である。神はすべての終わりに再びまみえる。忘れてはならない、すべてに導くことを。もし私たちがすべてと訣別しなければならないとしたら、生きることにどんな尊厳もない、苦悩に値しない。辛苦を軽くすること、労働を神聖化すること、さらに、逞しい、誠実な、賢明な、我慢強い、優しい、実直な、謙虚で高潔さを併せ持つ、知性のある、自由な意志を持つ人間を回復させること、そのことによって、生活の闇の中にあっても、素晴らしく輝く世界をいつまでも見続けることができるようになる。(全員強く賞賛。)
 私に関して言えば、たまたま、たった今話をしており、ささやかな権威の唇に非常に厳粛な言葉を宿らせており、ここで陳述し宣言することを許されているのだが、私は最上の世界が実在することを心から信ずるものであると、この高い演壇から主張する。私が背負っている、私が人生に必要としているところの、この卑小な空想が、私には頻繁にわき起こる、絶え間なく私の眼前にある。私は、そう、素晴らしい闘争や、素晴らしい研究、素晴らしい試練のあとの強い信念を信じる、それが我が道理に対する至上の確信であり、それが我が魂に対する至上の慰めの言葉である。(深い興奮。)
 それゆえ私は宗教教育を望む次第である、心から、頑強に、熱心に。だがしかし、教会による宗教教育は望みはするが、宗教者集団による宗教教育は望まない。私は心からそれを望む、うわべだけで望むものではない。(ブラボー!ブラボー!)私はそれを、神の御許にあることを目的とすることを望みはするが、この世に生きることを目的とすることは望まない。(ささやき。)私は説教台が他のところに広がることを望まない、司祭を教育者の中に含ませることを望まない。あるいは、我が立法院議員よ、たとえ私が司祭を教育者に含むことに同意するとしても、私は司祭を監視する、私は、神学校や教育に携わっている修道士会に対して、国家の視線、つまりくどいほどに言うが、非宗教国家の視線をもってしつこいほどに、その偉大さを損なわないように、その統一性を損なわないようにと、監視するであろう。
 教育の完全な自由が宣言されるであろう日、私のすべての望みが招来する日が来るまで、そう、先にそうした条件について諸君に語ったように、その日が来るまで、教会内部での教会による教育を望むのであり、教会の外でのそれを望むのではない。とくに私は、国家の名で、聖職者によって聖職者の教育を監督することはお話しにならないことだと思っている。簡潔に言おう、私は願う、私は繰り返して言う、我が祖先が望んだことは教会はみんなのものであり、また国家はみんなのものである、と。(そうだ!そうだ!)
 本議会はすでに、私が法案を拒絶している理由がはっきりと分かっている。が、私は説明を最後までする。
 諸君、後ほど明らかにするように、この法案は、諸君らの目には、最大の、最悪の政治法だと映ることだろう。(ざわめき。)
 私は、確かに、尊敬すべきラングルの司教に訴えかけることはない。この議場内の何人に対してもそうだ。だが、法案の起草者を除いてはこの法を思いつきもしなかった集団には、輝きを失っているものの意気盛んなこの集団には、つまり聖職者の集団には、訴えかける。私は彼らが政府にいるかどうかは知らない、議会の中にいるかどうかは知らない。(長いささやき。)だが、多少とも、私は訴えかける意味があると思う。(新しいささやき。)彼らは耳ざとい、彼らは私を理解するだろう。(笑う。)つまり、私は聖職者集団に訴えかける、彼らに次のように言う。この法はあなた方の法だ。はっきりと言おう、私はあなた方を信用していない。教化すること、それは構築することだ。(興奮。)私はあなた方が構築することを信用していない。(トレ・ビアン!トレ・ビアン!)
 私は若い世代の教育を、子どもたちの魂を、生活の中で開かれる新しい知性の発達を、新しい世代の精神を、すなわちフランスの将来を、あなた方に託したくはない。私はフランスの将来をあなた方に託したくない。なぜなら、あなた方に託すること、それはあなた方に降伏することだからだ。(ささやき。)
 新しい世代が我々の跡を継ぐのでは満足しない。若い世代が我々を継承するのだと私は理解している。ここに、私が、若い世代にかけられるあなた方の手も、あなた方の呼吸も望まないわけがあるのだ。私は、我が祖先がなしてきたことがあなた方によって壊されることを望まない。その光輝に従って、私はこの恥辱を望まない。(長く続くささやき。)
 あなた方の法は仮面を被った法である。(ブラボー!)
 あなた方の法はある事実を述べ、他の事実に及ぶ。服従の観念こそを上っ面の自由が捉える。それは贈与に見せかけた押収である。私はそれを望まない。(左翼席で拍手喝采。)
 あなた方の体質はこんなものだ、すなわち、あなた方が鎖を鋳造する時、あなた方は言う、ここに自由がある、と。あなた方が追放をする時、あなた方は叫ぶ、ここに赦免がある、と。(新しい拍手喝采。)
 ああ!私は、オウシュウヤドリギとコナラとを混同していない以上に、あなた方を教会と混同していない。あなた方は教会の寄食者である、あなた方は教会の病である。(笑う。)イグナスはイエスの反対者である。(左翼席で強い賛意。)あなた方は、信者などではなく、あなた方が理解しない宗教の狂信者にしか過ぎない。あなた方は宗教演出家である。教会を、あなた方のすることと、あなた方の手段と、あなた方の戦略と、あなた方の主義と、あなた方の野望と、取り違えないでもらいたい。あなた方の母親を、あなた方の召使いとして使うために、必要としないでもらいたい。(深い興奮。)教会に政治を教えることを口実にして、教会を困らせないでもらいたい、とりわけ教会をあなた方と一体視しないでもらいたい。あなた方が教会になしていることすべてを見よ。ラングルの司教様はあなた方にそういっていた。(笑う。)
 あなた方を得てからというもの、どれほど教会の力が弱まったかを見よ!あなた方は教会をほとんど愛しようとせず、憎むことで終始するかのように振る舞っている。実際、私はあなた方にこういう(笑う)、教会はあなた方なしでも充分であろう。あなた方なしのままにしておいてもらいたい。あなた方が教会にいなくなったならば、人々は再び集い来るであろう。この聖なる教会を、この聖なる母を、その孤独のままに、その放縦のままに、謙虚さのままにしておいてもらいたい。これらすべてがその威光を顕現させるのだ!その孤独が民衆を引き寄せる、その放縦こそが支配力であり、その謙虚さこそが威厳である。(強い同意。)
 あなた方は宗教教育を謳う!あなた方は本当の宗教教育がどんなものか知っているのか?それはぬかずかせようとしなければならないのであって、不安に落とし込ませてはならないのだ。それは瀕死の人の枕元にある思いやりと同じようなものなのだ。それは奴隷を救済する恩恵と同じようなものなのだ。それは捨て子を救済する使徒パウロである。それは大勢のペスト患者に献身したマルセイユの司教である。それは、相当離れた地のサン・アトアンヌに赴き、内乱のさなかに十字架を掲げた、すなわち、死に見舞われることをほとんど恐れず、平和をもたらした、パリ大司教である。(ブラボー!)ここに本当の宗教教育、実際の、奥の深い、実効のある、そして大衆の宗教教育がある。なのに、あなた方は自らを解体しないで、宗教と人間性について巧妙にも、まだキリスト教徒のような振りをしている!(左翼席で長い拍手喝采。)
 ああ!私たちはあなたたちのことを分かっている!私たちは聖職者集団のことを分かっている。奉仕という職業を持つ老かいな集団なのだ。(笑う。)正教会の入り口で歩哨に立つ集団なのだ。(笑う。)驚いたことに、無知と誤謬というふたつを真理のために見いだした集団なのだ。科学と天分に対して祈祷より先に進むことを禁止し、教義の中に思想を閉じこめることを願う集団なのだ。すべての足跡をつくったのはヨーロッパの知性であるが、それは聖職者集団の意に逆らったものであった。その歴史は人間の進歩の歴史に書かれている。しかしそれは書物の裏面に書かれているのだ。(興奮。)すべてにおいて反対なのである。(笑い。)
 聖職者集団は、星は落ちないと言ったために、プリネリを鞭で打った。彼らは、宇宙の数は果てしないと断言し、創造の謎を見た、というのかとの質問を27回、カンパネラに繰り返した。彼らは、血は循環すると証明したために、アルベイを迫害した。ヨシュアの名において、ガリレィは監禁された。サン・ポウルの名において、クリストフ・コロムは投獄された。(興奮。)天体の法則を発見すること、それは不敬虔だった、宇宙を知ること、それは異端であった。彼らは宗教の名においてパスカルを、道徳の名においてモンターニュを、道徳と宗教の名においてモリエールを破門制裁にした。おー!そう、もちろん、あなた方が何であるのかということを、あなた方がカトリック党を名乗り、宗教者集団であるということを、我々はあなた方について知っている。人の良心があなた方とあなた方の要求に反逆してから、すでに長い時が経っている、あなた方は私たちに何を望んでいるのか?あなた方が人の心に猿ぐつわをはめようとしてから、すでに長い時が経っている。(左翼席で歓声。)
 あなた方は学校教師になることを願っているのか!あなた方が受容する詩人も、文筆家も、哲学者も、思索家も、一人もいないのに!天分、つまり、文明の宝、世紀単位で受け継がれた財産、知識の共有資産によって、書き表され、発見され、想像され、推論され、啓示され、考案され、考察されたすべてを、あなた方は締め出すのか!人性の頭脳が、あなた方の目の前で、あなた方の裁量次第で、書物のページを開けたとしたら、あなた方はその字句を削除するのか!(そうだ!そうだ!)それが都合がよいのか!(長いささやき。)
 とにかく、一冊の書物がある。始めから終わりまで、すぐれた発露のように見える書物、コーランイスラムのためにあるように、ベーダがインドのためにあるように、世界のためにある書物、神の英知によって照らし出された、人間の英知のすべてを語る書物、人々の崇拝がル・リーヴルという名で呼ぶ書物、バイブル!おや!あなた方の検閲はそんなところにまで及んでいた!驚くべきことだ!教皇たちがバイブルを追放した!賢明な精神にとってどんなに驚くことか、単純な心にとってどんなに不安になることか、神の書物の上にローマの禁書目録が位置づけられているのを思い描くことが!(左翼席で強い同意。)
 さて、あなた方は教育者の自由を主張している!どうぞ、しっかりと聞いてもらいたい、我々にはあなた方が要求する自由について聞こえてくるのだ、それは教育者の自由などではないのだ、と。(左翼席で長い拍手喝采。――右翼席で激しい抗議。)
 ああ!あなた方は民衆を教育したいと望んでいる!大変けっこうだ。――あなた方の生徒を見よ。あなた方の製品を見よ。(笑う。)あなた方はイタリアで何をしたか?あなた方はスペインで何をしたか?久しい以前から、あなた方は、あなた方の分別において、あなた方の学校において、あなた方の叱咤のもとで、このふたつの偉大な国を、名士中の名士を、手中に収めた。あなた方は何をなしたのか?(ささやき。)
 私はあなた方に言う。あなた方のおかげで、その、ものを考えるどんな人も、子としての何とも言い表せない苦痛を持って、もはやその名を口に出していうことができないイタリア、この、全世界に詩作や芸術の非常に驚嘆すべき傑作を普及させた、天分と国家の生みの親イタリア、人類に読書することを教えたイタリア、そのイタリアは今日読み方を知らない!(深い興奮。)
 そう、イタリアは全ヨーロッパ諸国のものである。そこでは読み方を知る人がほとんどいないのだ!(右翼席で抗議。――荒々しい叫び。)
 すばらしく恵まれたスペイン、最初の文明はローマと、次の文明はアラブと、神意によって、つまりはあなた方の意に反して、アメリカ世界と、交流し合ったスペイン、そのスペインは、あなた方のおかげで、あなた方の支配のおかげで、堕落と衰弱のくびきとなる白痴状態に墜ちてしまった。(左翼席で拍手喝采。)スペインは、ローマと交流した力強さそのものの秘訣を見失い、アラブと交流した工芸の天分を見失い、神と交流した世界そのものを見失い、あなた方が見失わせたすべての代わりに、スペインはあなた方の宗教裁判所を受けいれた。(ささやき。)
 今日、宗教裁判所を、ある人たちは内々で、復権させようと試みているが、私はそのことに敬意を払う。(左翼席で長い嘲笑。――右翼席で抗議。)宗教裁判所、それは、5万人を薪の山の上で燃やすか監獄に閉じこめたのだ!(右翼席で否定。)歴史を読め!宗教裁判所、それは、火あぶりによって死せる者たちと異端者たちとを蘇らせた(そのとおり!)、ウルジェルならびにアルノウ証人、フォルカルキエ伯爵だ。宗教裁判所、それは子どもたちに監獄を宣告した、第二世代にまで及んでだ。おぞましくかつどんな公的な名誉も受けられないものであった。ただひとつ例外は、決定のきちんとした言葉であった、おのが父を告発したであろう者たち!(長いささやき。)宗教裁判所、それは、私が今話している時にも、ヴァチカンの図書館の中にガリレイの手書きのものをしまい込んでいるし、禁書目録に封印したままである!(喧噪。)まさしく、あなた方がスペインから奪ったもので、またスペインに与えたもので、スペインを慰めることに対して、あなた方はラ・カトリックという異名が与えられる!(右翼席で不満の声。)
 ああ!あなた方は知っているか?あなた方はかの非常に偉大な人から奪い取ったのだ、あなた方を非難するこの悲痛な叫びを、<<それがラ・カトリックであるよりはラ・グランドであることの方を、私はより好ましいと思う!>>(右翼席で叫び声――長い中断――何人ものメンバーが荒々しく演説者に釈明を要求する。)
 それがあなた方の代表作である!イタリアがそう呼ばれた暖炉、あなた方はそれを消した。スペインがそう呼ばれた巨象、あなた方はそれをやつれさせた。前者は灰燼と化し、後者は瓦礫と化した。それが、あなた方がふたつの偉大な国の人々に為したことである。あなた方はフランスに何をしたいと望んでいるのか?(長いささやき。)
 あなた方はローマに由来する、それを維持せよ。私はあなた方にそう申しあげる。あなた方はそれですばらしい成功を収めた!(左翼席で笑いと喝采。)あなた方はローマの人々に猿ぐつわを噛ませたばかりである。今はフランス人に猿ぐつわを噛ませようと望んでいる。私は理解している、前者はさらにいちだんと首尾よくいった、そこで、見張りをしようと試みる、それは難しい、で、後者はまったく生き生きとしたライオンだ、と(喧噪。)。
 一体あなた方は何を求めているのか?私はそれをこれから言う。あなた方は人間の理性を求めている。何のために?なぜならそれは昼間に生ずるからだ。(そうだ!そうだ!――違う!違う!)
 そう、あなた方の邪魔をすることについて言ってやろうか?それは、けたはずれの量の自由の光、すなわち3世紀におよぶ自由なフランスである。道理という既成の光、当時よりも今日の方が輝いている光、フランスの国民を開明的な国民にした光、フランスの輝きを世界のすべての人々の表情に見る、そういったもの。(興奮。)そうなのだ、フランスのこの輝き、この自由の光、このまっすぐな光、ローマからは来ない光、神から届く光、それがあなた方が消したいものだ、それが私たちが持ち続けたいものなのだ。(そうだ!そうだ!――左翼席で拍手喝采)  私はあなた方の法を拒否する。私は、法が私教育を独占するが故に、法が中等教育を悪化させるが故に、法が科学の水準を低めるが故に、法が我が祖国を弱めるが故に、法を拒絶する。(興奮。)
 フランスが、取るに足りない理由で、減少させられるたびに、例えば1815年協定による領土の減少、あるいはあなた方の法によってもたらされる崇高な知性の減少のように、そのたびに、私は胸の締め付けられる思いを持ち、恥ずかしい思いをする人間であるが故に、私はあなた方の法を拒否する!(左翼席で大きな拍手喝采。)
 諸君、終えるにあたって、高い演壇から、聖職者集団に、我々に侵入する集団に、訴えかけることをお許し願いたい(聞け!聞け)、真面目な忠告だ。(右翼席で不満の声。)
 法に能力が欠落しているのではない。状況が助けて、強くなる、非常に強くなる、過度に強くなりすぎる!(ささやき。)混じり合った、何ともひどい国家のもとの国民を保持するコツを法は知っている。そのコツは死でもなく、かといって生でもない。(そのとおり!)それは国民を統治することを要請している。(笑い。)
 それは傀儡による統治機構だ。(笑う。)だが、それを監視するなら、フランスでは次のことは決して起こらない。このフランスで、次のような考えを自由に思いつかせたままにする、ただただ思いつかせたままにすることは、恐るべきお遊びである。その考えとは、至上権を持つ坊主ども、曲げて取られる自由、征服され束縛を受けた知性、破れた書物、出版物代わりの説教、スータン(僧衣)の影によって心にもたらされる暗闇、そして用務員によって屈服させられる天分!(左翼席で喝采――右翼席で怒り狂った否定。)
 そのとおり、聖職者集団は悪賢い。だが昔からであることには変わりない。(嘲笑。)何だって!彼らは社会主義を恐れている!何だって!彼らは、おのが言うがままに、上げ潮に乗ることを期待している。そしてその上げ潮に乗って、社会主義に反対する。少なくとも私はどんな障害物も隙間があるとは知らない。彼らは上げ潮に乗ることを期待している。そして、彼らは、社会主義を禁じ、社会的偽善と物的抵抗とを組み合わせれば、また彼らは、憲兵がいないような至るところにイエズス会士を配置すれば、社会が救われるだろうと思いこんでいるのだ!(笑いと拍手喝采。)何とあわれなことよ!
 繰り返して言う。聖職者集団は19世紀が自身に相反することに気をつけるように。固執しないように。奥深くかつ新しい天分に満ちた、この大いなる時代を支配するのをやめるように。そうでないなら、怒らせることに成功しないだろう、現代の重大な局面を軽々と発達させるだろう、そしてすさまじい可能性を生ぜしめるだろう、と。そう、強調するが、教育が聖具納室で、政府機能が告解室で生み出されるシステムを持って!(長い中断。大声:動議!!右翼席の何人ものメンバーが立ちあがる。議長とヴィクトル・ユゴー議員が討議を交わす。が、我々にはまったく伝わらない。違法な騒ぎ。演説者が右翼席の方に身を向けて再び続ける。)
 諸君、あなた方が言うところによれば、あなた方は教育の自由をきわめて望んでいる。ならば、演壇の自由を多少は望むことに努めよ。(笑う。騒ぎが収まる。)
 かたくなで致命的な論理を、人々自身の意に反してもたらし、悪のために豊かにする教義を持って。歴史の中に教義を求めると恐ろしくなる教義を持って……(新たな大声:動議!!演説者、中断する:)
 諸君、聖職者集団は、私があなた方に申したことだが、我々を侵攻する。私は彼らと戦う。それで、この集団がその手で法を提案した時に、その法案を検討し、その集団を検討することは、立法院議員としての我が権利である。あなた方はそうすることを邪魔しないでもらいたい。(トレ・ビアン!)私は続ける:
 そう、このシステム、この教義、この歴史を持って、聖職者集団は、彼らがいるところはどこでも、革命が引き起こされるだろうということが分かっている。至るところで、トルケマダを回避するために、ロベスピエールに身を投げ込むだろう。(興奮。)ここに、カトリック党と呼ばれる集団によって引き起こされる、憂慮すべき公共の危険がある。私と同じく、国民のために、無政府状態の大混乱と祭司の無気力とを恐れる人たちは、警告の叫びを発している。今やその時、そのことはしっかりと考えられている!(右翼席で騒がしい叫び。)
 止めていただきたい。叫びとささやきとが私の声をかき消している。諸君、私はあなた方に、扇動者としてではなく誠実な人間として、話している。(聞け!聞け!)さあさあ、諸君、はからずも、私はあなた方にとって疑わしいとでもいうのか?
 右翼席での叫び。―― そうだ!そうだ!
 ヴィクトル・ユゴー議員。―― 何だって!私があなた方にとって疑わしいだと!そう言うのか?
 右翼席での叫び。―― そうだ!そうだ!
 (言語に絶する喧噪。右翼席の一集団が立ちあがり、演壇の冷静な演説者に声を掛ける。)
 では!その点について、私は釈明する。(沈黙が戻る。)これはいくらか個人的な事柄だ。あなた方はあなた方自身を挑発したと、私は思うが、説明を聞いてほしい。ああ、私はあなた方を疑わしく思う!それを何だって!私があなた方を疑っているのだ!昨年、私は危険な状態の秩序を守ったし、今日、脅かされている自由を守っている!そして、危険な状態に戻るのならば、明日は秩序を守るだろう。(ささやき。)
 私はあなた方を疑っている!だが、私が、6月のバリケードにおける流血を警告して、パリの代表者の任期を終えた時、私はあなた方を疑ったろうか?(左翼席で喝采。右翼席で新たな叫び。喧噪が再びはじまる。)
 では!あなた方は断固自由を守る声を聞こうとさえしない!私があなた方を疑えば、あなた方は私を同じように疑う。私たちの間を祖国が審判を下すだろう!(トレ・ビアン!トレ・ビアン!)
 諸君。最後の言葉だ。私は、難しい時間の中で、さきほど受けた、説明しがたい少しばかりのサービスの中で、おそらく幸いにも秩序を取り戻すことができた一人だろう。
 そのサービスが忘れられてしまったようだ。繰り返しては言わない。が、私が話をしている時に、私にはそれを受け取る権利がある。(違う!違う!――そう!そう!)
 では!この過ぎ去ったことを強調して、私は、確信を持って、宣言するものである。フランスには秩序あることが必要である、が、進歩する、生き生きとした秩序が必要であるのだ。つまり、民衆による当然の、穏やかな、自然な成長の結果であるような秩序である。国民の知性のたくさんの威光によって結果と理念とを同時に生ぜしめた秩序である。それはあなた方の方とはまったく反対のものである。(左翼席で強い同意。)
 私は、この気高い祖国のために、自由を望む者である。そして、抑圧は望まない、継続する成長を望み減少は望まない、支配は望むが隷属は望まない、栄華は望むが無は望まない!(左翼席でブラボー!)なんだって!ここにあなた方が私たちに提案した諸法がある?何だって!あなた方の政府、あなた方の立法院議員、あなた方は自身を固守したい!あなた方はフランスを固守したい!あなた方は人間の思想を硬直化することを望んでいる。神の火を消すことを、精神を物質化することを望んでいる!(そうだ!そうだ!――違う!違う!)だが、つまるところ、あなた方は、あなた方が生きる同時代の人たちのことが見えていないのだ。(深い興奮。)
 何だって!この世紀、新しい、到来の、発見の、征服のこの偉大な世紀において、立ち止まったままでありたいと夢見ているのだ!(トレ・ビアン!)希望ある世紀において、あなた方は絶望を宣言している!(ブラボー!)何だって!疲れた肉体労働者のように、栄光、思想、知性、進歩、将来をあなた方は大地に投げ捨てている。そして言う、充分だ!さらに進まなくても、と!(右翼席で否定。)つまり、とにかく、あなた方は見えていない。あなた方の周りで、あなた方の上で、あなた方の下で、あらゆるものが進む、あらゆるものが生じる、あらゆるものが動く、あらゆるものが成長する、あらゆるものが変化する、あらゆるものが新しくなる、ということが。(ささやき。)
 ああ、あなた方は立ち止まるのか!では、私は深い苦しみを持ってあなた方に繰り返す。私は破局と崩壊とを憎む。私はあなた方に根っからの死を警告する。(右翼席で笑う。)あなた方は進歩を望まないのか?あなた方は革命にさらされるだろう!(深い喧噪。)まったく非常識な人々に言う、揺れる大地に対して、人間は動かないだろう、そして、神は答えてくれる!(左翼席で長い拍手喝采。)
 (演説者が、演壇から降りたところで、褒め讃える人たちの渦に取り巻かれる。議会は熱烈な感情に包まれて解散する。)


出典:
Victor Hugo:LE DROIT ET LA LOI ET AUTRES TEXTES CYTOYENS pp.228-242
<> dirigé par Jean-Claude Zylberstein
Édition 10/18, Département d’Univers Poche, 2002.

「いじめ」解決を目指して

ある「いじめ」の相談
 199*年11月末、G学院に籍を置く大学院生・江藤志津の訪問を受けた。相談の要点は、都内某区の公立中学校に通う1年生の弟・和夫が、学級内で複数の同級生から暴力的いじめを受けているが、どうしたらそのいじめを無くすことができるか、ということであった。
 私は志津に、いじめを受ける可能性としてのさまざまなタイプ――たとえば、性格上のことから、身体的特徴のことから、家庭環境上のことから、遊びのターゲットとして、集団のルールづくりの方法としてなど――について説明し、また、いじめが起こる集団構造の特徴について説明をした。
 志津の説明によると、「越境生いじめ」ではないか、という。というのは、和夫が通う藤国中学校は、地元では、評判の高い、「いい学校、落ちついた学校」であり、他の公立中学校と比較して、越境して入学する子どもが多いとのこと。和夫もまたその一人である。そして、事実、クラスの中の越境生がいじめられ、登校拒否状態になっている、ということであった。
 いじめのリーダー役を務めているのが、これまた越境生。「越境組が越境生をいじめる」という構図が目に浮かぶ。越境生が学級内に自分の地位を築いていく。志津の説明によって受けた初発の感想である。そしてこれもまた、よくあるいじめの姿である。が、事実はどうであるかは不明である。
 越境は、和夫自身が決めたことだ。もともとの校区の学校は横川中学校であるが、1980年代に全国で吹き荒れた中学校の校内暴力と無縁でなく、横川中学校も評判の、荒れた学校であるという。和夫が越境を決意したのは、手続きにはぎりぎりの時期であった。小学校時代からの遊び仲間が多く通う横中にする気持ちも強かったが、荒れた中学校に通って母親に心配をかけたくないという「優しさ」もあり、後者を選んだと志津は説明した。

私自身が和夫にどう関わるか
 「いじめ」の現場に直接いるわけでもない私にとって、志津の相談事は「解決」するにはかなり困難なことを予想しなければならない。学校側と話し合い解決の方策を依頼するにしても私には当事者能力を持たない。かなり遠回りになるし、本来なら「いじめ」そのものは行為者の責任として問われなければならないのだが、私が江藤家に助言できることとすれば、江藤家自身がいじめを「解決」する方策を提供することである。筋道で言えば、江藤家が「いじめ」の理不尽さを学校なり「いじめ」の当事者及びその家族に申し立てをすることによって「解決」の途を探る。そのプロセスについて、私がアドバイスをする、というのが方策を提供するということだ。だが、それは言うほどに楽ではない。
 「いじめ」に向かい合う勇気を培う中で、一人の若者として「今」を行き「明日」を展望する逞しさ、いわゆる自立の力を育てること、それが私に科せられた精一杯の任務であると認識した。ここには「カウンセラー」という概念は入りこむことはない、私自身が一人の大人として、教育者として、悩み苦しんでいる若者とその家族に寄り添っていく、一緒になって生きる。その結果「いじめ」そのものを跳ね返す逞しさを可能な限り和夫に培うこと、それが叶わなければ、少なくとも、「いじめ」を抱え込みながら、苦しみながらも、「もう一人の自分」を自己内に形成すること、すなわち「いじめ」に負けないで生き続けたいと願う自分像の形成に微力を提供すること、それが志津の話を聞きながら内心で考えていたことであり、また彼女が退出した時に決意したことであった。
 和夫の「優しさ」が気に掛かる。志津には「優しい子なのですね。登校拒否の子やいじめられっ子には、優しい、と言われている子が多いのですよ。」と語ったが、ここで言う「優しさ」とは人間性の本質である「優しさ」とは少し違う。自己を持たず、相手に擦り寄っていく、相手の意をおもんばかり、相手の意のままに生きようとする、相手から見て「優しい」ということである。登校拒否は、多くは、その「優しさ」に対する自己矛盾が強くなった時に現れるが、いじめられっ子にはその矛盾が自覚されていないことが多い。「自立」なき「優しさ」は人間性の喪失に繋がりかねない。
 和夫の「優しさ」はどこから来るのだろう。
 小学校1年生の時に父母が離婚したからか?子どもの頃からの遊び方から来たのか?たとえば、姉が遊び相手の主体だったとしたら、随分と差のある歳の差の遊びでは姉の後について歩く喜びだけとなる。それとも、同じ年齢の友達の間での遊びに自分の技を持たないでいたとしたら、やはり、ついて歩くだけになる。
 いずれにしても、和夫の生育史を追わなければ、その「優しさ」は解決できない。
 この日分かったことは、母親と一緒に風呂に入り、母親と一緒の布団で寝ている、ということだった。後に母親から、姉に果たせなかった母親としての関わりを悔いて、和夫には精一杯の愛情を、形として注ぎたかった、と聞かされた。
 「典型的な母子一体化ですね。それと、お姉さんがもう一人の母親役をやっているような気がします。とりあえずは、いじめを跳ね返す力を生み出すためには、和夫君が自分の意志を持って自分の人生を見つめること、自立する必要があると思います。おかあさんとの一体を止めさせるようにしてください。」

無気力との出会い
 「とにかくお宅にお伺いして、和夫君ともお母様ともお会いし、お話を伺いましょう。」
 その約束の日が199*年12月6日。日本蕎麦屋「名取」を訪問した。「名取」は母親の貴子が経営する店で、自宅はそこから歩いて10分ほど離れたところにある。和夫は、学校から帰宅後母親が店を閉めるまで、店の2階で時を過ごす。小学校時代の同級生が遊びに来るのも、ほとんどここである。「名取」は、表通りから少し入ったところにある。パチンコ店、バー、飲食店などが並んでおり、土地の香りがしない、人の息づかいが聞こえてこない、そんな感じの生活台だ。
 がっしりとした体つきというよりは、やや小太り、といった方が適切だろう。私とほぼ同じ体格、背丈の少年が、私を無表情に迎えてくれた。「こんにちは。」と私が声を掛けた時、母親が「和、ご挨拶は?」と合いの手を入れた。ぼそぼそとした声で、和夫が「こんにちは。」と返してくる。和夫の母親に対する「優しさ」が私の前で表出された最初である。その一方で、初対面の私を警戒している心が、ひしひしと伝わってきた。「いじめられているんだって?」これが最初に切り出した言葉だった。
 この日は、いじめの事実を確かめること、和夫がそれをどう受け止め、彼なりの解決への願い、見通しなどをもっているのかを確かめることを目的とした。
 話し手はほとんど志津と貴子。和夫は自分から語ろうとしない。私が尋ねると、志津あるいは貴子が答え、和夫がそれを確認または訂正する。そういう進み方だった。
 訪問を終えた後は、駅までの数分、志津に、分析と課題を語るのがその後のならいとなったが、第1回の訪問の際の分析と課題について、「姉が姉であること、それに和夫君が家庭の中で自分で責任を持つ場を作ること。」と述べた。これは和夫の「自立」課題を示唆したものである。「いじめについては、学校と何とか連絡を取りあえる方向を考え、それで解決を目指しましょう。」と語った。姉や母の不安に応えなければ、家族から見れば、「自立」課題の提示など、まさしく余計なお世話なのである。もちろん、江藤家に対して、学校でのいじめの問題は学校でしか解決がつかない、ということを示唆したものでもある。
 志津や貴子は、私に包み隠すことなく、家庭内の事情を語ってくれたし、また和夫の状況についてもそうだった。これまで多くの相談事を受けてきたが、ふり返ってみると、隠されていることが多い。そしてその隠されていることがネックとなって「解決」の道が見えない、あるいは見誤ってしまうということがほとんどだった。それから考えると、志津や貴子の私への姿勢は「カウンセラー」としてじつにありがたいものであったし、それだけ彼女たちが必死であったということであろう。第1回の訪問の別れ際、志津が「和夫が幻聴がすると言っているのですが、それは、いじめと関係があるのでしょうか?」と問うてきた。人が「死ね」と言っているように思う、というのである。少し聞き込んでみると、その幻聴のきっかけは小学校の時にあり、中学に入ってリアルになっているということであった。「今の段階では何とも言えませんが、一度、精神科で診察していただいたらどうでしょう」と応えた。さっそく診察を受けたとの報告を第1回訪問から間もない後日に受けた。「強度のストレスから来ている」との診断とのこと。小学校の時から、和夫は、何らかのストレスを抱え込んできているということである。その根本を探るのは、素人の私がすることではないが、それでも生育史を深くとらえなおすという課題は残されたことになる。それと共に、幻聴は、その後の彼の精神状況をはかるのに、重要な意味を持つようになる。

信頼関係を築く
 江藤家への訪問は毎週月曜日夜7時と決めた。その他の曜日は私あるいは江藤家の都合がつかなかったからである。6時に授業を終えるとそのまま江藤家を訪問する。当然食事を和夫と共にしながらの「カウンセリング」となる。食事に対する向かい方――箸の持ち方が不器用であるとか肘をついて茶わんを持つとか、音を立てながら食するとか等々(これらは和夫がそうであったということではない)――の中に、和夫の「育ち」を見いだすことも、私にとっては彼を「知る」重要な情報となる。が、訪問初期は、それらの情報はあくまでも私の内に止めておくものであり、「自立」課題として江藤家に提示されることはない。
 12月13日の第2回訪問の時、貴子に招ぜられて部屋に入ると、和夫は無言のままファミコン・ゲームに興じていた。貴子が和夫に声を掛けようとするのを制し、そのまま和夫の後ろ姿を見続けた。30分ほどしてゲームは終了した。彼の横に立ち、「こんにちは、和君。今度、ぼくにゲーム教えてよ。」と声を掛ける。「いいよ。」低いがはっきりとした声が返ってきた。それから彼は、しばし、ファミコンのゲームについて講釈をしてくれた。どうやら、江藤家への出入りのテストは、合格したようだった。それが証拠に、この回の会話は、前回が私対貴子・志津がメインであったのに対し、私が問うと和夫が応える、それに対して志津と貴子が「追い打ち」をかける、事実をさらに詳しく説明する、という構造になった。和夫と私との間の会話はおよそ次のように流れた。
私「いじめられていて、いやじゃないの?」
和「いやだよ。」
私「いやだったら、やり返してやりなよ。体格がいいんだから、できるだろ?」
和「何かしようとしたらストレスがたまるから、いやだ。」
私「だって、このままじゃ、いじめはなくならないだろう?」
和「時が過ぎるのを待つ。」
私「もうすぐ冬休みだから、それが明けたらいじめはなくなると思っているのかな?」
和「そう。」
私「でも、やっぱりいじめが続いたら?」
和「2年生になって、クラス替えになるのを待つ。」
 問題解決に向けた和夫自身の努力姿勢はいっこうに見られなかったが、多くを語ってくれたことは、向後の私たちの関係性を保つ意味で、重要な役割を果たしてくれた。
 後日――年が明けてのこと、和夫が私を手招きをして、自分の学習机の方へと案内してくれた。引き出しを開けて「これ、見て。」という。びっしり詰まっていたものは、消化器の安全ピン、風呂屋やロッカーの鍵。
「どうしたの、これ?」
「ストレスがたまってどうしようもない時、消化器が噴射しないようにそっとピンを抜いたり、人目を盗んで鍵を抜いてやるんだ。」
「それでストレスは晴れるの?」
「そう。ドキドキ感がね、ストレスを忘れさせてくれるのかなぁ。」
 何をするのもストレスが溜まるから、いやだ、という和夫も、ドキドキ感を味わうことができるならばストレスを忘れることができる。彼にとってはそれはいじめに耐え抜くための方法でもあったわけである。その時に私に見せた晴れ晴れとした表情を忘れることができない。じつにいい顔の少年であった。
 だが、それらの行為は軽微とはいえ犯罪である。消化器のピンの抜き取りは和夫たちの身辺でゲーム化しているという。いざというときに消化器が役に立たなければ初期災害を防ぐことができず、大惨事に繋がりかねない。和夫が住むマンションの棟をはじめ近在の団地ではパトロールをしてピン抜き取りを未然に防ごうとしていた。だが、少年たちのドキドキ感の誘惑は、パトロールの目を盗んで行われる。ロッカーの鍵等は抜き取られれば使用不能となる。鍵が抜き取られて使用できず、荷物を収納できない様を思い浮かべて憂さを晴らす。これもまた都会の少年たちのゲームの対象となっている。こちらは消化器のような危険性はないが、間違いなく器物破損の犯罪行為ではある。
 彼とてそれは分かっているのだろう、いや、分かり始めたと言った方が正確かもしれない。だからこそ私に見せたのだ。ストレスの解消を別のものに代えるものを見つけたい、そういう彼の願いをかいま見たような気がした。「和君、分かった。」ようようのこと、私はそう答えた。代替行為について思いつかない苦しさを抱え込んだ返事だった。和夫が「ロッカーの鍵、返してきておくよ。」と言ってくれたことに大きく救われた思いをした。「返しにいってもたぶん鍵は付け替えられている。だから返しに行かなくていい。でも、もうしないよね?」「うん、もうしない。」

いじめの構図
 いじめは典型的な暴力によるもので、とくに理科の授業中に現れる。理科の授業は班別学習。班員の組織は出席番号順である。暴力をふるう赤堀、石津、太田が同じ班にいる。いじめの事実については、事ある毎に確かめていたが、貴子や志津の語るいじめと和夫の語るそれとの間には、期日などにおいて、食い違いがあった。そのこと自体、和夫が、自分からいじめられていることを語ることがなく、母と姉に問いつめられてようよう語る、それを志津と貴子が再構成する、そしてそれを私に伝える、という関係から来ているのだ。和夫の口から、事細かに聞き出すことができるようになるには、初回訪問から約2ヶ月経った頃である。信頼関係が生まれたからと言って湧き出るように事実が語られるのではない。信頼関係がほんものかどうなのか、探り探り、和夫は私に対して接触を深めているわけである。
 赤堀は越境組の一人。入学当初からあれこれと人にちょっかいを出して、小さな騒ぎを起こしている。その赤堀がいじめのリーダーとして頭角を現したのは1学期半ばのことである。
 6月初旬、やはり越境組の一人である佐々木が和夫に暴力を振るった。きっかけは何であったのかはわからないという。この時、佐々木が殴ったのをきっかけに、幾人かの男子が和夫を殴ったり、暴言を浴びせかけた。おそらくこの佐々木の行為は、日本社会における古くからある「仲間入り」の儀式(イニシエーション)の一種であったと思われる。多くは「度胸試し」の形で行われ続けてきたそれは、80年代の学校の暴力化と共に、リーダーと目される者による指示によって暴力的なイニシエーションが行われるようになった。佐々木の場合には誰に指示されるのでもなく自らが進んで「暴力」イニシエーションを行ったことが特徴的であり、それが彼の目算違いともなって事態は展開する。要は、佐々木は新しい学級に溶け込むために暴力いじめという行為に出た、その対象を和夫とした、他の同調者はそれを「遊び」と認識し参加した。
 自らが演じるイニシエーションが他に受け入れられるとは限らない。むしろそれは「仲間」というルールからはみ出る行為であり、「仲間」のリーダーを任じようとする者からすれば面白かろうはずはない。佐々木が和夫に暴力を振るい、何人かがその輪に加わっている光景を見ていた赤堀は、「おい、佐々木をいじめようぜ。」と、和夫をはじめ、石津、太田などに呼びかけた。呼びかけを拒否した和夫を除く者の手で、佐々木いじめがはじまった。佐々木はそのいじめが長期にわたり、陰湿さが加わったため、登校拒否に陥る。佐々木の登校拒否は3学期にいたるまで続く。歪んだ形の仲間づくりによりはじき出された結果の登校拒否という本質を知ることのない教師たちは、佐々木の登校拒否を深刻な教育課題だと受け止めつつも、本質に迫りうる具体的な実践を試みるわけではなく、「佐々木が来たら、あたたかく迎えてやってくれ」という声かけ程度で終わっている。それどころか、教師たちは子どもたちの人間関係づくりのゆがみをさらに強めるような言動を多くするようになる。「いじめられる弱さを持つからいじめられるのだ。」という恐ろしく俗人的な、つまりは教育のプロフェッショナルとは縁のない認識と行動によって子どもたちに向かう教師たちが学校を支配し始めれば、間違いなく学校は、その実質を「力のある」子どもたちによって支配されることになる。いじめや差別などが子どもの間で横行し、その一方教師や親たちに対しては見事なまでに隠蔽される。コップの中の烈しい嵐に見舞われると、その渦中の子どもは出口を見いだすことができなくなる。いじめによる自殺事件はこうして起こるが、自殺にいたらないまでも人間性喪失――無気力、諦観など――に多くが陥っている。和夫はすでに後者の直中にいたし、自殺に行き着かないという保障を誰がすることができるだろうか。
 1学期半ばに突然見舞われた暴力は、幸いなことに、その後現れることはなかった。しかし、夏休みが開け9月の半ば、トイレで掃除をしていた和夫に対して、赤堀、石塚、太田などの班員が、いきなり飛び蹴りをし、床に倒れた和夫に殴る、蹴るの暴行を振るった。和夫は抵抗をすることができず、頭を抱えてうずくまって「時が過ぎるのを待」った。それ以降、和夫に対する暴力いじめ、暴言などが、「教師の指導力のない授業」や「班学習で教師の目が届かない授業」「休み時間」「掃除の時間」などで、繰り広げられることとなる。もはやこれは、「イニシエーション」行為を越え、暴力いじめそのものを遊びとするものに転じていると理解されなければならない。教師による初期指導がなされなかった当然の結果でもある。
 9月からの暴力いじめで、当然のことながら、身体にあざや傷が生じている。一緒に風呂に入っている貴子に気づかれないはずはないのだが、貴子は、あざや傷は和夫が入っているバスケットクラブの活動のせいだという和夫の言葉を信じ、深く追求することはなかった。貴子に、それがいじめのせいであることが知れるようになったのは、11月末のこと。「名取」の雇用人の一人に和夫と同級生(女子)の母親がいた。家庭の事情で転居と転校が決まったその同級生は、今だから言えるけど、と泣きながら荒れに荒れたクラスの様子と母親に語った。その話の中に和夫に対する陰湿かつ執拗な暴力が加えられていることが入っていた。同級生の母親が貴子にその事実を語り、知るところとなったわけである。志津と貴子は、当然のことながら仰天し和夫を追求する。和夫はようようのこと、いじめられている事実を認めた。だが、学校に訴えることについてはかたくなに拒否した。彼をはじめ、子どもたちは、教師の指導力いや学校の教育力そのものに対して、きわめて強い不信感を抱いていた。教師に知られれば暴力はさらに烈しくなり、生きていくことすら辛くなる。それが和夫の母と姉に対する回答であった。

学校とのつながりを求めて そして、絶望
 12月20日の面談の帰り道、私は二つの道を志津に示した。それぞれの道は迫り方こそ違え、和夫に対するいじめの問題を教育の課題として学校側が意識をし、取り組むしか他にないとの私の判断である。
 一つは和夫の語る学校の様子――先に述べたようなこと――の事実をきちんと知らなければならない、ということである。和夫を疑うようなことではあるが、本当に授業が荒れているのか、本当に教師たちが暴言を子どもたちに向かって吐いているのか、本当に長期登校拒否生徒がいて学校ぐるみでそれに取り組んでいるのか、取り組んでいるとしたら和夫の言うようなただの声かけで終わっているか、などである。物事には因果関係がある。その因果関係のとらえ方に誤りがあると、因果関係を変更するにあたっても誤りを生じてしまう。ことは人権に関わる重要な問題だからきちんと知っておきたい、と志津に語った。志津もそれに同意した。あと一つは、それを待ち、結果次第によって担任に直接和夫に対する暴力いじめがあることを訴え、いじめ解消の取り組みをしてほしい旨を告げることである。もちろん、いずれも、和夫には内密の行為である。せっかく築き上げつつある私と和夫との信頼関係が崩れてしまっては、たとえいじめがなくならなくとも「自立」への道を歩ませることがまったく不可能になってしまうからである。ただ、冬休みが目前に迫っていることにあわせて私が某地方国立大学での集中講義が数日後に待っていることから、早急な行動が求められることであった。
 自宅に帰ったその夜、妻に事細かに事情を話し、協力を求めた。妻は江藤家が居住し和夫が通学する近隣区に職場を持っている。職場があるだけではなく児童文化運動や図書館関係の運動で人脈も持っている。その中につてを求めた。同時に私自身が関わる教育研究運動の中にもつてを求めた。妻の知人の紹介する某氏と私の知人の紹介する某氏とが氏名が一致した。某氏は和夫の通う学校の教師である。さっそく連絡を入れたが「担当する学年のことで精一杯。しかも他の担任学級のことに口を挟むことはできない。このことで事情を察してほしい。」と協力はおろか情報提供さえ拒否された。教師自身もまた「コップの中の嵐」に巻き込まれているわけである。
 志津には学内に協力者を求めることは不可能なので直接担任に話をするしか方法がないことを伝えた。集中講義の初日の12月24日、志津は担任に面会を求め、和夫が長期にわたり暴力を受け続けていること、身体にあざや傷がたえないこと、和夫から笑顔が消えていること、このことについて教育学者に相談をしながら家族としてはことに当たっていること、家族及び教育学者はいかような協力も惜しまないので問題解決の道をはかってほしい、と訴えた。集中講義を終えて疲れた身体をベッドに横たえている私にかかってきた志津からの電話は、話は分かった、だが教育学者と協力してやる必要はない、もちろん面談も断る、という内容だった。担任が何を考えどうするつもりなのか、それを知り、人格形成や発達課題を専門家として指導参考資料として提供するつもりでいた私、そして担任から伝えられる学校での和夫の様子や学校の考える指導課題を知ることによって家庭における和夫への関わり方を得ようとしていた私や貴子・志津にとっては、いっさいの頼みの綱が切れてしまったことになる。絶望的な気分で199*年の暮れを過ごすことになる。まさに、和夫の言うごとく、「時が過ぎるのを待つ」しかない。和夫の心内では、冬休みが明けたらいじめがなくなっていることを期待するしかない、それが駄目なら小学校の時の友人が多くいる学校に転校をする、ことを決めていたようである。

授業が怖い!
 3学期がはじまった。
 和夫の期待は無惨にも外れた。担任にいじめの事実を話してあるから、何らかの手を打ってくれるのではないかという私と志津・貴子の期待も外れてしまった。それだけではない、和夫から仰天するような話が語られた。何人かの教師が「自分だったらこんな学校に越境しないね」「越境生はもともとの学校に転校した方がいい。」と公言しているという。これはずいぶんと長く言い続けているようで、和夫がいつものようにトイレで暴力を受けているときに、側を通りかかった生徒指導主任がそう吐き捨てて、通りすぎていったという。佐々木に対する暴力、そしてそれによる登校拒否のことを受けての教師たちの言葉であり、暴力の渦中にある被害者の和夫に向けての言葉である。このような話が新学期そうそう和夫の口から語り出されたのは、和夫にとってもはや腹に据えかねるものがあったからであろう。彼の顔を見ると、目の上に絆創膏が貼られている。「どうしたの?」と尋ねると、別の学級をふと覗き込んだら、いきなりチョークが飛んできてあたったという。チョークで怪我をするとは考えられないことであるが、その言葉をそのまま信じる振りをした。だが、貴子や志津は、絆創膏を貼らなければならない傷が生じるような事態が学校で続いている限り、いじめがさらにエスカレートするのではないかとの恐怖感を強めていた。
 この日和夫が持ち帰った学校の書類の中に、「学年委員会便り」があった。それは学級委員を務める生徒たちの手によって作成されたものだ。各学級員がそれぞれの学級の様子を書き、2年生に向けての準備のための心構え、決意が書かれている。全5学級のうち3学級までは自分のクラスの自慢を書いていた。だが、和夫の所属する1組については、次のようなことが書かれていたのである。
「授業中の私語、勝手な立ち歩き、ものを投げるなどの授業妨害、暴力などがあります。云々。」 
 私が求めに求めたもの、すなわち和夫の言葉の裏付けをはっきりここに見ることができる。和夫の「被害妄想」なのではなく、事実なのである。しかも生徒の手によって書かれ学年全生徒全保護者に知れ渡る形となって知ることができた事実である。このことが教育実践としてどのように資されるか、私には不明であったし、もちろん江藤家にとっても不明であった。ただ、和夫にとっては3学期に向かう姿勢にはプラスに向かうことはなかった。というのも、3学期から技術科の授業が入る。ノコギリ等の道具を使っての作業が待っている。技術科の担当教師に対する和夫評は「なめられている先生」である。つまりその指導力に疑いを持っているから、道具がいじめの武器にされるではないかとの恐怖感がある。いじめをする奴は何をするか分からない、と和夫は言う。
 問題の解決を急がなければならない。和夫は冬休み中、横中に転校したいと言っていたという。横中にいる友だちからの年賀状に、「横中に来いよ。」と書いてあったことも、彼を刺激したのだろう。ただ従前の彼の姿勢から見れば、これは一つの前進としてみることができる。何をするにもストレスが溜まるからいやだ、時が過ぎるのを待つ、ということから、いじめられている事態からの逃避を願い始めたわけであるから。
 しかし、運悪く、横中の友だちが、ばったりと遊びに来なくなった。そのことが大きな引き金となり、貴子はパニック状態に落ちいった。
 「横中の先生が、うちの子と遊んではいけない、と言ったらしいのですよ。うちの子は何もしていないのに、どうしてなのですか。横中の友だちが和夫の救いなのに、それまで取りあげられたら、和夫はどうしたらいいのですか。」
 事情は次のようであった。
 和夫の遊び仲間の一人に、横中から転校したのに転校先になじめず、横中の校門のところまで来る生徒がいた。問題行動を重ねているとの評判のある生徒で、横中でも扱いに困っていたらしい。また、それと同時期に、いじめられっ子の和夫が横中に転校するらしいとのうわさが、横中に伝わった。それを受けて、横中の生徒指導主任は、まず、問題の生徒とは遊ばないようにと、その生徒の遊び仲間を指導した。さらに、和夫の転校意志は本当のことかを、藤中の生徒指導主任に尋ねた。藤中の生徒指導主任がそれが事実かどうかを、当の本人にではなく、周辺の生徒に尋ねる。うわさがうわさを呼び、事実が歪曲され、拡大解釈され、和夫の遊び友だちをして「一緒に遊んではいけないと、先生に言われたから遊べない。」と言わしめる事態にいたったわけである。指導の方針さえつかめない無能な教師集団の姿をここに見ることができるわけである。怒りに震える思いを感じずにはおられなかった。
 「一緒に遊んではいけないと、先生に言われたから遊べない。」という言葉が何を意味しているか。それは和夫の横中への転校は決して歓迎されていないということになる。いじめから逃れるための方策の一つとして模索しつつあった江藤家にとっては、逃げ場がなくなったということである。
 13歳の少年にはあまりにも酷い事実である。時を待ったが解決されない、場を変えようと思ったがそれは認められない。どうすればいいのか。着実に彼の煩悶は彼の身体に変化をもたらし始めていた。幻聴に加え耳鳴りがはじまる、風邪によく似た症状が続く。私が訪問する日などは、事前に起きているが、それ以外はベッドの中にいる。休日は自室に閉じこもったままである。登校時には腹痛がする。彼の住むマンションは10階である。窓から登校の様子を見ていると、マンションを出てすぐの信号で立ち止まり数回の信号が変わってやっと歩き始める。わずか5分の駅までの道のりを30分かける毎日が続くようになった。完全に心身が社会との交わりを拒否しつつある姿である。暴力の方もエスカレートしており、怪我をして帰ってくる日が増えてきた。怖いという技術の時間と理解の時間だけを授業拒否していたが、1月の中旬には、とうとうほぼ全日不登校の状態に陥った。ただ、私との対話は、欠かすことなく迎えてくれていた。

学校との共同戦線を探る
 息子は、ぼく、生きている価値があるのかなあ、とつぶやく。母親は、おかあさんと一緒に死のう、と息子に迫る。姉の志津が母親の思い詰めた行為をようようのことで制する。私の前でも同じような光景がなされた。このような現場に居合わせると、私自身の無力さを感じるばかりだ。このまま母子心中を待てばいいのか、それとも、耐えに耐えて、「時間が過ぎるのを待」てばいいのか。いずれにしても後に何も残らないのは事実だ。やはり、転機を作らなければならないのだろう。たとえそれが強引な手法であろうとも。
 1月の第3回の訪問日。怪我をして帰ってきたので小児科に行ってきたという。私は診断書をもらっておくように、貴子に命じた。診断書がこれからの「戦い」の武器になる。貴子に説明した。
「これはもう、いじめではなく、暴力事件といってもよい。担任もしくは校長に事情を話し、診断書を突きつけ、教育委員会提訴も考えている旨を伝えた方がいいかもしれない。人権擁護委員会への提訴も考えていることも伝えた方がいいだろう。ただ、それは、学校側と決定的な対決となり、形式は解決するにしてもしこりが残るし、学校側がいじめ解決のための力量をつけることにはならず、第2第3の和夫君を生み出しかねない。従って、その前に、和夫君の口から担任に対して、いじめを受けていること、そしていじめを排除するための努力をしてもらいたいことを伝え、解決の糸口を探りたい。担任が相手にしないようなら、先に言ったことを実行する。学校でこのことを訴えれば当然他の者に知られるところとなり、いじめのターゲットから逃れることは困難となる。だから、担任を自宅に呼び、和夫君の口から訴えるようにしたい。」
 私の江藤家での会話はすべて和夫に筒抜けである。あらゆる情報を彼の耳に入れ、彼の判断・行為の資料となるようにとの配慮である。和夫の問題について和夫の知らないところで何らかのことがなされる、これほど当事者を疎外するものはないとの、私の人間理解からである。言葉を換えれば、和夫には自身のことがらについて判断し、行動する力があるということを彼に暗に伝えていたわけである。当然この日の、私と貴子・志津との会話を、和夫は側で聞いている。オレはいやだ、絶対いやだ、と言い張る和夫を、三人で説得にかかった。和君、ぼくも命かけてる、君も命かけようよ。「駄目だったら…」と出かかる言葉を飲み込んで、懸命に語りかけた。
「分かった。」
 1月下旬のある日、いつもの席で、担任の来訪を心待ちにした。
 担任には、この日、私がいることは知らせていない。ただ、和夫が先生にお話ししたいことがあるというので、ぜひお出で願いたい、と伝えてあるだけだ。ただ、担任は昨年暮れの志津からの申し出のことを意識に上らせているだろうことは、想像に難くない。その時のことから考えてみても、予め私が同席すると伝えていたとすれば、担任は来訪を拒否することだろう。案の定、来訪直後、私が同席することを知った担任は、話が違うと言い、別室にて和夫から話を聞く、と貴子に告げた。だが、担任を迎えに出た和夫の声がドア越しに聞こえてくる。「カウンセリングの先生のいるところで話を聞いてほしいのです。ぜひお願いします。」事前の打ち合わせにはないこのセリフは、かつて聞いたことのない程に張りのある声であった。自らの意志で、自らの言葉で、和夫は担任に願い出たのだ。気負いに負けた形で、担任は、和夫の後から私が待ち受ける部屋に入ってくる。私と担任とが名刺を交換しあいながら簡単な挨拶を交わして後、予め示し合わせておいたとおり、和夫は、暴力いじめを受け続けていること、そのために怪我をし、医者にかったことを語り、診断書を差し出した。担任の顔が一瞬厳しい表情に変わった。診断書を開きながら、この間のいじめの事実の確認を取り始める。担任は、「それで君がどうしたいのか、それが出されるのを、先生は待っていた。」と言う。いじめられている当事者からの申し出がない限り教師としては手を出すことができなかった、もっと強い人間になってほしい、というのが担任の言い分であった。強くなろうとも、それの上を行くいじめがなされている、という事実認識は不十分であることを感じたが、私はじっと黙ったまま、その後の推移を見守ることにした。
 和夫から担任に願い出たこと。この内容までは事前には打ち合わせてはいない。診断書を添えて話を聞いてほしいと言えばきっと担任は聞く耳を持つだろう、と彼に伝えておいただけだし、志津と貴子にもその旨を語り、和夫に任せようと言い聞かせてあった。
1. 授業中のいじめが起こらないために、席替えをしてほしい。
2. 2年生に上がる時には、いじめっ子たちと同じクラスにならないよう、クラス分けに配慮をしてもらいたい。
3. 自分が担任に訴えをしたことを、他の誰にも話さないでほしい。
担任からの返事。
1. 自分が担当する授業や学級会では席替えを実行する。
2. 担当以外には、その教科の先生に事実を語り、配慮を願う。
3. クラス替えについては確約はできないが、配慮を学校側に求める。
4. いじめがあった時には、必ず報告してほしい。
5. 休み時間など、いじめが起こりそうな時や場所については、心して見回りをする。
 雑談の中で担任は、「子どもの荒れ」が年々ひどくなってきており、指導を越えてしまった現状にあることは認識していた、佐々木の登校拒否以降、学校としても全員一致で取り組みをしてきている、その効果として、佐々木は3学期になって登校をし始めている、などを語った。精一杯やっているので学校を信頼してほしい、ということが彼の言い分であった。「とにかく、よろしくお願いします。」私と貴子、志津、そして和夫が頭を下げ、担任を見送った。和夫は、診断書を出して先生の態度が変わった、真剣に考えていたと、幾度も繰り返した。彼自身、いじめの事態が変わるかも知れない、変わってほしいという予感を得たのだろう。

「ぼくを人間として認める雰囲気がクラスにはない」
 担任の訪問を受けたあとも、和夫は登校・不登校を断続的に繰り返していた。私と談笑している時も、盛んにあくびを繰り返し、身体の落ち着きがない。精神的安定とはほど遠い状態である。風邪症状が続く。ストレスから来るものであると確信はしたが素人判断で症状を重くしてはならない。念のために内科医の精密検査を受けることをすすめた。案の定、内科医は、どこも悪くはない、それどころか、これまでなにかの重荷を背負ってきているのではないか、そちらを直すことが第一だと、診断した。口でこそ語らなかったけれど、和夫の精神的不安定の元を探り当てていた。
 赤堀の親は自営業を営みPTAの風紀委員という役職に就いている、太田は父親が警察官で厳格な家庭教育がなされているという。また石津の父親はキリスト教系の宗教者である。3人が3人とも家庭では「いい子」だという評判である。家庭での重圧感から逃れるためなのか、家庭では仮面を被っているのか、そのあたりは不明だが、彼らの学級での役回りは、いじめのターゲットを探し回っている、大空から地上の小動物を探している鷹のようなものだ。恒常的には和夫がターゲットになっているが、彼ら3人の取り巻きの中でも暴力の被害に遭う者がいる。いずれも成績は上位にあるため成績判断からは彼らのそうした行為を教師は想像し得ないようであった。また彼らは揃って同じ塾に通っているが、彼等によって登校拒否に追い込まれた佐々木も、その塾に通っている。塾ではいじめの行為をしていないという話であった。こうした情報は貴子が店の客などから聞き込んで得たものが多い。地域に根ざした昔ながらの食堂ならではのことである。悲しいかな、昔ながらと異なるのは、その情報に接して義憤を覚え、解決に向けて行動する人がいないということである。「学校に子どもを人質に取られている」故に、一歩踏み出すことができない、「弱い」親たちにしか過ぎないのだ。結局、情報を得ては、さらに怒りを増加させる、学校の指導力のなさを見せつけられ、絶望感にさいなまれる、ということの繰り返し。
 当の子ども、すなわち和夫は、登校しては殴られ、そして休む。もとより、担任の訪問が一挙の事態打開になるとは思っていなかったが、それにしても、赤堀たちの手を休めない「攻撃」にはほとほと悩まされた。和夫が担任に申し出たことは、「いじめ」からできるだけ遠ざかる状況に身を置く、ということでしかない。決していじめの根本的な解決に繋がるものではないのだ。もう一歩踏み出さなければならない、赤堀たちに迫り、赤堀たちの親にも迫り、また学級全体にも迫るような、解決策が求められる。
 和夫は言う、「いじめているうちにだんだんエスカレートして、気持ちを抑えられなくなる。いじめがいじめを生む」。正邪の気持ちなど入りこむ余地のないいじめの実体を、和夫はじつによく捉えていた。だからこそであろう、いじめを解決することなどできない、いじめから逃げるしか方法はないのだと、彼は考える。
「つらいでしょ。」
「うん。つらい。」
「君を人間として認める雰囲気なんかないんだ。」
「そうです。誰も、男も女も、ぼくを人間として認めてくれてなんかいない。」
「君から止めてくれと、反抗しない限り、いつまでも続くよ。」
「止まるまで待つしかない。」
「…君が反抗できないなら、大人のやり方に任せない?ぼくに全部、任せない?そうしなよ。」
 長い沈黙の後、和夫は、「分かった。」と答えた。彼として、精一杯の勇気を振り絞っての答えである。
 2月3日のことである。この日、私ははじめてタクシーを使って自宅に戻った。自宅に着いたのは午前3時を回っていた。

学校訪問
 翌日の2月4日、志津を通じて担任に面会を求めた。担任が同日の夕方に会いたいとの返事をする。私たちも「急いで」いたが、担任も「急いで」いる。互いに腹のさぐり合いをする暇もなく、問題をどうとらえ、どう解決していくかという意志で一致していた会談であった。
 校長室に招き入れられ、まずは校長との話し合いとなった。私たちは勢い込んでいじめ解決を願うという話しぶりはしなかった。まず学校側の話をうかがい、それから私たちの願いと方向性とを提供する、という話し合いを心がけたわけである。
 校長は学校管理責任者として一生懸命務めていると話を切りだした。しかし30分ほど経った頃から、社会現象としての、子どもの荒れ、親の我が子に対する過剰信頼、親同士の腹のさぐり合い、人間の間を分断する過当な競争主義意識などが、如実に我が中学校にも現れてきており、指導のあり方を試行錯誤している段階であること、しかし教師の中にはそうした現象を個別的特殊なものとしてとらえる者も少なくなく、指導体制が万全ではないなど、誠実な応対の姿勢を見せるようになった。私自身も、生活指導研究運動に携わる立場から校長の言うことはまったく同感であること、だからこそ、学内外で手を携えることができる者同士が教育指導のあり方を求めなければならない時期であると認識していること、今回は和夫の問題であるが、和夫一人の問題ではない、クラス、学年、いや全校の教育実践の課題として取り組みが望まれる旨を語った。1時間ほどの校長を交えた話し合いで、双方が「よろしくお願いします」と頭を下げあった。担任は、今後の学級での取り組みについて、逐一私に報告するので、そのたびに助言をもらいたい旨を語る。
 私は、志津と貴子に話していたことを、校長と担任の前で再現した。「和君に対する暴力いじめの解決はすべて学校に任せる。一方和君自身が問題解決の意欲を示すために、家庭で全力を尽くす。」と。家庭で全力を尽くすという具体的内容は、「今の状態のまま2年次に転校しても、今度は転校生いじめにあうことは間違いない。和君は、友だちが防波堤になると考えているようだが、ぴたっと遊びに来るのが止まったことに見られるように、それほど強固な防波堤ではない。いじめとはそれを簡単に越えてしまう。だから、転校の方向性はまったく考えない。」「和君の自立課題と結びつけなければ、現象としてのいじめがなくなるにしても、自分の人生を行ききる強さを自分の中に培うことができなくなり、新しい対他関係から生じるであろう齟齬を解決することができない。従って母子一体を克服し、自ら置かれた環境の中に、すなわち藤中の中に友人を求める積極性、意欲生を培う。」である。「これらを実際に進めるためには、学級内、学校内での和君の出番があるような、同級生たちから出番が求められるような学習場面、生活場面が組織される必要がある。それは和君に限ったことではなく、一人ひとりの生徒が、それぞれの個性と能力に応じた出番の教育的組織が求められる。」学校と家庭とが、観念で共同戦線を張るのではなく、具体的な方策で共同戦線を張っていきたい、これが私の結んだ言葉だった。

暴力いじめが消えた
 学校訪問から帰宅した日、担任から電話連絡が入った。和夫に対するいじめが長期にわたって行われている旨、和夫から報告があったことを学級に知らせてもよいか、という問い合わせであった。生徒たちのほとんどはその事実を知っているはずである。しかし知っていることを「隠して」いることも事実である。「隠して」いることを教師によってオープンにされることは、クラス内における生徒たちの力関係に何らかの波及効果をもたらすことは間違いない。「先生にお任せしたのですから、先生のおやりになることに異議は唱えません。どうかよろしくお願いします。」と答えた。いじめがなくなってほしいと切実に願った。
 翌日の夜、担任からの電話報告があった。
 ホームルームで「江藤から、いじめられている、という訴えがあった。いじめている者は手を挙げよ。」「また、全員で、江藤へのいじめ、という題で、作文を書くように。」と指導した。挙手の方は皆無であった。作文は、後日私も読む機会を得たのだが、「いじめはよくない」という観念的記述が大半であり、「江藤へのいじめ」との題とはおおよそかけ離れたものであった。担任は、和夫から具体的な名前が指摘された赤堀、大田、石津を個別に呼び出し、いじめの事実を問いただした。赤堀、大田はその事実を認めたが、石津は頑として認めなかった。赤堀、大田に対しては、和夫をいじめた事実を両親にきちんと話しておくことと説諭した。石津への担任としての対応に苦慮している、とは電話の向こうの言葉である。要は、担任は、いじめをした者たちの保護者を呼び、貴子ならびに和夫に謝罪させるという指導方針を持って事に当たったわけである。作文はそのために事実の食い違いが無いかどうかを確認するためのものとして位置づけられていた。この指導で、いじめがクラスの子どもたちの問題であり、子どもたち自身がいじめを克服するという指導課題を持っていなかった。私には、解決への道がはるか遠いことを実感するだけの電話報告であった。「謝罪させることが目的ではなく、いじめをなくすことにあるので、保護者の謝罪まで追い込む必要ないだろう。事実認識の食い違いは仕方がない。そのままにしておいてください。貴子の方は私が対応する。」と回答した。加えて、次のように語った。
「子どもたちの作文にどのように書かれているか、気になります。拝見させていただきたい。」
 担任から名前を伏せた作文の束を見せてもらったが、上に述べたように、いじめの事実がどの作文にも書かれていない。まったく無個性な作文である。「もう一度、生徒たちに作文を書かせていただけませんか。いじめ解決の方向性が見つかるまで和夫は登校をしないと言っています。このままでは、私も和夫に登校を促すことができません。」
 次のホームルーム。担任は「江藤が今日も学校に来ていない。それがなぜだか分かるだろうか。先週書いてもらった作文のいくつかを選んでこれからみんなに配るから、それを読んで、もう一度、江藤へのいじめ、という題で作文を書いてほしい。」と指導をした。二度目の作文は一度目のそれとは歴然とした差があった。「いじめがいけないことは誰でも分かっている。でも、このクラスに事実としていじめが続いていた。いじめをこのクラスから追放しよう。」「江藤君が赤堀君たちにいじめられているのをぼくたちは黙って見ていただけだった。江藤君の次はぼくかもしれないという恐怖感があったから、何も言えなかったし何もできなかった。」「私たちがいじめを見て見ぬ振りをしてきたために、佐々木さんや江藤さんにとてもつらい思いをさせてきてしまった。」などなど、リアリティを伴った反省や見通しを各々が語っていた。ただ一人石津は「いじめはあってはならない。」と観念的記述に終始していた。いじめは絶対にしていないと言い張る石津であっても、赤堀・太田を始め何人かの生徒が、「石津君と一緒に江藤君を殴ったり、コンパスでつついたり、プロレスの技をかけた。遊びのつもりだったけれど、江藤君はやられっぱなしだったから、考えてみれば遊びとは言えないと思う。」と書いている事実には適わないはずである。
 担任は、これらの作文をプリントし、学級会の資料とした。「もうすぐ2年生になるにあたって、どんな学級を作って進級するか。」が議題とされた。学級会は、クラス全員が取り組むもので団結しよう、3年生を送る会で3年生に喜ばれるような活動をしよう、という声が次々と挙がった。教師集団も、年度末を「いいクラスとしてまとめることができた」「いい学年集団に育った」といって迎えたい、という思いがあったようで、「一人一人が出番となる行事」の組織が進められていた。1年生はクラス対抗バスケットボール大会、合唱大会などが組織された。
 不登校を続けている和夫のところに、クラスメートから休んでいる間に配布されたプリントが届けられるようになった。また、ある女子学生から「早く学校に来てね。みんなで待っているから。」との電話が入った。クラスが前進しつつあるのを感じはじめたのであろう、和夫に少しずつ笑顔が戻ってきていた。しかし、登校のきっかけをつかみかねているようだった。ある日、赤堀から電話が入った。「江藤がいないとバスケのクラス対抗で負けてしまうかもしれないから、必ず来てね。」和夫がバスケットボールで活躍できる場がクラス内に用意された。当日、体調が思わしくないというのに、登校、そして試合に選手として参加。結果は二位だったと、うれしそうに語ってくれた。

一進一退だが生活の前進のために
 こうして学級内での暴力いじめが消えた。とはいうものの、和夫と貴子には、心を痛める事態が生じていた。彼らにしてみれば、それは、事態が後退した、としか言えないものだ。重たい雰囲気の日が続く。
和夫はバスケットボール部1年生のキャプテンである。いじめを受けている渦中にあっても部を休むことはなかった。部員でもない太田が、時々「いじめの出張」にやってくる。それは、教師の目には、小さなちょっかいを出しに来ている、と映っていたようだ。足をかけられ転ぶ和夫に、馬乗りになって殴りかかっている太田らを、教師が注意することはなかったし、上級生部員も同級生部員も止めにはいることはなかった。それでも和夫は学校の中で自分が生き生きとできる場として、部活動を休もうとはしなかった。
 だが、2月に入ってから続く高熱と腹痛、耳鳴りのひどさのため、全日不登校に陥った。当然部活をも休むようになった。担任からは、登校したくなったら来るとよい、もちろん部活のためだけの登校でもかまわない、と登校刺激の無い配慮がなされていた。その際、担任は、部活のためだけに登校することがあっても受け入れるようにと、部活担当教師に依頼すると、和夫に約束をしている。和夫は、不登校を克服する直前には、担任の勧めるように、部活に出ていった。そのころ、学校対抗のバスケットボール大会が催された。これは同学年同士の対抗であるので、部長である和夫の出番はあるものと誰もが思っていた。小学校の時から地域の社会人に混じってバスケットボールをいじっていた和夫にとってみれば、多少部活を休んでいようと、体調が不調であろうと、選手として出番のあるだけの技量には自信があった。しかしながら、「部長のくせに部活を休むやつなんかは試合に出せない」と部活担当教師が言い、事実、試合の日、和夫はベンチウオーマーを務める羽目となった。和夫が一番、自らのよりどころとしていたバスケットボール部でのこのような処遇は1年生終了まで続くことになる。せっかく学級でそれぞれの出番を作り、和夫や佐々木や、その他学級生活に困難を覚えていた生徒たちが生気を取り戻しつつある時に、この部活での和夫の扱いは、生徒と教師との間の信頼関係を一挙に崩しかねない危うさを持っていた。担任にその旨を申し出たが、担任は、お願いをすることができても命令はできない、それぞれがプロの教師として自覚を持っているので、と自身の力の限界を超える問題だと弁明をした。
 先にこのような処遇と書いたが、試合に出されないのはともかく、日常のチームプレーの練習においても和夫はその中に加えられない。コートの外でそれを眺めているだけの日々が続く。貴子は憤った。「どうなってるんですか。学校長に抗議しましょうか。」ようようのこと貴子を抑え、和夫に一つの案をぶつけてみた。コートの外でドリブルの練習とか、フェイントをかける練習とかできるだろ?やってみないか。和夫の「たくましさ」がどれほどに育ちつつあるか、確かめたかったからである。さっそく次の日から、コートの外で一人練習に打ち込んだ。部活担当教師は何も言わなかった。そろそろ、きちんと、和夫に転機を告げた方がいいだろう。「小学校の時に大人と一緒にバスケットをしていたと言っていたよね?それはまだあるの?」「うん。」「一人練習じゃやっぱり物足りないだろうから、そっちの大人のに参加できるかどうか、聞いてみたら?」学校の部活ではなく社会体育を勧めたわけである。次の訪問日、和夫は、「日曜日だけだけど、参加してもいいと言ってたから、行くことにしました。」と笑顔で報告してくれた。
 時は戻るが、クラスでの暴力いじめが無くなっても、耳鳴りはやまず、微熱が続く。そして運が悪いことに、2月末から3月終わりにかけて、2度も足を痛めてしまった。9月から長く続いた精神の激しい疲労によって、身体のコントロールを司る神経も疲弊してしまったのだろう。それほど13歳の少年の心身を、いじめはずたずたにしてしまっていた。
 私には、まだなお、和夫の幻聴や耳鳴りの意味がとらえきれていなかった。いじめは解決したのだから私が依頼を受けたことはこれで終わりであってもかまわない。事実、貴子からはお礼をと金銭の包みを渡されかかった。もともと経費はいっさいいただかないという約束ではじめたものであるが、固辞をしながら、このお金を受け取ってしまえば私は明日からお伺いすることはいたしません、それでよろしいでしょうか、と訊ねた。和夫がすかさず、まだぼくは先生が必要だから、お母さん、お金をしまってよ、と言う。和夫にアテにされていること、それは、彼が自らの足で人生を生きる決意をする手助けをすることである。
 「名取」の客の一人に和夫の小学校6年の時の担任がいる。貴子が彼に和夫がいじめられていることを漏らした。6年の時の和夫の様子からは信じられないことだが、何か手助けをすることがあれば申しつけてほしい、と彼は言う。その彼の言葉を頼りとして、3月に入って、彼を訪ねた。元担任が、幸いなことに、勤務校を替えていなかったこともあり、学校に保存されている学籍関係・教育指導関係資料を、関係者、すなわち和夫の保護者名義で閲覧する手続きを踏んだ。小学校4年時頃から幻聴が始まるという、和夫の生育史の「空白」を補うための閲覧行為である。4年次の記録には「計算力はついたが、ただそれだけのことである。」とあった。計算力が足りないと指導を受け和夫は懸命に努力をし、計算の力を上昇させることができた。その結果評価が「ただそれだけのことである。」とは、なんと非人間的なとらえ方なのだろう。和夫に4年の時の先生の思い出を語ってもらったが、「できる人だけ、正解を言う人だけ、指名していたから、ぼくたちは相手にされなかった。」という。5年次もほぼ同様だった。学級での居場所はなく、バスケットボールだけが救いだったという。既に4年次ではクラス内でいじめが強まっており、いじめにあわないように身を守ることで神経を毎日使っていた、だから授業にも集中できなかった、と言う。6年次になり、件の元担任と出会い、一人ひとりのよさを認める学級づくりのスローガンのもと、和夫の生来と言っていいひょうきんさが受け入れられた。和夫の髪は縮れている。縮れは固いので和夫は時々髪に鉛筆を差している。それをクラスで披露した、と和夫が元担任の前で思い出を語ると、元担任も、そうそう、そうだったね、面白いのがクラスにいるなーと思った、と答えた。たわいもないこと、つまりそれは特別に演じる必要もない個性なのだが、その個性の表れを認める6年生のクラスは、明るく、さまざまな学級活動が繰り広げられたという。和夫はバスケットのリーダーとして大事にされていた。性格はおとなしく、他者の悪口めいたことは一度も言ったことがない、優しい子どもだと感じたと、元担任は語ってくれた。和夫のよさが理解されるような学校生活があれば、和夫は知的な面でも、ぐんぐんと伸びて行くに違いないと期待していた、とも言う。
 これらの話は、私にとっては、新しい和夫像との出会いであった。いじめにいじめられて、そこから逃げ出すこともできずにじっと時の過ぎるのを待っていた時に出会ったわけだし、その後の取り組みがあったにせよ、安物の映画や文学のように、ある日突然一件落着ということはあり得ない現実社会に生きているわけだから、和夫がずんずんと自分の世界の中にもぐっていくことばかりが気になっていた。自立への方策を探るといっても、和夫自身の中の何を手がかりとして勧めていったらいいのか、私には暗中模索状態であったわけである。だから、元担任への訪問は、和夫とのその後の関わりの持ち方の暗示を得たように思われた。

おわりに
 和夫には男子学生の家庭教師がついていた。二人の関係は良好ではあるけれども、家庭教師は知的訓練をもっぱらとしている。いじめの話が家庭内で公然と語られるようになって以降、当然のことながら、彼にもその話が伝わるが、「じめられたらやり返すしかないよ」と助言する。確かに力関係を逆転させればいじめを受けることはなくなる。論理的には正しいが実践的ではない。彼は「牛を水辺に連れて行くことはできるが牛に水を飲ませることは誰にもできない。」とも言う。このような方法で、彼は和夫の自発性、自主性を喚起するための言葉かけをしていた。人生訓にはなりえても、実際の自分探しさえ諦めてかけている子どもに対しては意味を持つことがない言葉である。教育・発達の専門家でないから仕方がないと言えば仕方がない。家庭教師の限界でもある。いじめがなくなったあと、ちなみに、和夫に計算の問題をさせてみた。15分と持たない。頭が痛くなり耳鳴りがひどくなると訴える。集中力がいじめによって奪われてしまっているのだ。この集中力をつけることが、「水を飲む」ことにつながる。「問題は声を出して読んでね。」私の要求に声を出して設問文を読む。つっかえつっかえ、文節の区切りも充分ではない。読解力に物足りなさを感じる。家庭での学習のあり方を変更しなくてはならないと強く感じた。家庭教師は3月一杯で終わる。大学を卒業し職に就くことが決まっているからだ。
「和君、ぼくと一緒に勉強する?それとも、新しい家庭教師の先生が決まりかけているから、その人に任せる?」
「勉強、教えてください。」
 和夫は中学を卒業したら、調理師の免許が取れる高校に行きたい、と希望を強くしていた。「名取」の跡を継ぐという。貴子や志津は、跡取りにこだわらず、幅広く人生を選択させてやりたいので、できることなら大学に行くことができる高校を受験させたいという。いずれを選択するか、中学2年の秋頃までにはある程度決めなくてはならないが、人生を長く生きていく上で、基礎教養は習得しておかねばならない。計算力、読書力、そして論理的思考。各種知識はそれらを基盤として培うことができる。しかしながら、私自身がその後も和夫に関わっていくことにためらいを感じ始めていた。あまりにも深く江藤家の内部をかいま見すぎた思いがあり、それ故いらぬお節介を焼きはじめている自分を見いだしたからだ。和夫の人生課題を真正面からとらえながら学力を培うことができるような、私の代替となる人物、その人を江藤家に紹介をし、新しい家庭教師として雇用してもらうことに決めた。私が江藤家に通う回数を徐々に減らしていく・・・・。
 代替の家庭教師は、私の研究室に出入りしていた女子学生である。彼女もまた学校の管理、同級生からのいじめ、周辺の無理解に苦しんで思春期を送ってきていた。長い長い自分探しに勇気を持って取り組んでいる。私のところに集う学生仲間からの信頼も厚い。彼女に、毎回冒頭に30分ほど文学の読み聞かせをしてやってほしい、と条件を付けて、すべてを任せることにした。
 女子学生とともに、和夫は4年余、学び、人生を語り合った。高等学校は初志を貫き調理師資格を取ることのできる高等学校に進学した。一日たりとも休むことなく、しかも優秀な学業成績で高校生活を過ごした。学内で数人しかいないという、大学への推薦入学の候補に挙げられた。貴子や志津は大学進学を強く勧めた。人生のより幅広い選択が可能だと思うからだ。私からもそう説得してほしいと志津から依頼された。和夫に会ってみると、彼は調理師としての仕事に誇りを持ち、いずれは「名取」に戻るがしばらくは修行に出るつもりだ、だから大学には進学しない、ときっぱり言い切った。彼の中から、はじめて彼のことを知った時に感じた「優しさ」とはまったく質の違う「優しさ」を感じることができた。志津と貴子に、和君の人生を和君に選ばせてやりたい、と応えた。
                                  (終わり)

古き時代の塵を求めて

 研究者にとって、オリジナル資料とコピー資料とを比べれば、天と地ほどの差異がある。パリ・コミューンを興味本位で追いかけ始めた頃には、たとえコピー版であろうともその時代の息吹を、真新しい紙と写真製版のためにすり減った活字に、心を躍らせていた。次第にパリ・コミューンに心を引き込んでいくようになる頃には、古本屋のムッシュがぼくの顔を見ると、店の奥から茶色に変質した本を数冊取り出して、にこやかにぼくの前に置いてくれるようになっていた。それらはほとんどが「幻の」という形容がつけられる先行研究書であったり当事者の証言記録であったりしていた。いずれにしてもそれらがパリ・コミューンの息吹を現代に伝えてくれる貴重な「証言」であることは間違いないわけだ。こうして3年がかりで収集したパリ・コミューン関係の史資料は、それらのコピー版あるいは再版ものを含めると、オフィスの6段書棚2架にはなる。それらをいつになったら読了し得るのか?という問いが発せられたら絶望的な気持ちにはなるけれども、そこは研究者の習い性、前書きと目次と、索引とは必ず目を通してあるから、自分が何をどのように研究の視角を持つかという必要度に応じて書架からすぐに取り出すことができるほどには利用をしている。そして、必要な文献・資料を取り出すたびに、あるため息をついていた。それは、回想記録や研究書、調査報告そのものも貴重な当事資料ではあるけれども、いわゆる第一次資料には位置付かない。そして第一次資料に関しては、残念ながら、ほとんどがコピー版や再版本でしか入手していない。第一次資料というのは、後世の者がいっさい手を加えていない、当時の姿、事実をそのまま語るものである。パリ・コミューンに関して言えば、それが存在しているはずだと言われているパリ・コミューン議会議事録(これは1920年代以降に注釈や関連資料を添えたものが出版されている。これをクリティーク版と称するが、クリティーク版そのものがかなり入手困難となっている。近年写真複製版が出版された。)、パリ・コミューンの広報紙(これは抜粋版コピーが出版されている。)、パリ・コミューンの広報ポスター(いわゆる壁新聞。これはまとまった形では目にすることはできない。)が直接的な史料となる。議会議事録はクリティーク版を、広報誌はコピー版を、広報ポスターは10数点の実物を入手しており、さらにこのポスター類は当時を語るさまざまな史資料の中にも引用されているので、ほぼその全容を知るだけのものは我が手元にはある。議会議事録のオリジナルを入手するのはほぼ絶望的と考えられるが、広報紙やパリ・コミューン終焉直後に出された当事資料などに議事録が再録されているので、ほぼ完全な姿を確かめることができている。しかしながら、広報紙にいたっては、コピー版だけが頼りとなっており、その実際の姿については、あれこれと推測するしかなかった。推測のあれこれというのは、先行研究書の中に写真で紹介されている広報紙があり、そのレイアウトはコピー版とはまったく異なるということ、従ってコピー版は何らかの手を加えた再編集版であろう、ということである。まさか記述内容に手を入れていることはあるまいが、それでも再編集版となると、歴史をそのまま対象化しそれを分析し、歴史的に位置づける(評価する)という作業にとっては、かなり信憑性に劣ると揶揄されても仕方ないわけである。
 パリ・コミューン広報紙はJournal Officiel de la République Française というタイトルが付けられている。たった一号だけ例外的にJournal Officiel de la Commune de Parisというタイトルとなっている。日本語に訳せば、前者は「フランス共和国広報紙」、後者は「パリ・コミューン広報紙」となる。この違いは、パリ・コミューンの本質の「謎」解きにとってじつに重要な意味を持つ。前者は、パリ・コミューン議会に対してヴェルサイユ政府と呼ばれた当時のフランス国民議会政府の広報紙と同一であり、もちろんパリ・コミューンの間も発行されていた。つまり、Journal Officiel de la République Françaiseはヴェルサイユ政府とパリ・コミューン議会とが同時期に出していた広報紙である。このタイトルを見る限りパリ・コミューン議会はヴェルサイユ政府に取って代わろうとしていた政治権力であろうと意識していたことが推測されるとされるわけである。そして後者は、あくまでもパリという自治政体(コミューン)の独自な政治権力であることを意識していたことが推測されるわけである。政治・行政のための広報紙はl'Officielと略記されて各種記録・先行研究などに残されているが、この略記だけの文字を追いかけていたのではこのような推測は成立し得ない。従って当事資料としてコピーなりオリジナルなりを入手し確認する作業は必須のことなのである。だが、前述したように、現在市販されているコピー版には何らかの再編集の手が加わっている可能性がある。だとすれば、やはりコピー版で確かめたことが本当はどうなのか、オリジナル版に遡る必要はどうしてもあったわけである。
 パリ5区のモンジュ通りに小さいがこぎれいな古書店がある。この古書店は、一介の旅行者は入りにくい店構えとなっている。というのは、入り口ドアは常に施錠されており、呼び鈴ならぬ施錠解除のボタンを押してからでないとドアを開けることができない。通常古書店は「自由にお入りください」の言葉通りドアは簡単に開けることができるし、店の中に入って店主に挨拶なく書棚を眺め回していても何も声はかけられない。入手したい本が見つかるとそれを手にとって店主のところに行き「サ、シルブプレ」(これ、下さい)と発声すれば後は請求されたお金を支払えばすむ。しかしこの店はドアに施錠されている。日本社会の一般書店でもそういうことをするのが苦手なぼくとしては、よほど度胸を据えてからでないと、と歩道から店の中を覗き込んで気になる心を持てあます日々を送らざるを得なかったわけである。この日はK君の協力を得て資料収集のための散策をしていたこともあり、いつもとは違っていた。
「ねえ、この店、気になるんだけど。中に入って本を確かめたいんだけど。」
 ぼくの一声でK君がドア横のボタンを押しドアを開けて中に入った。ぼくはその後をおずおずと従う。店のマダムとK君がなにやら言葉を交わしているのを後ろで聞きながら書架の古書を一冊一冊目で追っていた。「この古書店は通信販売だけしか扱っていないそうです。カタログから必要な本を探してくださいとのことです。」と、第33号と印刷されたしゃれたカタログを渡してくれた。ページをめくっているとJournal Officiel de la République Françaiseが目にとまった。書籍解説にはオリジナル、完全揃いとある。動悸が激しくなるのを覚えた。まさしく、ぼくにとっては、「幻中の幻の史料」なのである。「コピー版は持っているのですが、実物を見たことがないので、見せていただけますか?」その願いは、もちろん、すでに先客がついていなければ叶う。マダムはにこやかな笑みを浮かべて、書架ではなく、大きなボックスの蓋を開け、45×65ほどの大きさの赤い表紙で製本されたものを取り出した。違うのである!コピー版とはまったく違う。コピー版の判型の4倍ほどに大きなオリジナル版。指先が震える思いで、おずおずと第一ページを開く。コピー版はオリジナル版にあるすべての情報は網羅していなかった!コピー版には書籍等の宣伝は掲載されていない。オリジナル版にはある。これが古書店での初見の印象であった。書籍等の出版情報も時代を知る上では重要であるが、より直接的な情報がコピー版で割愛されているとしたら、史料分析に欠陥が生じることになり、研究上重大な齟齬を来すことは間違いない。
 意を決して買い求め、急ぎ足で宿に戻った。着替えもせず、ページを繰る。とんでもない発見をした。コピー版では完全に欠落しているヴェルサイユ政府の議会議事録概要が載せられているのだ。パリの人たちがヴェルサイユ軍の大砲を奪った(正確には奪回した)のが1871年3月18日。この日をもっていわゆる「フランスにおける内乱」が勃発したとされている。そしてパリ・コミューンの議会議員選挙が広報されたのが3月20日、この時はまだパリ・コミューン議会は発足していないので選挙の管理はパリの国民衛兵隊中央委員会が行っている。選挙が行われたのが3月26日。3月29日に選挙結果を受けて第一回の議会が招集され、暫定権力であった国民衛兵隊中央委員会から行政権力の委譲を受け、la commune de Paris議会が発足する。広報紙にはこの間の事情を物語る諸情報が載せられており、このことはコピー版でも十分に間に合う。しかしながら、そうしたパリの動きをヴェルサイユ政府がどうとらえていたのか。それを直接知る史料としてはパリ・コミューン終焉後に出された回想記、研究書などを所蔵しているが、同時進行形の史料、たとえば議会議事録(概要を含む)については未見であった。ところがその議事録概要がオリジナル版に所収されていたのである!但しそれは4月3日までであり、それ以降はもっぱらパリ・コミューンの議会決定や議事録のみとなり、ヴェルサイユ情報は紙面から消えていく。このことの意味もかなり重要であるが詳細な検討は後日に移すことに決め、初めて見るヴェルサイユ府議事録を拾い読みをして、その夜を過ごしたのである。
 店の名前はlibraire hatchuel。インターネット上でも注文をすることができることを教えられた。古書店は通常、古書目録で書籍注文に応じるが、その目録には、店の書架にある売価付き本が、ほとんど掲載されている。しかし、この店の書架に並んでいるものは、その売価はつけられていなかった。しかもカタログすなわち古書目録はほんの一握りのサンプルであり、実際にはインターネット上で通信販売されている。帰国したら、週に一度は、この店のアドレスを我がPCに入力する習慣となりそうである。
(2)
 リュクサンブール宮殿を正面に見るパリ6区のトゥルノン通りはリトグラフや古地図などを扱う古書店が点在している。いつも雑然としたパリの街を歩き回り、「それらしい古書店」に目を配っているぼくにとって、この通りは購買欲は沸かない。が、物珍しいものに出会い、しかも人の通りもあまりないとあって、ゆったりゆったりとショーケースの中をのぞき込む格好の「パリの街で、しゃれたブティックのウィンドウ・ショッピングを楽しむ」通りである。
 だが、この日は違って急ぎ足であった。
 過日この通りの「ウィンドウ・ショッピング」でリトグラフなどを楽しんでいた。ある店前の粗末なワゴンに並べられていた古書、いわゆるゾッキ本を一冊一冊確かめていたところ、ぼくのフランス教育学研究の本丸であるセレスタン・フレネの著書が売られていた。『現代学校のフレネ技術』という書名のその本はすでに絶版であり、彼の著作集にも収録されていない。フレネ教育学研究を志す者にとってはどうしても入手したい一冊である。他のゾッキ本の陰に隠れていたそれは1ユーロ。心躍らせてそれを手に取り店内で支払いを済ませた。ことのついでに店内を眺め回したところ、ジャン・ジャック・ルソーの大判の4冊本全集(案内には完全揃いとあった)、ヴィクトール・ユゴーの『レ・ミゼラブル』5冊が目についた。これらを購入し、持ち帰るには荷物が多すぎると考えもしたし、1ユーロのフレネの「ゾッキ本」だけで大変な儲けものをした満足感で、宿に戻った。店の名前さえ記憶に残さなかったのだから、そのときは、ぼくの「宝物探し」の終末を意味していたのだろう。
 ところが数日後、ぼくは、トゥルノン通りをリュクサンブール宮殿正面に向かって足を速めていた。「ゾッキ本」のワゴンの中を丹念に探る。パリ・コミューン関係はなかったけれども、フランス教育史を学ぶにふさわしい古書が、やはり1ユーロ、2ユーロの値段が付けられて、眠っていた。数冊を選び出し、店内に入る。先日はにこやかに笑みを浮かべて優しげだったムッシュが、今日は難しい顔をしている。声をかけづらい雰囲気ではある。選び取った数冊をそのムッシュに渡しながら、おずおずと、パリ・コミューン関係の資料はないか、と尋ねる。日本の大学に勤めている教授でフランスの近代教育、その関連でパリ・コミューンを研究していると、自己紹介も重ねた。むすっとしたまま、先日は見たものの、目線が届かなかった棚から出して手渡してくれたのが、'Avant, Pendant et Après La Commune'(「パリ・コミューン 前・間・後」)という戯画集の複製版。1971年の、パリ・コミューン100周年を記念して出版された「パリ・コミューン大歴史」(全5巻)の予約者に限って配布された限定出版ものである。この戯画集の原作者はPilotell(1845−1918)。パリ・コミューンのリーダーには芸術家の参加も少なくなかったが、彼もまたその一人である。ヴェルサイユ軍に捕らえられ、1874年の第3軍事裁判で死刑判決を受けるがその後減刑、ロンドンで死んでいる。反パリ・コミューン側から描かれた戯画は入手していたが、パリ・コミューンメンバーによる戯画を(たとえその複製といえども)まとまった形で手に取ってみるのは初めてである。裁判抜きで処刑された屍が重なる中で少年が処刑されようとしている場面はヴィクトール・ユゴーなどが詩で描いているところである。やはり深い感慨を覚えざるを得ない。
 購入の意志を示すとムッシュが「パリ・コミューンに関わるオリジナルの絵画があるがそれは必要ないか。」と言う。リトグラフ、写真、新聞などは、オジリナルであったとしても、何枚も作成されている。しかしながら、絵画は、まさにその一枚だけがこの世に存在しているだけである。
 「見せていただけますか?」「ウィ」
 目の前に出されたのは、グレーのクレヨンを主たる画具として描かれた、戦闘の後の、A4判ほどの大きさの絵。その色彩こそ、まさにパリ・コミューンでなされた死と破壊を象徴するものである。小高い丘を舞台にし、画面中央下に数々の屍。画面右半分に破壊された建築物。そして画面左は下り傾斜の丘、その傾斜には大砲などの兵器。左半分中央は破壊されつつある街の遠景であろう、炎と煙が高く上がっている。そして天空には月。絵の作者はAlbert ROBIDA(1848−1926)。彼は、戯画、リトグラフなども描き、ジャーナリズムで活躍した。主として「戦争」を描くのが彼の手法であり、また哲学である。彼の名前は知っているという程度であり、どれが彼の絵なのかを識別するほどには知っていない。やはり「実物」の持つ迫力に圧倒される。黒と白の世界だけで、あらゆる色を持つこの人間の世界を描ききるその筆力に、パリ・コミューンの一つの「真実」を教えられた思いである。
 店の名は La Poussière du Temps。日本語に直せば「時々の塵」。古本の本質を言い得た店名である。そして「塵も積もれば山となる」。この山は歴史の宝の山である。「自宅の書庫のどこかに、パリ・コミューンの時の写真があるので、探しておきます。見つかり次第、連絡を差し上げます。」と、ぼくのその先の心を読んだ別れのご挨拶をいただいた。

6351はテントウムシ

1.
ぼくは今、左手に、幅1.5センチほどの紙製の腕輪をはめられている。これには、ID:******* 瀬田康司様 6351 MA型Rh+ などと記入されている。この腕輪は「ハサミで切らない限り、はずせません」との看護師の言葉にあるごとく、この病院におけるぼくの識別票である。ID番号はこの病院におけるぼくのあらゆるデータを記憶し、引き出すためのものである。けれども、日々の病室生活において活用される場面と遭遇したことがない。それに対して、氏名以下数字並びに血液型記号は、点滴、投薬などベッド上で行われる各種治療に先んじて、患者すなわちぼくと看護師あるいは医師と共同で必ず確認される。各種治療行為は毎日3回あるわけであり、その度に、「お名前をおっしゃってください。」「瀬田康司です。」「腕輪をお見せください。」「はい、どうぞ。」「瀬田康司さん。6351。間違いありませんね。」「はい。」「それでは点滴を開始します(あるいは、点滴の液を交換します)。点滴の目的は○●*@です。(あるいは、お薬を飲んでいただきます。)」等々、という会話がなされるのである。煩わしく思わなくもないが、医療事故が起こりうることを考えるならば、患者にも病院にも必要な煩わしさではある。ぼくの治療・看護を担当する責任ある者の一覧は「主治医 横井、担当医 酒井・春山・斉藤・峯川 看護師 仙石」と示されている。ぼくはこれらの人たちに生物的命をすべて預けているわけであるけれども、これらの人たち以外にも複数の看護師などに日夜お世話になっている。これらの可視的・不可視的な医療・看護チームはぼくをコアに置いて見ているのであり、このチームをいったん解体してそれぞれの医師、看護師をコアにするとどうなるか。まるでwebのような錯綜・拡散あるいは集束の構造図が現れて見えてくる。つまり、ぼくをコアにするという主観図からすればいちいちの誰何点検を煩わしいとするけれども、ぼく以外の当事者をコアにするという客観図からすればいちいちの誰何点検こそが医療と看護とを誤りから防ぐ重要な手段なのである。
一時的にではあるが点滴が外れた日の夜、仙石看護師ではない別の看護師が血圧と体温・脈拍を測った折に、「瀬田さん、後で点滴繋ぐわよ。」と言う。「あの、ですね、さっき点滴を外していただいたばかりなのに、もう繋ぐの?」と抗ってみた。「えっ?」と、ぼくの識別票を確認した後、室外に出て行き、すぐ戻ってきた。「ごめんなさい、人を間違えました。瀬田さんの点滴は数日ありません。」とのこと。ぼくの左手首に巻かれた識別票は、この病院における「ぼくがぼくであること」、すなわち医療的アイデンティティを確実に知らしめるものである。ついでのことながら、若い看護師さんは、こうした「初歩的な過ち」を繰り返しながら「過誤」を犯さない法を学習していく。ここはそういう意味の教育・学習の場でもある。
2.
 識別票にある6351という数字はぼくの病室番号である。ぼく以外の入居者はいない。従って、ぼくがここに入院している限り、6351は病室番号を示すだけではなくぼく自身を示すシグナルである。もちろん、このぼくというのは、この病院における医療対象としてのぼくであって、神田川大学教職課程の鬼の瀬田などというのはこの病院におけるぼくを示す情報には入っていない。それではどのような情報なのかと言えば、たとえば、看護師たちの交代打ち合わせの際に、「6351は昨夜11時、暴れ回って点滴を外した。鎮静剤はまったく効かなかった。やむを得ず2時間拘禁。その後安定し再び点滴開始。申し送り事項、粗暴性要注意。」などのように使用されているはずである。
 6351という数字とのはじめての出会いは入院手続きにおいてであった。「瀬田康司さん。1号棟6351があなたの病室となります。」「6階ですか?」「いえ、13階です。」この病院は10階以上の高層の建物が4棟ある。それぞれにどのような病院施設が入っているのかまでは確かめていないが、1号棟といえば、これまで、受付をし、各種の診察を受けたところである。その上で入院施設まであるのだから、かなり規模の大きな施設であることに間違いない。6351がどのような記号の集合なのか、あれこれ推測してみるけれども、本当のところは不明である。
入院手続きを終えた後13階のナースセンターに赴く。「主任看護師の仙石です」と名乗る看護師に導かれて病室へ。入り口ドアにはすでに、「6351 瀬田康司 殿」との名札が入れられていた。もう逃げられない。妙なもので「覚悟」という言葉がふさわしい心境が一気に押し寄せてきた。ドアを開けると、目に入った室内光景は、まさしくビジネスホテルのワン・ルームそのものである。簡単な応接セット、ユニットバス(ただしシャワー)、ベッド、テレビ、専用電話、その他簡単な収納庫など。窓外に広がるのは都市空間。眼前に東京ドーム、左手に新宿方向、右手に池袋方向を確認することができる。手術を待つまでの間は、間違いなく、より快適な空間であると感じさせられた。だが、ベッド・ヘッドの各種医療機器端末装置がここはホテルではないぞと主張している。数日後の手術のあと、それらの端末装置のいずれかがぼくを拘束する筈である。
主任看護師より病院での生活様式についてガイドを受ける。朝8時朝食、昼12時昼食、夜6時夕食、夜9時消灯。テレビは自由視聴、電話は交換を通すことなく発着信可能、PC使用は可能だがインターネットは不可等々。看護師によるガイドの後、入れ替わり立ち替わり、ぼくの医療・看護に当たってくださる方々が「ご挨拶」下さった。事務長、看護師長、担当医師等々。まったく覚えきれない。その後次々とやってくる看護師たちと同一なのか違うのか、それさえもわからない。後に、医療チームに女性医師が一人いることを知る。この先生、小柄で温和な顔つき、優しい声色。「そうよねー、うん、そうそう」という相槌をいただく。これまでぼくにインプットされていた医師像とは大きなギャップがある。この先生をティピカルとして、看護師たち、医師たちとも、ぼくに対する応対が柔和でゆったりとしたリズムである。やはり年齢、難聴、それとぼくの口調がそうしたリズムを生み出しているのだろうか。ぼくの入院生活の第一日から、少なくともぼくの主観のうちにおいて、高齢者の仲間入りを実感することになった次第である。いや、ぼくの主観のうちと言うのは正しい表現ではない。ぼくがぼく自身、ようやく、おれは高齢者なのだと認めた、というのが正鵠を得た言い表しである。
ガイド等が一通り終わったあと主任看護師に導かれて、治療室、給湯室等の案内を受け、ヤレヤレこれでゆっくりと出来るわいと病室に戻ると、ネームプレートに新たな標識が加えられていた。テントウムシの図柄である。「6351 瀬田康司 殿  」という次第。しばしこの図柄の意味するところは不明であったが、その日の消灯後トイレに行こうとベッドから降りた時、はたと思い当たった。「テントウ=転倒」。というのは、ベッド脇のスリッパに両足を乗せ損ね、少々ふらついたからである。主任看護師のガイドに「麻酔から覚めた時が一番事故が多い。まだ足下が定かでないにもかかわらず、自力で事を果たそうとするのは、頑固で、自称自立心が強く、依存することを潔しとしない男性高齢者。転倒して骨を折るという事故が少なくない」旨があった。病院で一番扱いに困るのがこのような人間で、比較的社会的地位が高い人物ほどその傾向が強いのだそうだ。つまり 度が高い。望みもしないのにぼくはその仲間入りを余儀なくされてしまった。自律・自治を教育論のコアにしているぼくであるが、病院に収容された病人は他律・依存こそが大切なのであると、自説を少し柔軟にする必要を覚えた次第である。
3.
 入院当日の午後は、看護師による術前、手術、術後についての概略の説明。全身麻酔による手術とのこと。引き続き、医師により内視鏡を使った患部の画像を見せられ、治療方針について説明を受ける。切開、切除、吸引等々、さまざまな施術がなされるとのこと。生まれて始めて見るモニターに映し出される我が身の深奥。痛々しい。インフォームド・コンセントとはこれほどに「むごいこと」でもあるのだろうか。知りたくもない、見たくもない、蓋を被せたままで治療を受けたいものだとの気が、いずこともなく湧いてきた。今となっては、すべてを医師にゆだねるしかない。いくつかの合併症の危険性についての説明も受ける。これもまた、今更じたばたしても、始まらない。納得いくまでの説明を受けました旨が記載されている手術同意書に署名をする(「治療方法に関する説明書・同意書」)。切開部の縫合についての説明が引き続いた。「血糊」を用いた縫合になる、その「血糊」には、万々一、C型肝炎ウィルス等が混入している場合もある(「100%あり得ないとは断言できない」)、その事故による合併症は当該医療事故ではない旨を承知すること(「血漿分画製剤使用について」)。「私の血ではだめなの?」などと抗ってはみせるけれど、それはほとんど形式的な抵抗であることをぼく自身が承知していることである。続いて麻酔医の訪問を受け、麻酔医療の詳しい説明を受ける。手術時間はおよそ3時間に及ぶとか。当然その間は麻酔がかけられているわけで、あらゆる記憶が消される。麻酔医曰く「眠くなって、目が覚めたら手術が終わっている、ということです」。なるほどその通りだろう。だがそれに引き続き彼が言う、「目が覚めない事故もありえます」。理屈の上では大変納得がいく。そうでしょう。で、ぼくの場合は?「血縁関係で麻酔による事故がかつてありましたか?」と訊ねられる。どうやら麻酔事故の多くが遺伝子レベルで起こっていることがわかってきているらしい。ぼくの知りうる限り血縁関係者では麻酔事故はない旨を応えた。そして、やはり、納得いくまでの説明を受けました旨が記載されている麻酔施術同意書に署名。これでぼくは、矢でも鉄砲でももってかかってこい!という戦闘体制に入ったことになる。
手術前々日は外出許可を貰い、貴婦人トドちゃんに無理を言ってご同道願い、湯島聖堂神田明神ニコライ堂などを散策した。それ以外の時間は、邦訳『アヴェロンの野性児』とイタールの2冊の報告書原典との比較読みを楽しんだ。夜は消灯時間9時を1時間オーバーして就寝し、熟睡の末、午前6時に目覚め、朝食までの2時間、ベッドの上で『論語』を読み進めた。
かくかくしかじか、ゆったりと過ぎていく時を楽しんだ次第である。逃げ出したくなった?入院前は、気の小さいぼくのことだから、逃げ出したいという衝動を抑えるのが大変になるだろうと思っていた。しかし、どうやら、ぼくという「病体」を、客観視し楽しんでいるもう一人のぼくがいるようである。

2006年10月16日午前9時00分、ぼくの人生の結節点。全身麻酔による手術開始時間である。当日は午前5時半に起床を命じられ、ただちに浣腸。生まれて2度目の「屈辱」感を味わう−1度目は小学6年生時、毒キノコを食べたことによる内科治療の際−。多分、だが、「屈辱」だという感性があるうちは、ぼくはまだ「病の渦中にある人」という自覚がないのであろう。この数時間後に、幾つかの管に繋がれた己れの肉体に気付くことになる。その時にこそ、「もうどうにもならない病人なのだ」と思い知らされ、やっと看護師達に「わがまま」を言うことができる病人になることができるはずである。午前7時半、看護師が「今度の注射は少し痛いですよ」と言いながら来室。これは麻酔にかかりやすくする薬だそうで、臀部にぶすりとやられた。ぼくはすでに手術着を着込んでいる。その下は「すっぽんぽん」。「手術室に行くまでに眠ってしまう方もいるのよ」とは、その看護婦さん−やはり看護師では「お気に入り」という気持ちを込めた表現にはならない−。ぼくに関する事実では、ストレッチャーに乗せられ、病棟内を押されてエレベーターに乗りこみ、手術室に入っても尚、頭と眼は冴えわたっていた。キョロキョロと広い手術室内を見渡し、天井の手術灯を食い入って見つめる。ぼくの3メートルほど向こうには女性がストレッチャーの上に横たわっていた。彼女はどのような手術を受けるのだろうか。ぼくのようにはキョロキョロとしていなかった。
・・・手術前の記憶はそこまでである。はじめて意識に伝わってきたのは、水の中で呼びかけられるような「瀬田さーん」という看護師の声。それに対してぼくは、「ハイ」でも「何ですか?」でもなく、「腹へった」と応えたという微かな記憶がある。その記憶はどうやら間違いではなさそうだ。病室に戻された第1声も「腹へった」。続いて「腰が痛い」。手術当日は全日断食を強いられる。全身麻酔というのは全身が仮死状態に陥るわけで、麻酔から覚めても、身体の機能は完全にその働きを戻していない。いくら空腹であっても、この状態の時の摂食は大変危険なのだそうだ。「腸閉塞になりますよ」とくだんの看護婦さんが優しく諭してくれた。それでも腹がへっているのには変わりがない。終日、腹へったを繰り返し、夜遅く、いや、翌日の明け方近く、ついに一口の水にありつけた。いやー、幸せでしたね。
それにしても身体から空間に向けて生えている、いや、身体に繋がれている管の鬱陶しいこと。腰が痛くて耐えられず身体を横に向けるにも気を配らなければならない。落ちる点滴をのんきに見つめている内はいいが点滴液がほぼ空っぽになった時には急に不安になる、「空気が血管に入り込む!」のではないか?と。点滴の落下スピードも看護師によって異なる。かの看護婦さんに訊ねた、「ね、ね、どうして看護師さんによって、点滴の落下スピードが違うの?」「患者さんの体質や腕の位置によって、微妙に落下スピードが変わってくるのよ。瀬田さんは腕を上げていた方が落ちやすいから私は少し遅めに調節しているのよ。」との答え。ある看護師の点滴は「1時間で終わりね」と言ったが20分も経つと液が空になった!!これにはぼくは少々怒りましたね、「早いのは嬉しいけど、恐さを伴うのは勘弁して欲しい。」と。
手術から2日間は流動食。毎食流動食では寝ていても身体が持たないとばかりに、クッキーやセンベイをぱりぱり、チョコの差し入れもあったのでよろこんでいただいた。看護師さんが、おなかこわしますよと忠告下さるが、何、あなたのおなかはこわれません、と口答えして、せっせと間食。とにかく入院生活はおなかが空く。入院中の体調記録表で、満点なのは、食事だけ。「全ていただきました」の文字が入院の日から退院の日まできれいに揃っている。体重が3キロ増加した。
5.
完治しない内の退院である。まだまだ病院通いが続く。それとともに、「新しい病気の発見」がなされ、「新しい治療」も始まった。もうこの年であるからして、完全な健康体に戻ることはあり得ないことは承知している。これまで医者知らず、病院いらずを通してきただけに、これまでとこれからとのあまりに大きな落差に、心がついていかない今ではある。しかし、まさしく玄冬期を生きていかねばならないのだと思う。