2008年10月18日 育療学会小規模研究会 報告のためのレジメ・基礎資

2008年10月18日 育療学会小規模研究会 報告のためのレジメ・基礎資料
学習院大学 川口幸宏

はじめに
人間の子どもとして生れ落ちた人びとの中で、人間として扱われず、育てられず、ある者は闇に葬られ、ある者は「村」の外に棄てられ、ある者は生涯を囲いの中で過ごさせられていたその人群れの中に、「白痴」(重度知能障害者)等がいた。「白痴」等に、教育によって人格発達の可能性を実現させ、普遍化することの歴史的意義を確立した、そのプロセスについての今から150年以上も前の話。つまり、「白痴」等は「人間」であり、「白痴」等を「人間世界の闇」から「人間世界の陽の当たる所」に導き出した歴史過程の一場面の話。「白痴教育」は盲・聾等の教育に続いて実現した障害児教育であり、孤児・病弱児などに対する教育保障の実現過程に符節を併せて実現している。舞台はフランス・パリ。
キーワード群:
 エドゥアール・オネジム・セガ
 サン=シモン主義「哲学」(「19世紀の哲学」)
  対比的に:
  J.M.G.イタール
ジャン・ジャック・ルソー啓蒙主義哲学(「18世紀の(唯物論)哲学」)
  普通教育(「義務教育」)
  秘密結社「家族協会」 義務・無償教育、「弱者」の人権
  1848年2月革命
 白痴教育
  王立公教育に関する管理委員会
  パリの施療院・救済院および在宅援助の管理総評議会(「救済院総評議会」)
  各種施療院、救済院(固有名詞)
  1838年法(精神病者の疾患別収容、衛生改善等)
  病弱児教育

「白痴」等に対する時代の目
1.大衆小説作家ウージェーヌ・シュー『パリの秘密』(1842−1843新聞連載小説)より
ビセートル救済院(男子養老院)描写の一場面―
精神病者の生活に覚えた陰鬱さにもかかわらず、ジェオルジュ夫人は、やや経って、不治の白痴者が閉じこめられている鉄格子のはまった庭の前を通り過ぎることになった。まさに動物の本性でさえ持たない哀れな存在、たいていは彼らの生まれについては知られていない。あらゆることを、そして彼ら自身を知らず、こうして、彼らは、まさに精神の、感情の異邦人として、生涯を送る。まったく能力のない動物的な欲求を覚えるだけだ・・・。極度に汚く、劣悪な家での、悲惨さと放蕩との忌まわしい交わりが、概して、貧困階層に蔓延するこの種のすさまじい堕落の起因である・・・。概して精神病者の容貌をただ見るだけの上辺だけの観察者には狂気がまったく分からないとしても、白痴の生理学的な特徴を見分けることは極めて簡単である。エルバン博士はジェオルジュ夫人に、粗野な白痴状態、愚鈍な無感覚あるいは痴愚の茫然自失の表情に気付かせようとはしなかった。そうした哀れな人々の顔立ちには、同時に、恐ろしくかつ不愉快な音声表現が示される。ほとんどの者が大変汚い長丈のぼろぼろの服を着ていた。というのも、可能な限りの監視にもかかわらず、本性や理性がまったく奪われたこれらの人々が、一日を過ごす庭2の泥の中に、動物のように寝転がって衣類を引き裂いたり汚したりするのを妨げることはできないのだ。
白痴たちを収容する納屋の暗がりの隅に、洞窟の動物のように、丸まって、ひとかたまりになって、しゃがみ込んでいた一人の白痴が、内にこもった連続的なゼイゼイというような声を口にした。さらに、立ったまま、動かず、黙ったまま、壁にもたれかかった白痴がじっと太陽を見つめていた。また、奇形なまでに太った一人の老人が木の椅子に座って、動物ががつがつ食べるように、横目で、怒ったような目線をあちこちに投げながら、救済院から提供された食事を貪っていた。また、自分で境界を作ってその小さな空間をぐるぐると急ぎ足で歩く者もいる。この奇妙な行為はまったく中断されることはない。彼らは、上半身を前後に揺さぶって、まるで地震のために絶えず揺れているようだ。そのめまいを誘うような単調な動きをやめることはない。大きな笑い声を上げながらである。その笑い声はきいきいという、喉から出されるしゃがれ声であり、白痴の特徴である。完全に自失状態にある人たちは食事の時にしか目を開けず、気力なく、死んだような、おしの、つんぼの、めくらの、声一つなく、生命力を伝えるしぶり一つない・・・。
言葉や知性のコミュニケーションが完全に欠落するのは白痴者の集まりの非常に陰鬱な特徴である。少なくとも、彼らの言葉と彼らの感情の支離滅裂さにもかかわらず、狂人たちは話し合い、認め合い、探しあう。しかし、白痴者たちの間では、愚鈍な無関心、非社交的な孤立が支配している・・・。誰もはっきりとした発音で決して話をせず、幾人かは未開人のような笑いをし、あるいはまったく人間でないうめき声や叫び声を挙げるときがある・・・ほとんどが彼らの監視人の存在を認識していない・・・。だけれども、驚きをもって繰り返して言うが、これらの不幸な人たちは、知的能力を完全に失っているために、もはや我々と同類にも属さず、それかと言って動物種に属さないようにさえ思われる。癒しがたいほどに病に襲われたこれらの人々は、生物よりももっと無気力な人間としてあり、長い人生をずっと生きてきて、入念な手当てと充足とに取りまかれている。彼らはそのことを意識しないのだが・・・。間違いなく、もはや見かけが人間ではないようなこれらの不幸な人々にまで人間の尊厳の原理を尊重することはすばらしいことである・・・。」
「エルバン博士は壮年の人であるが、非常に才気煥発で気品のある顔立ちである。まなざしは深く、その慧眼はすばらしく、それでいていつも微笑みを絶やすことがない。その声は耳に快く響き、わざとらしくない。彼が精神病者に語りかけるときは、まるで愛撫するがごとくである。そう、心地よい語調、柔和な語り口はこれら不幸な人々の生来の怒りっぽい性格を鎮め続けるのである。かなり前から彼は、かつて狂気の治療で用いられていた、鎖とか、打擲とか、シャワーを浴びせるとか、とりわけ隔離とかの恐ろしい矯正手段(いくらかの例外的な症例を除いて)に哀れを覚え、優しく接し続けてきている。
その高い知性は、偏執が、狂気が、恍惚が、監禁や暴行によって強められてしまうと理解していた。精神病者を孤独にしたり脅したりすることは害を増すだけであり、また逆に、彼らに共同生活を送らせると、気が散ったり、混乱したりして、固定観念固執する機会を妨げてしまう、とも理解していた。」
「疑いなく、数年のうちに、共同房という現実の監獄システム、すなわち、徒刑場があり、鎖があり、晒し台あり、死刑台ありという実際のおぞましい訓練(ecole)は、間違い、野蛮、残虐であるとみなされるようになるだろう。精神病者に加えられていたこれまでの施療は、今日では、不条理で恐ろしいように思われるのである。」
「(原著による注)そう言えば、衛生的な清潔さの研究を計画した慈善的な知性に対して、非常な驚きなしで見ることは不可能である。白痴者に備えられた共同寝室とベッド。かつてこれらの哀れな人たちが悪臭を放つ麦藁の中で埋まっていたこと、そして今ではそれは、本当にすばらしい手段によって申し分のない衛生状態に保たれた、すばらしいベッドであるということを考えれば、もう一度、悲惨な状態の緩和に身を捧げる人たちを賞賛せずにはおられない。動物がその主人に対する感謝と同じではない感謝が期待されるはずだ。ただただ人間性という聖なる名の善行によってなされている。立派で、偉大だとしか言いようがない。ビセートルの管理者と医師をどれだけ賞賛してもしすぎることはない。さらに際だつのは、そうしたことを支えているのが、かのフェリュス博士の高度で公平な権威である。彼は、精神病者救済院の全体的な監督の任にある。彼のおかげで、すばらしい精神病者に関する法を得た。学問的かつ深い観察に基づく法である。」
2.『イリュストラシオン』誌 第4巻(1844年)
ピネルの時代から、ビセートルに収容された白痴者たちは、狂人たちと完全に一緒にされていた。害を及ばさないとみなされた者及び有益になりそうな者たちは、使用人としてあるいは単純な人夫として、その知性に応じて病院で奉仕した。フェルス氏は、技芸のあらゆる源を超えるものとして長い間みなされてきた、それ故にまったくやる気を起こさせないこれらの不幸な状態の者(=白痴者)を精神病者たちから完全に切り離すことを、主張していた。同時に、さまざまな試みが、微かな知性を完全にするための方向性でなされた。学識の深い看護人が最も知恵の遅れた白痴者に読み書きの練習をなす責務を負うこととなった。(*医学博士以外に白痴者たちに教育訓練をなしていたことが分かる記述。この「看護人」はセガンではない。)
それに関しては、ヴォアザン氏は、ド・セヴル通りの救済院の癲癇患者と白痴者の医療業務の任務を帯びていたが、癲癇患者に、1830年から、特殊教育の力で、不完全でまちがったやり方で組織された知能を多く獲得してしまう可能性に注視していた。彼は1833年に横隔膜矯正の施設を設立した。そこで彼の理論が適用された。白痴者たちはビセートルに委ねられたが放置されたままの状態であることを残念に思い、彼は、1839年にビセートルの救済院の業務を引き受けた時に、白痴者たちのために、ド・セヴル通りで不幸な境遇にある兄弟たちに行ったことを施設管理が行うよう、要求した。この願いは部分的に叶えられた。ビセートルの白痴者街はつねに非常に悪い状態にある。しかし2年後、これらの知性の劣る子どもたちは特殊教育を受けることになる。
当該事に関するたくさんの新しい理念とすぐれた方法を担った一人の卓越した教育者、セガン氏の手に委ねられたことによって、白痴者たちは基礎的な観念を獲得している。それなくしては共同生活に参加する状態にはならないのだ。我々は、彼によって開発された体と心の教育のその方法の理念に適うような空間を準備できなかったことを、残念に思う。時間をかけ、またとりわけ根気よく、あらゆる苦難のもと、本当にすばらしい成果を得ていたのに。


エドゥアール・オネジム・セガンという人
エドゥアール・オネジム・セガン(米国名:エドワード・セガン)は、1812年に、フランス東部の小都市ニエヴル県クラムシーで、医学博士の医師を父とする家庭の、3人きょうだいの長子として生まれ育った。10代後半にはパリに出、サン=シモン主義者(サン=シモニアン)として社会・教化運動に参加し、また芸術評論を著した。そして、重度の知能障害を持つ子どもに対する教育(白痴教育)を実践開拓し理論化した。さらには山岳派の共和主義者として社会・政治運動にも参加している。1850年頃にアメリカに移住し、アメリカにおける知能障害を持つ人たちの教育・福祉等に貢献した。そのまま故国に帰ることなく1880年にニューヨークで没している。ニューヨーク市立大学から医学博士の学位を授与された。

<参考>1 精神薄弱問題視研究会編『人物でつづる障害者教育史』日本文化科学社、1988年に見るセガ
セガン(Séguin, Edouard Onesimus(ママ) 1812-1880)
 エデュアル・セガンは、フランスのニーブル州クラムシーの医者の家に生まれ、アメリカのニューヨーク市で死去した。近代精神薄弱児教育の確立者として位置づけられる。
 セガンが晩年に記した思い出によれば、ルソーの『エミール』に共鳴していた彼の父親は、子どもたちと一緒に遊具を手作りして遊んだり、できるだけ田園の生活の中で事物と経験を通して自発的に学ばせようとしたという。こうした知的雰囲気と自然の中で育ったセガンは、都会で中等教育を終了した後、さらに医学校で内科、外科等を学んだ。1837年、セガンは「アヴェロンの野生児」の教育実験等で高名な老イタールの指導を受けつつ、初めて1人の「白痴」児の教育に取り組んだ。翌年イタールは亡くなったが、引き続き、ピネルの高弟エスキロルに師事し、その結果を彼と連名で『われわれの14ヶ月間の教育実践』(1839)という小冊子にして発表した。その後、サルペトリエール院やビセートル院の『白痴児』の教育・治療にも携わった。青年セガンが「白痴」と言われる人々の研究と教育を開始した1830〜40年代のフランスは、産業革命による深刻な社会問題が顕在化し、社会改革を目指す様々な運動が活発に展開された時代であった。サン・シモン(Saint-Simon)の主張に共感し、その派の有力メンバーとも交わっていたセガンは、『新キリスト教主義』(サン・シモン著、1825年)の思想に基づき、自らの「白痴」教育の仕事を「最も低い、最も貧しい階級を、最も速やかに向上させる」ための社会的実践として位置づけた。そして、「白痴のマグナ・カルタ」と激賞された最初の体系的著作『白痴の道徳的治療、衛生および教育』(1846年、全734頁)には、「本書の生みの親はサン・シモン派である」と謙虚に記している。だが、1848年の「二月革命」の後、政治的反動が始まり、共和政支持者への弾圧も強まってきた。そこでセガンはアメリカに新しい希望を抱いて、家族とともに移住した。アメリカでは、1860年ペンシルヴァニア州立白痴学校の校長を短期間ながら務めた他、各地の精神薄弱者の教育・保護事業の推進に指導的役割を果たした。1873年、ウィーン万国博覧会の教育部門に関する合衆国委員としてヨーロッパに行き、『教育に関する報告書』(1873)を合衆国政府に提出した。1876年、「アメリカ白痴および精神薄弱者施設医務職員協会」の初代会長に選ばれた。セガンの生涯で最後の大きな事業は、ニューヨーク市に「精神薄弱および身体虚弱な子どものための生理学的学校」を創設したことであった。その学校の案内書に「私は教育に生理学を適用することに死ぬまでの歳月を投じる」と記した。かれの生理学的教育の思想や実践は各国の精神薄弱教育はもちろん、モンテッソーリ、ドクロリー等を通して世界の新教育運動にも大きな影響を与えた。
 セガンは、いかなる「白痴」であろうと「活動・知性・意志」をもった「統一体」であり、従って、彼らに同じ人間としての深く強い愛と信頼を抱き、その障害の整理=心理的事実についての科学的理解に基づく、系統的で総合的な教育的治療を行うならば、必ずその障害を軽減し、能力・人格を高めてゆくことができるのだ、と言うことをその生涯にわたって実践的・理論的に追求した。その体系が「生理学的教育」であり、その根底にはルソーの「自然主義教育」の思想が流れている。それは「白痴」を直接の対象としたが、その意図するところは人類全体の福祉の向上であり、人間教育としての普遍性の探究にほかならなかった。セガンの先駆性をそこに見たい。(清水寛)

<参考>2 Museum of disABILITY Historyアメリカ合衆国)に見るセガ
エドワード・セガン(1812−1881(ママ))
エドワード・セガンはフランス、クラムシーに生まれ、学業のためにパリに上った。1837年に、彼の指導者となるジャン・マルク・ガスパル・イタールと出会った。
セガンはサルペトリエール精神病院の主任医師エスキロールの下で働いた。彼はエスキロールとの共著を出版し、ビセートルで、フェリックス・ヴォアザンの下で大勢の患者の指導を任せられた。その初期からセガンはビセートルの管理者たちとの間でトラブルを起こし、1834年<注:1843年の誤記>フランス医学界によって追放された。
1850年、彼はアメリカ合衆国に移住し、ボストンのサムエル・グリドリィ・ハウの学校で仕事を得た。しかしまもなくそこを去り、後にシラキューズ州立学校となる機関で、ウィルバー博士と合流した。彼はエルウィン州立学校の校長となった。
セガンは生理学的方法を導入したことでアメリカでは非常によく知られている。この方法は、白痴という状態は中枢神経系の変性に起因しているという考えに基づいている。神経系を強化することが人間の統制能力を改善させるに違いないと、彼は信じた。彼は身体訓練と感覚の発達の効用によって、発達障害のある人の認識諸能力が増大するはずであると気づいた。
セガンは、知的障害を持った人々は教育可能であり、それによって物事を為すようになることができると、信じた。彼は、言語訓練と自己介護技能に照準を合わせることに多くの時間をかけた。これは、白痴状態は治療できないとか患者たちは改善されえないとする時代の支配的な見方に抗する見方であった。<参考>3 フランスのセガン研究者による最新の年譜
 これまでのすべての「セガン研究」の中でもっとも信頼できるものである。しかし、秘密結社「家族協会」への加盟などセガンの急進的な政治・社会運動についてはまったく言及していないし、ビセートル救済院を罷免された後、セガンは「白痴教育」に携わったとしているが、資料的に確認されている事柄ではないなど、今後検討を要する事柄もある。
 原文をそのまま訳出すると長くなるので、抄訳にした。
1811 : セガン父夫妻の結婚。セガン家は新婦の家に42,000フランを払っている。
1812 : 1月20日セガンの誕生。戸籍名はオネジム=エドゥアール・セガン。オーセールのコレージュを経て、ルイ・ル・グランで学ぶ。
* ルイ・ル・グランは誤り。
1830-1832 : サン=シモン主義運動に加わった、それがセガンの生活の中心理念となる。
1836 : セガンの著書出版予告がなされた、「芸術論入門」。
1836 : ジラルダンの『ラ・プレス』紙に3本の芸術評論を発表。
1837 : 重病に罹り、人生を転換。イタールの指導の元で白痴の子どもの特殊教育に従事。
1839 : 第1著書『H 氏へ/われわれが14ヶ月前から為してきていることの要約/1838年2月15日から1839年4月15日まで』出版。
1839 : 第2著書『子息の教育に関するO…氏への助言』出版
1839 : モルピュルゴ医学博士がセガンの白痴教育の理論についてかなりの字数で紹介。
1839 : 11月、王立公教育に関する評議会が、白痴の子どもの教育のための施設を開くことを許可。
1840 : ピガール通りに私立学校を開設。
1840 : 11月、パリ救済院総評議会が、ド・セヴル通りとファブール・サン=マルタン通りの救済院の白痴の子どもたちの教育のために、「白痴の教師」の資格で実験する許可。
1841-1842 : 救済院での教育の結果を2冊の書物『遅れた子どもと白痴の教育の理論と実践』に著す。
1842 : 10月12日、救済院総評議会がビセートル救済院での教育実験を許可。
1842 : 結婚。相手の女性のことは名前も含め、分かっていない。息子は、エドゥアール=コンスタン,1843年生まれ。 
* だが、詳細については検討を要する。というのは、1846年の著書に「この本は私の息子の揺りかごの横で、同じ光のもとで縫い物をする妻の横で書かれたものである。」との記述が見られる。このことから推測すると、息子の誕生は1843年より2年は後になるだろう。そうすれば結婚の時期も異なってこよう。
1843 : 『白痴の衛生と教育』出版。セガンの白痴教育論が確立した。
1843 : ウージェーヌ・シュー『パリの秘密』でビセートルの白痴学校を賛美。
1843 : 8月25日、医学アカデミーの委員会がビセートルのセガン学校を視察。
1843 : 12月11日、科学アカデミーで、医学博士パリゼがセガンの方法に対して非常に好意的な報告をなす。
1843 : 11月、ビセートルの管理者と諍い。セガンがてんかんの子どもに関わらないことのために。12月20日罷免される。
1844-1846 : 白痴の子どものための特殊教育を継続。
1846 : 5月、『白痴の精神療法、衛生と教育』出版。734頁の大著。批判者への攻撃舌鋒が鋭い。
1847 : 発話法の開拓者ペレール伝出版。
1847 : クレアトン医学博士が長い『1846年著書』紹介文を発表。
1848-1849 : 1848年から1849年のセガンの政治的医学的活動は不明。 
* 山岳派共和主義者としての活動を継続している。
1850 : アメリカ合衆国移住を決意。
1851 : ボストン、バレ、クレーヴランドで、白痴の教育施設創設の助言。
1854-1857 : アルバニーの実験学校で、医学博士ウィルバーを援助。
1857 : 妻の病気のためフランスに戻ったと言われる。
1861 : ニューヨーク市立大学で医学博士号を受ける。
1863 : ニューヨークに永住。
1866 : 『白痴とその生理学的方法による治療』出版。軍医の息子が協力。
1867 : 医学用体温計を開発。
1870-1871 : 1870年父、1871年母、死。
1873 : ウィーン国際博覧会に、アメリカ合衆国の教育委員として派遣される。『教育に関する報告』をまとめる。
1879 : 生徒の一人エリーズ・ミードと結婚。生理学学校創設。
1880 : 10月28日死去。
1898 : 息子死亡。
1930 : 妻エリーゼ死亡。

研究史の特徴>
 博士論文
 Mable E. TALBOT, ÉDOUARD SEGUIN, A Study of an Educational Approach to the Treatment of Mentally Defective Children. Burrau of publocations ― Teachers College, Columbia University, New York, 1964.
資料集
 Y. Pélicier et G. Thuillier, Un pionnier de la psychiatrie de l’enfant Edouard Séguin(1812-1880), Comité d’histoire de la sécurité social, 1996
 我が国における研究の集大成
  清水寛編著『セガン 知的障害教育・福祉の源流 ― 研究と大学教育の実践』全4巻、日本図書センター、2004年
 ★1.生誕からアメリカ合衆国への移住までのフランス時代のライフ・ヒストリー
 ★2.知能障害教育展開過程の論理検証
 に不十分と言わざるを獲ない。


ライフ・ヒストリー史料(主として公文書による)
父の生誕(ヨンヌ県クーランジュ・シュール・ヨンヌ)
 1781年2月16日、本パロワスの薪商人フランソア・セガン氏とその妻マリー・テレーズ・ギマール夫人との息子、ジャック・オネジムが誕生し洗礼が施された。ジャック・オネジム君の洗礼には、パン屋を営む代父フランソア・ミショウと娘ユージェニー・セガン夫人の代理の娘の代母マリー=シモンヌ・セガンが立ち会った。いずれも本パロアス(小教区)の者である。かれらはわれわれと共に署名をした。
(Act de Baptême du dernier enfant de François SEGUIN, Archives départementales D’Auxerre, Série 2E 119, 3 BM3, 1766-1785, Coulanges-sur-Yonne.)
母の生誕(ヨンヌ県オーセール)
 1793年9月16日、フランス共和国2年、午後4時、オーセール役場の、ラ・リヴィエール地区担当の公吏である私ニコラ・ジャック・ムールのところに、当市ド・ポン通りに居住する市民ジョセフ・ユザンヌが出頭し、昨日夜9時に誕生した女児を小職に見せた。その子は氏と妻マリー・アニエス・ペロニエとの間にできた子どもで、ファースト・ネームをマルグリットと名づけられた。
本証書は、当市に居住するムーリス・デュランとジャン・ジョセフ・テナントの立会いのもとで作成され、子どもの父親および私と共に署名した。
(Acte de naissance de Margueritte UZANNE, Archives départmentales d’Auxerre. Série 2 E 24, Naissance an II, Auxerre)
父母の結婚(ヨンヌ県オーセール、ニエヴル県クラムシー)
1811年4月29日夜8時、市役所の、われわれ助役、戸籍係のところに、ジャック・オネジム・セガン氏、30歳、クラムシーの医師 ― クーランジュ・シュール・ヨンヌで(共和暦)6年牧月23日に死去した故フランソア・セガン氏とクーランジュ・シュール・ヨンヌで9年収穫月19日に死去したマリー・テレーズ・ギマールの息子 ― と、マルグリット・ユザンヌ嬢、17歳、オーセール居住 ― 既にフィアンセを引き合わされ娘の結婚に同意した商人ジョセフ・ユザンヌとマリー・アニエス・ペロニエの娘 ― とが出頭した。既にわれわれは、今月14日ならびに21日に、両人の結婚式を執り行い市役所の正面玄関に結婚公示をなすよう、要請されていた。同様のことはクラムシーにも届け出られている。
この結婚の妨げとなるものは何も無いゆえ、われわれは、結婚に関わる書類のすべてと民法典第6条とを読会した後、かれらの求めにただちに応え、われわれが式を執り行い公示を為した次第である。われわれは未来の夫と未来の妻にそれぞれが夫となり妻となる意思があるかと訊ねた。二人はそれぞれ、その意思があると応えた。われわれは、法の名において、ジャック・オネジム・セガン氏とマルグリット・ユザンヌ嬢が、保証人クラムシー居住の兄ジャック・セガン・ブーヴェ、保証人義兄ジャン・バプティスト・モノ、保証人兄の商人アントワーヌ・ユザンヌ、ならびに保証人オーセール居住の代訴人アントワーヌ・マレの立会いのもとで作成された証明書に基づく婚姻によって結ばれたことを宣言した。  
続いて、出席者全員に本証明書が読会され、われわれをはじめすべての保証人が署名した。 
(Act de mariage de Jacque Onésime SEGUIN et Marguerite UZANNE., Archives départementales d’Auxerre, Série 2 E, NMD 1811, Auxerre.)
セガンの生誕(ニエヴル県クラムシー)
 1812年1月22日午前11時、小職ことコミューン長テネール・デュラック氏によって権限を委嘱されたクラムシーの副戸籍責任者ジャン・バプティスト・ピエール・フランソア・サロのところに、旧クラムシーのオ・バー・プティ・マルシェ通りに居住する医学博士ジャック・オネジム・セガン氏31歳が出頭した。その時小職は、申告者自身とその妻マルグリット・ユザンヌ夫人との間に今月20日夜8時に生まれた男児を見せられた。氏はその子にオネジム・エドゥアールとのファースト・ネームをつけると告げた。当該の届出は、ともに旧クラムシーに居住する間接税収税吏ジャック・セガン・ブーヴェ氏36歳と医学博士ガブリエ・ピエール・サレ氏67歳の立会いのもとでなされ、小職が本証明書をかれらに読会した後、父親、立会人、小職とが署名した。
(Acte de naissance de Onésime Edouard SEGUIN, Archives départementales de Nevers, Série IV E, NMD 1811-1812, Clamecy, No 11.)
セガンの体質(20歳の時の徴兵検査結果)
クラムシー・カントン
53番
セガン・オネジム・エドゥアール
パリのアパルトマン入居者
職業:法学部学生
所見:右手にゆがみがあり虚弱体質
兵役可能、召集兵第19番を引き当てる
 (Recensement Canton de Clamecy, Archives départementales de Nevers, Série R)

セガンの学歴
1. オーセールのコレージュ・ジャック・アミヨ
セガン家は寄宿料として年額400フラン、教授への報酬として年額20フランを支払っている。
(Archives Nationales AJ 16 114. 寄宿費等の記録は1825年のことである。)
2. パリのコレージュ・サン=ルイ
 「サン=ルイ王立コレージュ 受賞者一覧」の「1829年8月18日の記録」より 
数学特別進学クラス第一年次
ゴダン氏、教授
第四次席賞 セガン(エドゥアール)
クラムシー生まれ
 ヴァンサン氏のアンスティテュション
 (Archives Nationales AJ 16 94)
3. パリ法学部
 「パリ法学部学籍簿」より
セガン(オネジム・エドゥアール)
ニエヴル県クラムシー郡
1812年1月20日生まれ
パリのバカロレア有資格者
1830年11月5日 第1学籍登録
1831年 1月14日 第2学籍登録
1831年11月14日 第3学籍登録
1832年1月16日  第4学籍登録
1832年4月13日  第5学籍登録
1832年7月14日 第6学籍登録
1833年11月4日 第1回試験
1833年11月14日  第1回バカロレア有資格者
1833年11月15日 第7学籍登録
1835年1月12日  第8学籍登録
1835年3月10日  第9学籍登録
1835年4月8日  第10学籍登録
[年月日欄空白] 第11学籍登録
[年月日欄空白] 第12学籍登録
1835年3月10日  第2回バカロレア有資格者
1841年9月24日  第3回バカロレア有資格者
 (Archives Nationales AJ 16 1619.)
4. パリ医学部
 1843年1月27日付けで、公教育大臣は視学長官に「セガン氏に、医学博士号取得のための4年間の学籍費用支払い」を命じている。不就学。
(Archives Nationales AJ16 23)

サン=シモン主義者セガ
 1831年5月9日、サン=シモン「家族」会合の席でのこと
 我らが父、世界に我らを施された、この世を我らの愛にお任せになった、現世神の子、サン=シモンの名において、人間味溢れる家族の側で、我らは、汝等の父たちは、我らの最高の言葉で、我らの子どもの何人かを選び抜いたことを告げるものである。
 予備位階 ― フィステおよびディジェ、そして我がオリビエの父、汝等の使命は大きい。新しい楽園の鍵は汝等の手にある。やがて全人類が今日汝等に委ねられたこの聖なる門を押すだろう。汝等は、汝等に感謝を捧げる多くの汝等の息子のためにその門を開ける。汝等の父たちは汝等を祝福する。
 第3位階 ― レバゼイユ ― ボナミィ ― ロビネ ― ベランジェ ― セガン ― は第3位階のメンバーである。タラボとランベルとは第3位階の長にして、汝等の子どもたちは予備位階に昇進することになる。また汝等は、汝等の兄弟、汝等の息子であるにふさわしい者たちとして、以下の汝等の父親たちに引き合わされる。
 ボー、ペレール、リゴー、ジェルー、ディゲ、フィステ
 かれらは第2位階のメンバーである。(以下略)
(Œuvre de Saint-Simon et Enfantin, Dentu, 1865-1867. Volume III, Paris, pp. 109-110.)

山岳派共和主義者セガ
1.1835年5月26日に、セガンは、秘密結社「家族協会」の会合を持っているところを警察当局に踏み込まれ、他のメンバーとともに逮捕された。山岳派に属した。
(Jacques Grandjonc, Communisme/ Kommunismus/ Communism. Origine et développement international de la terminologie communautaire prèmarxiste des utopistes aux néo-babouvistes 1785-1842, Pièces justificatives.Trier, Karl Marx Haus, 1989. pp. 397-401.)
「家族協会」の綱領
第 1 現在の政府をどのように思うか? ― 人民と祖国を裏切っている。
第 2 政府は誰に利益をもたらせているか? ― きわめて少数の特権階級に。
第 3 今日、どのような人が特権階級であるのか? ― 金持ち、銀行家、商人、独占商人、大地主、相場師、一言で言えば、人民を犠牲にして太る搾取者。
第 4 かれらを真正面から支えているのは誰か? ― 軍隊。
第 5 社会の主な悪徳は何か? ― エゴイズム。
第 6 名誉、誠実、徳の代わりになっているものは何か? ― 金。
第 7 現代社会で尊敬されるのは誰か? ― 金持ちと権勢家。
第 8 軽蔑され、迫害され、法から外されているのは誰か? ― 貧者と弱者。
第 9 入市税権、塩・飲み物税権をどう思うか? ― それはひどい税だ。人民から金を搾り取り金持ちの蓄えに回されてしまう。
第 10 人民とは何か? ― 人民とは働く市民の集合体だ。
第 11 人民は諸法によってどのように処遇されているか? ― 奴隷として処遇されている。
第 12 金持ちの政府のもとでプロレタリアの境遇はどのようであるか? ― プロレタリアの境遇は鹿や黒人奴隷の境遇と似ている。
第 13 ちゃんとした社会に有益な基盤となる原理は何か? ― 平等。
第 14 非常に整った国家の市民の諸権利は何であるべきか? ― 生存の権利、無償教育の権利、政治の参加・参与の権利。市民の諸義務は、社会に対する忠誠および同胞に対する友愛。
第 15 政治革命ないしは社会革命はなされるべきか? ― 社会革命がなされるべきである。(以下略)
(Rapport – Fait à la cour, par M. Mérilhor, pair de Frane, L’un des commissaires chargés de l’instruction du procès déféré à la cour des pairs, par ordonnance royale du 14 mai 1839.)
2.1848年3月2日、「共和政の防衛を信頼できるすべての愛国者に訴えるために設立された委員会」設置宣言署名者(山岳派
不断の警戒、見識ある愛国心、断固とした犠牲的精神、それらは臨時政府を動かす感情であり、それらは共和政が求める感情である。そうした感情を持つが故に、よきすべての市民はなんと臨時政府を援助することか!
1830年の争奪戦の数々の記憶が激しい欲望を蘇らせた。その欲望は緊急に抑制されなければならない。すでに、悪賢い奴らは、大いに妄想あるいは術策をもって、ほとんど受けるに値しないにもかかわらず、任命された。奴らは宗教を利用して政府に取り入った。政府にそのことを明らかにしてやるには、今が絶好の時である。
臨時政府が悪い方へ悪い方へと転がっていくのを阻止するために、数多くの信頼できる市民は、澄み切った心で持ち続けてきた愛国心の助けを求める責を負った委員会を、選出した。献身的な市民は、かつてないほど緊密に同盟を結ぶ必要のあることが、分かるだろう。共和政の救済はそれらの同盟にこそよっているのだから。
このアピールは数多くのパリの愛国者のみでなく、全フランスの愛国者たちに発せられている。政府は、相も変わらず勝利の翌日に出没するこれらの猛禽どもの素性を明らかにしなければならないし、フランスが新しい専制君主制になり続けることから免れるようにしなければならない。これがアピールの内容だ。
市民ソブリエは加盟を受け付けるための代表に選ばれた。ソブリエは、ブランシュ通り25にある警察省の前人民代表である。
(冊子グラビア参照)

文学者セガ
1.『ラ・プレス』紙寄稿 1836年
1836年8月3日号(第29号)の「雑報」欄、同年年9月8日(第60号)「文化」欄、同年9月22日(第72号)「文化」欄の3本である。それぞれ、「芸術 ― 芸術批評について(第1論文)」、「芸術 ― 批評に見られる偏狭な原理について(1)(第2論文)」、「芸術 ― 芸術批評―積極的批評 (第3論文および最終論文 )」と題されている。9月22日号をもって一連の芸術批評を締めている。
(冊子グラビア参照)
2.「筏師たち」 1841年
(LES FLOTTEURS, Le Prisme, Album des Français forme le tome IX des Français peints par euxmêmes. Paris. 1841. pp.40-43.)


知的障害教育開拓史料

(1)1838年2月から、イタール の指導下にあって、セーヌ川右岸2区カルチェ・ラ・ショッセー・ダンタンのラ・ショッセー・ダンタン通り41の自宅アパルトマンで、アドリアン・H(Adrien H.)という唖で白痴(あるいは痴愚)の少年に対して行った実践(「第1実践」)。私塾実践に発展する。
(2)1840年1月3日に出発した公教育大臣公認の、セーヌ川右岸2区カルチェ・ラ・ショッセー・ダンタンのピガール通り6の寄宿制の私立学校における実践(「第2実践」)。
(3)1841年10月から6ヶ月間、セーヌ川右岸5区カルチェ・ド・ラ・ポルト・サン=マルタンのフォブール・サン=マルタン通り男子不治者救済院において、白痴の教師という肩書きで、救済院総評議会によって招聘されて行った実践(「第3実践」)。
(4)1843年1月からパリ南郊外クレムラン・ビセートルの男子養老院内にすでに設置されていたécole(訓練施設)における、やはり白痴の教師としての実践。同年末には救済院総評議会によって罷免された(「第4実践」)。

第1実践:基本史料(セガン著書)
・Édouard SEGUIN, À Monsieur H….. Résumé de ce que nous avons fait Depuis quaterze Mois. Du 15 février 1838, Au 15 avril 1839, Imprimerie de Madame Porhmann, Paris, 1839
・Édouard SÉGUIN, Théorie et pratique de l’éducation des enfants arriéres et idiots – Deuxième trimester leçons aux jeunes idiots des Incurables, Chez Germer Ballière, Paris. 1842.
・Édouard SÉGUIN, Traitement moral, hygiène et éducation des idiots et des autres enfants arriérés au retardés dans développement, agités de movements involantaires, débiles, muets non-sourds, begues etc., Chez J. B. Baillières, Paris, 1846
・Edward SEGUIN, Idiocy: and its treatment by the physiological method, William Wood & Co, 1866. その他論文。

第2実践:基本史料
 ・公教育大臣ヴィルマンが視学長官ルッセルに宛てた1839年10月31日諮問
感覚がなく、知的能力もほとんどない白痴児の教育に適用可能な教育のやり方の発明者であると自称するセガン氏が、氏の方法に適った公認の私立学校を開くこと、及びそれを氏自身の手で為し、それによって得られるであろう結果について特別委員会で証明されることを許可されたいと、私に申し出てきております。私は、本状に添付した氏の要求を試み、請求者の方法が提示されうる有効性に関する報告を私になされることを、貴殿に要請するものであります。
  (Archives Nationales AJ 16, 156. なお、同文書の欄外に、「要請は1839年9月6日付けで、公教育大臣に宛ててなされた。セガンの住所ラ・ショッセー・ダンタン通り41」と記入されている。)
 ・公教育大臣の諮問に対する1839年12月7日視学長官答申
白痴の子どもの教育に従事し、その惨めな状態に置かれているにもかかわらず知的状態が訓練によって確認されるであろう生徒たちに、教育の方法を実験することの許可を得たいと願い出ているエドゥアール・セガン氏の要請に対し、閣下に本状を謹んでお送りいたします。
   請求者は、私が本状に添えております文書において、かれが具体的成果を得ようとしていることを文書で説明しております。かれが口頭でなした別の展開に関しては、 ラングロア氏は、セガン氏の報告書の要約を口頭試問で確かめておられますが、その結果、その文書を認め、人間性と公平性の観点からまったく賞賛すべきことであると心惹かれておられます。私も氏の意見に同意いたします。
(Archives Nationales AJ 16, 156.)
・公教育に関する王立評議会による公教育大臣への1839年12月20日答申
報告者、評議員オルフィラ
評議会は
白痴児が、衛生治療のみならず、声の、すなわち話すことの習慣を得、知性を啓かれるという観点で、知性を伴った教育指導を果たすような施設を、ユニヴェルシテの監督の下、自費で、自身の責任でつくることを許可されんとの医学博士エドゥアール・セガン氏の要望に鑑み:
初等程度の教師を1人、その施設で雇うとの条件で、要望された許可に同意して当然であると決定した。
  (Archives Nationales F 17 12875. No 5794)
・公教育大臣から視学長官に宛てた1839年12月31日付け書簡
視学長官殿
  私は、医学博士セガン氏によって提出されていた、白痴の子どもたちのための教育施設をパリに設立許可を得たいという要請を、公教育に関する王立評議会に諮問しました。
   初等程度の教師1人をその施設に雇用する条件でかれが願い出た許可を認めてしかるべきであると、私は決定しました。
   この旨を、セガン氏にご通知くだされたく。
敬具
フランス貴族院議員
公教育大臣
ヴィルマン
(Archives Nationales AJ 16, 156. なお、同文書欄外に、「通知はピガール通り6セガン氏に1840年1月3日になされた」と記入されている。)
・1841年2月4日付『裁判記録』より
その名がろう唖の若者たちの教育で非常に立派な方法と結びついているド・レペ師を手本にして、セガン氏は、白痴の若者たちの教育に身を委ねる博愛主義的な思想を抱いてきている。(中略)セガン氏は、ピガール通り6に、アパルトマンを借り、そこにかれの学校を設置した。セガン氏のもとに子どもを預けようとか、かれの教育や子どもに施している治療に関する情報を得ようとかの目的でやってくる、たくさんの両親たちの訪問があった。ところがこれらの訪問客はいっさい目的を果たすことはなかった。(後略)
1840年6月24日付けビセートル救済院長・フェリュスによる内務大臣シャルル宛て報告書
「貴下は私にピガール通り6に、若い白痴の子どもたちの教育のためにセガン氏によって開設された施設を訪問し、その博愛的な事業によってかれが得た結果について私が理解したことを報告せよと、お手紙を下さいました。」・・・8歳の白痴児に読み、書き、計算、話すことなどの成果が見られること、白痴の若者Mの進歩・向上を自身が目撃していること、生徒Aに対しては3ヶ月でアルファベが綴れるようになったこと、などを内容とし、「セガン氏はこの困難な仕事において、非常に強い意志、驚くべき忍耐そして豊かな人間性」を備えた人物であります。」
(Le rapport de FERRUS sue l’école de la rue Pigalle’, Yves PELICIER et Guy THUILLIER, Un pionnier de la psychiatrie de l’enfant Edouard Séguin(1812-1880), Comité d’histoire de la sécurité social, 1996.pp.26-32.)
(内務大臣シャルルは「パリの施療院、救済院および在宅援助の管理評議会」(「救済院総評議会」)の最高管理者である。内務大臣がフェリュスにピガール通りの学校視察を命じている。何故に?)

第3実践:基本史料
・救済院総評議会1840年11月4日決定
  「セガン博士は、かれ自身の手によって開発された独自の方法を、白痴たちの治療に適用することを許されていること」、「セガン氏は、その到達を以て、現在、その業務のさらに大きな展開を得ることあるいは為すことを願っていること」、「それを受けて、評議会は、不治者救済院でセガン氏を白痴の子どもたちの教師として管理下に置くこと」を内容とする決定
(この会議の記録は「救済院総評議会決定等文書綴」AP-HP古文書館蔵で欠番となっている。しかしながら、会議の内容は、1842年6月29日の第2部局(不治者救済院部局)の審議結果記録(No 91599)に、その概要が記録されている。引用は同審議結果記録によっている。この記録原簿にあるm le Docteur SÉGUIN(セガン博士氏)の記述でle Docteurに太くふぞろいの黒線が引かれているが、明らかに、後日、誰かの手によって上書きされたものである。(グラビア参照))

第4実践:基本史料
・救済院総評議会1842年6月29日決定「男子不治者救済院の白痴の治療の任にあるセガン博士からなされた請願を検討するための委員会の任命」
  (第85950号1840年11月4日決定趣旨を継承して)
   現に、ビセートルにせよ不治者救済院にせよ、セガン氏に身柄を預けられうる一定数の子どもがいることを鑑み、氏によって適用された治療の結果と、場合によってはそれを大部分の子どもにも当てはめるという可能性とを、委員会に確認させる任を負わせるべきこと。
   評議会は、
   報告者の結論を採択し、
  次のことを決定する。
   オルフィラ、フシェルおよびアルペン各氏の3人の救済院総評議会メンバーと、 ブロンデルおよびバテュ各氏の2人の、不治者救済院(男子)に所属する管理委員会メンバーで構成される委員会が、セガン博士によってその施設の白痴に適用された治療の結果と場合によっては大多数の子どもに通じる可能性とを確認するために、組織される。
   本決定は第2部局に速やかに送致される。
(la collection des minutes des arrêtés du Conseil général des Hospices No 91599)
・救済院総評議会1842年10月12日決定 雇用の決定
  1.セガン氏は、1843年末まで、氏が不治者救済院の白痴の子どもたちに適用していた教育の方法の試みを、養老院(男子)の多くの白痴の若者たちに対して為すために、引き続き招聘される。
2.かれは賄い付きで施設内に居住する。食事は第1食堂で摂る。またかれは後に決定される手当金を受け取る 。光熱費手当に関しては他の職員と同等の扱いとなる。
3.セガン氏は施設監督者の権限のもとに配属される。かれは、救済院の他の職員と同様、行政と秩序安寧のためのあらゆる決まりに従わなければならない。かれは常駐していなければならない。自身に委ねられた子どもの教育につねに時間を割かなければならない。
4.セガン氏と協力して第2部局を預かる評議会のメンバーによって選ばれた、白痴、てんかん、狂人の子どもたちは、直ちにビセートル救済院に移籍され、同類の子どもたちの部局に配属される。
5.第1部局および第2部局の評議会メンバーは、これらの子どもたちや、子どもたちがなじんだ家具調度類、下着類、上着類、仮寝のためのベッド、および、かれらが馴染んでいるあらゆる道具・器具を転院することについて、協議する。
6.1人の監視人がビセートル救済院の人員に加えられ、不治者救済院のそれは減ぜられる 。単純な変化でしかないけれど、このために必要な予算は1842年度と1843年度の追加予算項目として要求される。
   救済院長と精神医師たちはセガン氏によって採用される方法の過程と結果とを注目し続ける責を負う。
   1843年度の任期切れの際、この教育者によって得られた結果に関して、評議会に報告がなされる。
(la collection des minutes des arrêtés du Conseil général des Hospices No 92430)
・救済院総評議会第1部局1842年10月26日決定
  「男子養老院の教師、セガン氏に600フランの手当て」を内容とする。ただし、ただし、手当金400フランと「かれの方法の適用によって得られた結果がこれらの少年たちの教育に著しく認められるならば」年末に200フランを支払うという内容である。
(la collection des minutes des arrêtés du Conseil général des Hospices No 96493)
・救済院総評議会1843年12月20日決定 罷免の決定
  総評議会は、第1部局の管理者と男子養老院の特別監督の任にある総評議会メンバーとによって提出された報告書を聞いた後、セガン氏同席のもとでこの施設長と精神病医療を行う医師の1人との出席を得て午前中になされた調査の結果を踏まえ、
   セガン氏は、白痴教育の創造者であると自称し、白痴の教師としてその体系を白痴の子どもたちに適用することを許されたのだが、かれが、幾人もの不品行で有害な習慣を持つ子どもたちに習慣をつけることがなされ、その成果を上げてきたと、信頼に値するものを発揮していない、というのが報告内容であることを鑑み、
 決定する
   セガン氏の任は解かれる。直ちに職務を停止し、24時間以内に救済院を立ち退くこと。
(la collection des minutes des arrêtés du Conseil général des Hospices No.97067)

その他の関連事項について
★1.病弱児施療院との実体的関係があったかどうか
★2.病院・福祉施設における子どもの教育との関係性
★3.施療院・救済院の近代化過程との関係
「パリの施療院、救済院ならびに在宅援助管理総評議会」
 「弱者」の「子どもの教育」の進展  一方で「義務教育」困難

むすび―セガンの白痴教育論 
白痴者−この被造物は現在に至るまで嫌悪の目で見られてきた−を、次のように、道具に仕立てることは19世紀の精神にふさわしいものではない。人類学の啓蒙を計るために資すること、人間の本質の真実の理論は神性についてのより良き理解から生まれるということを証明するために資すること、さらにはわれわれと我らの創造主との間をこうしたヴェールの類で覆い隠すことに資すること。今は謎とされているが、来る世代は本当のこととして認識することだろうけれども。
しかし、本当の学問的な原理を見出したかと言えば必ずしもそうではない。原理を適用してみることは避けられない。それは、まさしく実践的な仕事であり、実際にやってみることと比較してみることで試したのだが、体系的でなく秩序立てられていないような原理はすべて誤りであったり、役に立たなかったり、不可能であったりすることが分かった。そうして、教授と発達についてそれまで蓄積されてきた根拠のないものすべてを取り除いた後、白痴者の治療は、人類の教育が幾世代もの時を重ねて辿ってきたと同じ歩みに従うようになったのである。すなわち、民族や個人の最初に必要としたことは活動的な感覚力である。その感覚力によって人間は、進み、行動し、闘い、そして勝利する。この必要性は、古代種族にとっては、競技スポーツや闘いの訓練への導きの源であった。テーベからリュクサーに到るところにみられる歴史的建造物にさえ私たちはその痕跡を見出す。私たち(=私)は、こうした古代の人びとの体育に、白痴者たちの教育の第一歩を見出したのである。
(Edward Séguin:Origin of the treatment and training of idiots, American Journal of Education, t. II, 1856.)<附>セガン家の資産

地番 面積 譲渡年 取得年 売却価格(1区画当) 売却価格(全体)
2265 7.80.70 1871 2.88 254.50
2266 6.93.70 1871 20.88 246.38
2266 6.90.45 1871 0.41 244.78
2267 8.44.93 1871 0.27 253.54
2268 8.57.93 1871 9.28 253.67
2410 8.54.63 1871 9.85 53.14
2514 2.69.50 1871 6.11
2525 0.87.00 1841 8.12
2631 0.18.15 1871 0.96
2632 0.08.15 1871 0.08
2482 1.77.10 1871 5.31
193 1.67.40 1871 1.67
697 0.02.20 1855 1.60
698 0.00.05 1855
891 1873 200.00
891 0.09.95 1873 0.59
899 0.09.15 1871 0.09
2656 0.10.63 1871 1816 1.09
2657 0.58.95 1871 1816 1.77
2657 0.07.80 1871 1816 1.75
2660 0.25.05 1871 1816 0.25
2661 0.26.25 1871 1816 2.23
2769 0.25.50 1871 1816 2.12
2658 0.13.00 1871 1863 0.10
233.84 1306.01
総計 58.38.17 1539.85

クラムシー市の「ナポレオン地図」および「土地台帳」の、ある一頁について。「ナポレオン地図」はクラムシーのほぼ全体を地番で表しており、「土地台帳」は土地・家屋の所有移動が地番で示されている。
「土地台帳」の所有者見出し(No. 1231):所有者は、Seguin Onesime Medisin à Clamecy(クラムシーの医師、セガン・オネジム)、Seguin Edouard Medicine aus Etats Unis(合衆国の医師、セガン・エドゥアール)と記入されている。父親の死は1870年、母親の死は1871年セガンは遺産をそっくり相続し、1873年にはそれらをすべて手放した。つまり、1873年にクラムシーのセガン家は名実共に消滅したことになる。
所有者名欄に続いて、「移動の年」欄がある。これは所有権取得欄と所有権放棄欄(譲渡欄)とがあるが、取得欄の記入は1816年(6件)と1863年(1件)のみであり、あと(17件)は空白となっている。これは、セガンの父親が自力で取得したのが前2者であり、その他は父親がセガンの祖父から財産を継承したものと考えてよい。
セガン家はかなりの資産家であった。セガンが、パリで、続いてアメリカで、「白痴」教育などに携わった、その資金はどこから捻出されたのか。この両者が密接に関わっているのだろうというのが、現時点での推測である。先行研究では、セガンは財政的に窮乏していた、と断定的推定がなされている。彼自身の教育活動や文学活動などによる収入は、記録を見る限り、「窮乏」であったであろう。しかしながら、セガンの父親が家財産を担保としてセガンの諸活動を支えていた、という推定も可能な現時点である。
 全資産を総計すると延べで約60ヘクタール(60万?、60町)となる。その売却価格は総計約1540.00(1540百=15千4万)フランという計算になる。60万?の土地には旧市街の家屋がついているものも含まれる(地番三桁)が、大半が郊外である。地目は山林、農地と推定される。セガン家は地主階級でもあったとほぼ断定することができる。

<附> セガンの実践足跡と当時の医療福祉のため諸施設(19世紀末のパリ地図使用)