ウージェーヌ・シュー『イディオ』 (1832年作)

ウージェーヌ・シューの「イデオ」(1832)

 ウージェーヌ・シューが代表作『パリの秘密』のなかで一大棄民施設ビセートル救済院内の精神病棟に収容されている白痴〔イディオ:idiot)を詳細に描写し処遇について言及している。じつは、彼はその問題にかねてから興味を示していた。というのは、彼は1832年に短編『イディオ』を公刊している。同作品は1842年に『ラ・キカラチャ』に収録・再版されている。以下の訳文はこの再版版によった。短い話だが、「白痴」概念の広さと深さについて考えさせられることが多い。わが国では今日「白痴」は差別用語だとして使用が制限されており、近似値的な概念「知的障害」を余儀なくされているが、以下の作品の主題を「知的障害(児)」とすることには抵抗がある御仁は多いのではないかと、思う。
 段落の区切りは原作を尊重してそのままです。 (2004年11月初訳の試み)
*******
 パリの遊興に倦んで、私は、静けさを求めて、レズの森近く、**シャトーに出かけた。そこでの滞在は、不快感とか束縛感とはまるで縁遠く、景色の美しさや宿の主人の親切なもてなしに魅了された。食事時に集まりさえすれば、誰もがそれぞれ自分の好きにその日一日を過ごすことができた。そうした自由こそ私が強く求めるものであった。毎朝、森のコナラの古木の下で、誰に邪魔をされることなく、夢想に耽っていた。
 ある日のこと、本に没頭していたため、夕食の時間を忘れてしまった。陽が落ちて、やっと我に返った。ロンポン大修道院の前にいたのだ。その日の宵はすばらしかった。月が銀色の明かりに染まる地平線からゆっくりと昇り、大修道院の、倒壊を免れた古びた柱廊の天辺にかかる月の白い光が、かつてステンドグラスが填っていた窓々から差し込み、光の影が幻想的な城壁様に形づくる。かつてはそこに居住し敬虔な静修を行っていた修道士の亡霊が現れてくるのではないかとの思いさえする。威厳にみちた廃墟の中へ入り込みたい気持ちに身を任せないために、瞑想するにはまさに都合のいい時の間だった。畏敬の念という深い感情なくしては、暗く誰もいない天空の下で、廃墟となった神殿に入り込むことなどありえなかった。そこは村の住民たちが墓地としているところなのだ。深々とした沈黙が周りを支配し、尾白鷲の長い鳴き声や壁から剥がれ崩れかかった数個の石材が作り出す音が静寂を遮るだけであった。苔生した墓石に座り、これまで身の回りで生じたすべてのことを憂鬱な気分で思い起こしていた時に、人の足音が聞こえてきた。頭をもたげてそちらを見やった。すると棺を担いだ二人の男の姿が見えた。彼らの後に一人の白髪の老人が続く。その年老いた顔立ちには深い悲しみが刻まれている。棺が少し離れたところに掘られている墓穴に降ろされた。二人の男は棺に土をかけ、もとの道を戻っていった。老人は一人残り、盛り上がった地面をじっと見つめていた。私は、彼に問いかけるために、近づいていった。この夜の葬列が私の好奇心をそそったからである。彼は私の問いかけに答えることなく、少しの間、私を見つめていた。
 やっと老人が口を開いた。
「悲しい話なのですが、私には大切なことです。あなたがお聞きになりたいのなら、お話し申しましょう。この年になると話をすることが好きなのでね。もしあなたが悩みを背負っているのなら、辛いことの半分を支えてくるような誰かを見つけて慰めとしたいでしょうし。」
 そう言いながら彼は私の近くに腰を下ろした。そして思い出を語るためのように、その顔に手を添えてから、物語り始めた――。
「16年ほど前のことです。秋のある侘びしい晩、私は自分の農場の畑から戻るところでした。森に雷鳴が轟き始め、大粒の雨雫も降り始め、あたりはすさまじい暴風がすぐ来ることを知らせていました。それで、慌てて、雷雨が始まる前に羊を小屋に帰すために群れを急がせました。やっと森のはずれにたどり着いた時には、風がうなりをあげて耳にゴーゴーと鳴り響いておりました。不安に襲われ、どんなことがあっても私は助かるに違いないなどとは考えられず、逃げました。稲光が走った時に、私からさほど遠くないところに、一人の女が意識を失って倒れているのが見えました。その胸にはしっかりと幼い子どもが抱かれておりました。番小屋が遠くなかったので、走って助けを求めに行きました。かわいそうな女は番小屋まで運ばれ、適うかぎりの手当てが施されました。ああ!それも虚しく、彼女の魂は最良の世界に行ってしまいました。彼女はまだ若い人のようでした。でも名前も身分も、それらを示すものは何も身につけておりませんでした。ただ、この人の衣服は村の女たちのものとはまったく違うぞと、その場に居合わせた者は口々に言いました。どうやら彼女は自分の体力を無視して旅に出たようです。そして疲れ果て飢え、ついに旅路を終えることになったのです。彼女の命を蘇らせようとする私たちの努力は無駄でしたが、引き続き幼子のことが気になりました。上品な美しいかわいい男の子でした。3、4歳に思われました。この子もまた記憶を失っておりました。記憶を取り戻した時には、母親を求めて大声で泣いておりましたけれども。私はその子に、お母さんは眠っておられるよ、と話して聞かせました。それで彼は落ち着き、少し食事を摂り、眠りつきました。ロンポンに戻ってから、私は司祭様にことの次第をお話し申し上げました。翌日、司祭様は森の番小屋にお出かけになり、村の墓地に哀れな若い母親を埋葬され、その子を連れてお帰りになりました。私はこの無こな子を自分の側で見守りたいと思ったものです。でもそうするには私はあまりも貧しかったのです。司祭様は、神にお仕えになる人ですから、小さな孤児を見捨てようなどとお考えになりません。その子はギロームと名付けられ、小教区の貧しい人たちと一緒に暮らすことになりました。
 何週間か経って、驚いたことに、その子に知性のかけらさえ見ることができなかったのです。他の子と一緒に学校に通わせましたが、彼は何一つ覚えることができませんでした。やがてギロームはまったく痴愚であることがはっきりしました。司祭様は、ギロームが幼少期に受けたショックのせいだと、言われました。哀れな障害ではありましたけれども、彼の性格は変わることなく穏和で、愛され続けました。彼は小さな仲間たちのからかいが分かってはいませんでした。また、彼をもて遊ぶすべての者に仕返しをするために、その力を使おうなどという考えも持ちませんでした。少しずつ、皆は、<哀れな白痴(パーヴルイデオ)>(これは彼に付けられた渾名です)への接し方を覚えていきました。いつも一心不乱に身を入れてし遂げるので、ちょっとした仕事のために誰もが喜んで彼を雇い、彼の低い知能でも叶うようなことをさせたのです。
 同年代の子どもたちの間に、ギロームがたった一人だけ愛情を寄せていた一人の子どもがいました。この地方の豪農の一人であるジェルヴァ氏の娘で、テレーズと言い、かわいい子です。毎日母親の墓を訪れることや、テレーズのちょっとした頼み事に走って応えることなど、ギロームが理性を取り戻したのだと人々の口に上るようなことがあったのです。テレーズの両親は、パーヴルイディオが自分の子どもにたいして抱いているように見える愛着を、笑いものにしていました。けれども、女の子の方は、パーヴルイディオが彼女に鳥の巣とか沼地の藤で編んだ籠を持ってきた時など、優しく微笑みかけました。
 成長するに従って、ギロームはたくましく美しい若者になっていきました。けれどもその魂は相変わらずそのままでした。とはいうものの、何かのきっかけがあると、彼に感情の高まりや落ち着きがみられることがありました。それはもう、誰も信じられないほどのものでした。なかでも、池の縁で友達とふざけていて、テレーズが水に落ちた時のことです。彼女の身に危険が迫っていました。というのも、水の流れが大きな赤い風車小屋の下にテレーズを引き込んでいったからです。誰もがもうダメだと思っていました。しかしギロームが流れに飛び込みました。彼のその行動に人が気付くより前に、彼は少女を、悲嘆にくれている両親の手に戻しました。この時、彼の目は新しい輝きを放っていました。それで人々は、彼にいい変化が現れた、と思ったものでした。しかし、徐々に彼はいつもの心を閉ざす姿に戻っていきました。そして過去の出来事は何一つ思い出として残っていないかのようでした。
 一方、テレーズは、優雅で美しく成長していきました。村の若者たちは彼女の手に憧れました。誇り高い娘は恋する男どもを次々と追い払いました。彼女が花束を受け取るのはギロームだけでした。でも、誰もが、ギロームを取るに足りない存在だと見ておりました。そこへある出来事が起こりました。地主の息子で、ロジェルという若者がロンポンにやってきたのです。彼は満期除隊で、武勲によって栄誉勲章と大尉の肩章を授けられておりました。輝かしい軍服と気品に満ちた振る舞いに我が村の娘たちはみんなのぼせ上がってしまいました。しかし彼はただ一人にしか目を向けませんでした。つまりテレーズです。テレーズにしても、立派な大尉の気を引くことに無頓着であり続けることはできませんでした。やがて二つの家族は婚約を交わし、二人の若者が結婚することになりました。結婚の準備の間、ギロームには何ら変わった様子はありませんでした。彼は、新婦からプレゼントされた白い手袋やブーケを、まったく無表情に受け取りました。けれども、一昨日、つまり挙式のあった日ですが、まさに式が始まろうとした時に、何と、驚いたことに、ギロームがブーケと白手袋を持って進み出、厳かに、テレーズに渡したのです。参列していた人々の間で笑いが起こりました。しかし大尉は、ギロームのことを分かっていませんから、荒々しく押し返しました。哀れな若者は、それはそれは悲しみを湛え、その場から退きました。そして私を捜し求めていました。そうです、彼は、打ちひしがれたことがあるたびに、決まって私を捜し求めるのです。私は、テレーズがロジェと結婚し、だから今日から彼女はロジェといつも一緒にいることになるということを、言葉を尽くして、ギロームに説明してやりました。彼は夢を見るような表情で私のところを離れていきました。教会で、いつも座るところにいる彼を見かけました。そして結婚の祝福の時になるのですが、彼の顔色が異様に真っ青であることに気づきました。夜は、みんなで農場で踊ったのですが、ギロームの姿は見えませんでした。みんな楽しみに熱中していましたが、私一人、彼がそこにいないことに気づきました。心配になり、ずいぶんと探し回りましたが、彼を見つけることができませんでした。最後に、ハタと思いつき、墓場に行ってみました。ギロームは身じろぎひとつしないでおりました...。彼の胸には、テレーズに捧げられようとした手袋とブーケとが、しっかりと握り締められておりました...。すべてが分かりました。彼自身でも分からない、そして、誰にももちろん私にも分かるはずもない、逃れようのない心に焼き尽くされ、薄幸の人は、テレーズを失ってしまった、決して彼の元に戻ることはないという思いに耐えることができなかったのです...。彼は母親の墓の側で死んでおりました...。それであなたが彼の亡骸が埋められるのをご覧になったわけです。」
 語り部の羊飼が語りを止めた。と同時に一頭の白ヤギが彼に近づき、彼の手を舐めた。彼が言う。「この白ヤギはテレーズのお気に入りだったのです。ある日のこと、ギロームが猛々しい狼の牙から白ヤギを守りました。その時から、命を助けてもらった感謝の気持ちからでしょうか、まるで犬のように忠実に、彼の行くところ行くところ、ついて歩きました。利口な生き物! こいつは彼にからだをすり寄せ続けました。こいつは、私のように、彼の命のある限り、彼を愛しました。こいつは私と一緒に、彼の死を悔やんでくれています...。」
 羊飼はひとかけらのパンを山羊に与えた。だがその哀れな家畜は悲しげに一声鳴いて首をそらした...。私は心打たれ、老人の方を見やった。彼はうなだれており、大粒の涙が目からこぼれ落ちていた。私は彼の手を優しくさすり、彼に気付かれないように、そっとその場を離れた。教会の門に着いて振り返ると、遠くで、彼が若き友の眠っているところに、粗雑ではあるが木を削って作った十字架を立てているのが見えた。ああ、ステルヌよ!ここにいない君に手紙を書こう!この光景は君が描くにふさわしかろう!私のように君も哀れな白痴に涙することだろう!私と同じように、山羊の悲しげな鳴き声や老いた羊飼の素朴な物語が雄弁に示してくれることだろう!