古代にロマンを求めた頃のことの巻〜木造赤坂遺跡を訪ねて〜

1.
 お福ちゃん、猩ちゃんを伴って歩いた旧久居市内の街々は「ぼく」が懐に抱かれて育ったところ。いわば羽ばたきをはじめる前の幼鳥と母鳥の如くである。やがて幼鳥は、母鳥の懐から抜け出し、母鳥の視界に収まらない活動をはじめる。
 高校生となった「ぼく」は、ツネユキ君という友を得た。ツネユキ君は美杉村(みすぎむら)という山村に母親と二人きりの生活をしていたが、高校進学にあたって、旧久居市の東南のはずれの集落・木造(こつくり)の祖父母の家に下宿していた。彼は農家の離れの八畳ほどの広さの部屋で起居していたのだが、高校1年生の夏休みを過ぎてから、ほぼ毎日曜日の午後、「ぼく」はその離れの部屋に通った。ツネユキ君は、当時、大正教養主義の書物に浸っていた。代表的な書物といえば阿部次郎『三太郎の日記』である。毎度毎度、「人生いかに生きるべきか」「人間における善とは何か」などの問いを「ぼく」にぶつけてくる。カントを読んだか、デカルトを読んだか、ショーペンハウエルを読んだかという問いは高校生活も終わりの頃であったろうか。正直なところ、「ぼく」には、それらの問いは不明であった。不明ではあったが、正面から受け止めようとする努力はした。しかし、その努力は、ツネユキ君にとっては、耐えられないほどに低俗であったらしい。にこやかな笑みの向こうに冷徹な目線をしばしば感じさせられた。生まれて初めて「劣等感」を覚えさせられたのである。
 その感情の芽生えは「ぼく」自身の手による「ぼく」自身の相対化の作業の開始を意味していた。
 ツネユキ君を訪問する楽しみのうちに、彼のおばあさんとの会話が含まれていた。「川口君、教えてくれへんやろか。」おばあさんの手には、必ず何かが携えられていた。高校1年の冬休み直前の頃、一枚の「古地図」が「ぼく」とツネユキ君の前に拡げられた。「土蔵の中にこんなんがあってなぁ。これは値打ちもんやろか。」その頃、「ぼく」が、松阪まで自転車で遠出し、本居宣長の「鈴の屋」をしばしば訪ね、彼の著作の木版を手で触れることができた喜びや、母から教わって暗記までした「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」の歌意を得々とした調子で語っている姿を見て、おばあさんは、いっちょこいつを試してみようと思ったのか、それとも本当にぼくが歴史に造詣があると信じたのか、そのあたりは分からない、とにかく、江戸地図−数々の大名屋敷名が書かれていたのを覚えている−と思しき図版が畳二枚分、拡げられた。「ぼく」は、図版上に「藤堂藩上屋敷」という文字を素早く見出し、「おばあちゃん、これは、江戸時代の地図やなぁ。江戸の大名屋敷を描いたんやに。」と即断して言った。「そんなんが、なんで、うちにあるんやろなぁ。」「ツネユキ君のご先祖様は、ものすごう、偉い人やったんとちゃう?」こうして、結論がはっきりしないにもかかわらず、おばあさんは、あれこれと品物を代えてはぼくに問いかけた。ツネユキ君との哲学問答、おばあさんとの歴史問答。いずれも「ぼく」はあいまいな対応しかできなかったのだけれども、「ぼく」にとっては歴史問答の方が楽しくかつ思考の整理が容易であった。なにしろ、思考のきっかけとなりかつ「仮説」(独断と偏見)を生み出すことを助けてくれる具体物が目の前にあるからだ。そう、「ぼく」は、まだまだ抽象的思考が容易なほどには、精神発達がなされていなかったのである。
 昭和35年(1960年)の年明け間もなく、おばあさんが、「川口君、木造で耕地整理をしようという計画があってな、今その予備調査をしてるんやけど、これまでもときどき鍬なんかにあたることがあったけど、今度はなぁ、ごつごつごつごつ、まあ私ら百姓にはめんどうなことになりそうなものが掘り出されてるんや。これやけどなぁ。」と、薄茶色い色やら鼠色やらした土器の破片を幾つかを「ぼく」の前に出した。中学時代、郷土研究クラブに所属し、古代史について学んだ経験則から、江戸「古地図」の時とはうってかわって、「ぼく」はおばあさんに向かって断言した。「おばあちゃん、これな、土師器(はじき)と須恵器(すえき)や!茶色い方が土師器で鼠色の方が須恵器。こんなんが畑で見つかったん?」「そんな難しい話はよう分からんけどなぁ。」「土師器の方が歴史が古いんや。赤っぽい色な。ぼくもあんまりよう分かっとらんけど、須恵器の方はロクロを使うて作ったり、焼き方のせいか土のせいか知らんけど、土の中の鉄分が焼き色に出るし、硬いんや。1500年以上も前のものやと思うで。」「川口君、興味あるんやったら、本格的な調査が始まる前の今やったらええと思うで、うちの畑、掘ってみいな。」
2.
 久居駅を二両建てのローカル電車で発った鶴福猩の三人は、次の停車駅「桃園」で下車。ワンマンカーであったことと先頭車両の一番前しかドアが開かないという、三人にとってはちょっとしたアクシデントを楽しんだ。その後は、「ぼく」の記憶−数十年前に形成された−では駅からほんの少しは家並みがあるけれども、後は畑の中のうねった一本道を進めばよかった。しかし、現実はそうではなく、街中の豹変振りとは異なるけれども、自転車をすっ飛ばして走った頃に目の端に入れた風景とは大分変化していた。戸惑いつつ、とにかく、木造集落と思しきあたりをめざして進んでいった。なるほどなるほど、耕地整理がなされたことがはっきりと分かる畑の区割りである。記憶の彼方にあるうねうねとしたあぜ道と溝は完全に姿を消していた。道に不安を覚えて、下校中の小学生に「木造はこの道でいいの?」と訊ねたら、「ハイ!」と元気のいい返事が返ってきた。我が家の近くで「今、学校から帰りなの?」と声を掛けたら防犯ブザーを鳴らされた経験とはまるで違って、温かい人間性を感じさせられた。しかし、「ぼく」の記憶にある、木々に囲われた集落はいつまでたっても現れない。進行前方に、道沿いに家屋が建った集落があるが、そうだろうか?それにしても、ツネユキ君のおばあさんのつぶやきというかぼやきが発端となって、やがて発見・発掘されるに至った大規模な遺跡はどこなのだろう。この旅の直前に、その遺跡の名を「赤坂遺跡」と呼ぶことをあらかじめ調べておいたが、なぜその名が付けられているのかさえ、「ぼく」には分かっていなかった。二度目の道案内を乞う。「赤何とか言う遺跡はどこかしら?」訊ねたのは小学中学年生。応えかねしている様子だったが、側にいた上級生のお嬢さんが、「あの黄色いもののところ!」と教えてくれた。道沿い集落の入口に子どものための交通標識らしきものが建てられている。その根本に、求める遺跡があるというのだ。それにしてもちっこいネー。

 − 木造そのもの、そしてその周辺一帯が古代史から現代に至る集落遺跡と言ってよい。ツネユキ君のおばあさんの畑に、歴史発掘の鍬を入れ、壊れた土器、完全な形の土器などを幾点か掘り出した「ぼく」は、まず、中学時代の社会科教師(「郷土研究クラブ」の顧問教師)のところに持ち込んだ。彼は、これは歴史学上の発掘にあたるだろう、博物館にきちんと話しをしよう、と、実物と「ぼく」とを携えて県立博物館に赴いた。博物館の人(おそらく学芸員だったのだろう)は、「雲出川流域は考古学の宝庫です。木造も耕地整理の前にきちんとした調査をする必要がありますね。」と語っていた。「ぼく」が掘り出した土器類はそのほとんどが公有物つまり歴史文化遺産として、博物館に所蔵されることになった。昭和37年に本格的な発掘調査が開始された。その後数次にわたって(今日までも)発掘調査がなされているというが、「ぼく」はその年に東京に出、ツネユキ君は名古屋大学に進学したこともあり、木造にはとうとう行かずじまいとなった。つまり発掘の様子をこの目で確かめることは出来ないでいるけれども、帰省の度に博物館に立ち寄り、遺跡発掘の報告書を目にしていた。−

 鶴福猩は「赤坂遺跡」の史跡看板の前に立った。赤坂とは地名であることをはじめて知った。看板−敢えてこのように表現する−には次の文言が書かれていた。「ぼく」にとっては既知の事柄となっていたので、理解はスムーズに行き、だからこそ、この辺り一帯の歴史の重さを誇りに思いつつ、目の前の「遺跡」保存の実情に激しい怒りを覚えたのである。

 「久居市指定文化財第四号         久居市木造町字赤坂
                      昭和四六年七月指定
  赤坂遺跡
赤坂遺跡は縄文時代から室町時代まで続く複合遺跡で、昭和三七年度の圃場整備事業中に弥生時代の住居跡や多数の土器の破片など遺物が発見されたので発掘調査を行いました。これが久居市での本格的な埋蔵文化財の発掘調査の始まりとなりました。
平成九年度の農道建設に伴う発掘調査でも弥生時代の住居跡や多数の壺や甕や甑などの土器が出土しました。また、住居跡群を取り囲む大きな溝も発見されました。この溝は村全体を囲む環濠ではないかと考えられます。赤坂遺跡は数度の発掘調査によって当時の村落や人々の生活の様子が分かる貴重な遺跡であることが分かりました。
雲出川によって形成された豊かな水田地帯の中の一段高い畑地では今もよく観察すると土器や石器の破片をみつけることができます。
管理者 久居市
平成一四年三月
久居市教育委員会

もう一つの看板に遺跡内容についてやや詳しく描かれている。

「赤坂遺跡は縄文時代中期(約五〇〇〇年前)から室町時代(約五〇〇年前)にまたがって営まれた『むら』の遺跡です。」「むらを囲むような大きく広い溝・・・の底からは、弥生時代後期の土器が一度に投げ込まれたような状態で大量に発見されています。この溝の横で赤坂地区を治めた者が『むら』の安全を祈る祭りを行っただろうと考えています(公示文書としてどうかと思われる表現ですねー)。」「近くから、大きな溝を堰止めるために打ち込まれた古墳時代の杭の列が発見されています。」

 荒れ果てた史跡の前に立つ立派な文言の看板。おそらくこの史跡は住居跡を例示するために残されたのであろう。柱跡らしい穴が見られることでその推測が可能である。しかし、全体的に覆われていたと思われる保護コンクリートは、雑草の勢いに押されて、無惨にも破滅し、あろうことか、モノを燃やした跡がある。
 こういうのを「看板に偽りあり」と言う。お福ちゃんが「投書します?」と言ったが,その気にさえなれない。哀れな歴史感覚を持った教育文化行政である。

「先生はどうして歴史学、考古学を専門にしようとしなかったの?」
「本当はね、歴史学を学びたくてね、文学部を受験したかったの。けど、時代の流れは理工系にあらずんば人でなしというのだったのね。母が、まさに身体を張って文学部進学を阻止しにかかったの。それで、ぼくは、半ば自暴自棄、やけのやんぱちで、文学部・理(工)学部・医学部以外を受験しようと決意した、というのが、青春の締めくくり。せめてね、歴史に対する感性だけは失いたくないと思い、壊れた土師器だけれど大切にしています。」

 久居の町は近世に作られたのだが、木造は、赤坂遺跡の説明に「室町時代」の文字が見られるとおりそれ以前の歴史を物語っている。近世以降は旧久居が政治支配の中心であるが、それ以前は木造がこの地域一帯の政治支配の中心であった。中世期から戦国期にかけては、藤堂の名ではなく、北畠の名でもって語られる必要があるのだ。
 (三重)美杉・多気−伊勢本街道の宿場町であり、伊勢参りでたいそう賑わった−に館(多気御所)を構え栄華を誇った北畠は公家の国司伊勢国司)であったが、実質は武家的な権力構造をもっていた。事実、一時室町幕府から伊勢国守護にも任命されている。応仁の乱(1464〜77)以後の戦国期に入ると、北畠は在国していたこともあって権力を維持し勢力を拡大した。南勢地域を中心に伊賀・志摩・紀伊・大和にも勢力が及んだが、結局、戦国大名化できなかったため、新興の織田に対抗できず滅び去った。
 木造は、1366(貞治5)年に伊勢国北畠顕能の次男が築城し、以後木造を称した。足利義満の時代に木造は北畠を離れ将軍家に直属するほどに権力中央の近くにいた。このことに象徴されているように、木造は、本来は宗家にあたる北畠に弓を何度も引き、政治には北畠と並ぶほどの権力を得ている。しかし、織田信長の伊勢攻めの時には織田に従い、信長は木造城に入城したという。
 閑静な田園地帯の中の静かな農村風景を目の前にすると、同族同士が激しく闘った拠点とはとても思われない。だが、地政学的に言えば、雲出川流域の肥沃な土地、そして都と伊勢神宮とを結ぶ主要な交通路を占有しているのだから、ここを押さえることは政治的に大きな意義があったわけである。

 鶴福猩は木造城のことを気にかけながらも−とりわけ中世史を専門とするお福ちゃんにとっては「北畠」の名が心のアンテナに強く響いたのだが−、次の伊勢路へと歩を進めた。