古き時代の塵を求めて

 研究者にとって、オリジナル資料とコピー資料とを比べれば、天と地ほどの差異がある。パリ・コミューンを興味本位で追いかけ始めた頃には、たとえコピー版であろうともその時代の息吹を、真新しい紙と写真製版のためにすり減った活字に、心を躍らせていた。次第にパリ・コミューンに心を引き込んでいくようになる頃には、古本屋のムッシュがぼくの顔を見ると、店の奥から茶色に変質した本を数冊取り出して、にこやかにぼくの前に置いてくれるようになっていた。それらはほとんどが「幻の」という形容がつけられる先行研究書であったり当事者の証言記録であったりしていた。いずれにしてもそれらがパリ・コミューンの息吹を現代に伝えてくれる貴重な「証言」であることは間違いないわけだ。こうして3年がかりで収集したパリ・コミューン関係の史資料は、それらのコピー版あるいは再版ものを含めると、オフィスの6段書棚2架にはなる。それらをいつになったら読了し得るのか?という問いが発せられたら絶望的な気持ちにはなるけれども、そこは研究者の習い性、前書きと目次と、索引とは必ず目を通してあるから、自分が何をどのように研究の視角を持つかという必要度に応じて書架からすぐに取り出すことができるほどには利用をしている。そして、必要な文献・資料を取り出すたびに、あるため息をついていた。それは、回想記録や研究書、調査報告そのものも貴重な当事資料ではあるけれども、いわゆる第一次資料には位置付かない。そして第一次資料に関しては、残念ながら、ほとんどがコピー版や再版本でしか入手していない。第一次資料というのは、後世の者がいっさい手を加えていない、当時の姿、事実をそのまま語るものである。パリ・コミューンに関して言えば、それが存在しているはずだと言われているパリ・コミューン議会議事録(これは1920年代以降に注釈や関連資料を添えたものが出版されている。これをクリティーク版と称するが、クリティーク版そのものがかなり入手困難となっている。近年写真複製版が出版された。)、パリ・コミューンの広報紙(これは抜粋版コピーが出版されている。)、パリ・コミューンの広報ポスター(いわゆる壁新聞。これはまとまった形では目にすることはできない。)が直接的な史料となる。議会議事録はクリティーク版を、広報誌はコピー版を、広報ポスターは10数点の実物を入手しており、さらにこのポスター類は当時を語るさまざまな史資料の中にも引用されているので、ほぼその全容を知るだけのものは我が手元にはある。議会議事録のオリジナルを入手するのはほぼ絶望的と考えられるが、広報紙やパリ・コミューン終焉直後に出された当事資料などに議事録が再録されているので、ほぼ完全な姿を確かめることができている。しかしながら、広報紙にいたっては、コピー版だけが頼りとなっており、その実際の姿については、あれこれと推測するしかなかった。推測のあれこれというのは、先行研究書の中に写真で紹介されている広報紙があり、そのレイアウトはコピー版とはまったく異なるということ、従ってコピー版は何らかの手を加えた再編集版であろう、ということである。まさか記述内容に手を入れていることはあるまいが、それでも再編集版となると、歴史をそのまま対象化しそれを分析し、歴史的に位置づける(評価する)という作業にとっては、かなり信憑性に劣ると揶揄されても仕方ないわけである。
 パリ・コミューン広報紙はJournal Officiel de la République Française というタイトルが付けられている。たった一号だけ例外的にJournal Officiel de la Commune de Parisというタイトルとなっている。日本語に訳せば、前者は「フランス共和国広報紙」、後者は「パリ・コミューン広報紙」となる。この違いは、パリ・コミューンの本質の「謎」解きにとってじつに重要な意味を持つ。前者は、パリ・コミューン議会に対してヴェルサイユ政府と呼ばれた当時のフランス国民議会政府の広報紙と同一であり、もちろんパリ・コミューンの間も発行されていた。つまり、Journal Officiel de la République Françaiseはヴェルサイユ政府とパリ・コミューン議会とが同時期に出していた広報紙である。このタイトルを見る限りパリ・コミューン議会はヴェルサイユ政府に取って代わろうとしていた政治権力であろうと意識していたことが推測されるとされるわけである。そして後者は、あくまでもパリという自治政体(コミューン)の独自な政治権力であることを意識していたことが推測されるわけである。政治・行政のための広報紙はl'Officielと略記されて各種記録・先行研究などに残されているが、この略記だけの文字を追いかけていたのではこのような推測は成立し得ない。従って当事資料としてコピーなりオリジナルなりを入手し確認する作業は必須のことなのである。だが、前述したように、現在市販されているコピー版には何らかの再編集の手が加わっている可能性がある。だとすれば、やはりコピー版で確かめたことが本当はどうなのか、オリジナル版に遡る必要はどうしてもあったわけである。
 パリ5区のモンジュ通りに小さいがこぎれいな古書店がある。この古書店は、一介の旅行者は入りにくい店構えとなっている。というのは、入り口ドアは常に施錠されており、呼び鈴ならぬ施錠解除のボタンを押してからでないとドアを開けることができない。通常古書店は「自由にお入りください」の言葉通りドアは簡単に開けることができるし、店の中に入って店主に挨拶なく書棚を眺め回していても何も声はかけられない。入手したい本が見つかるとそれを手にとって店主のところに行き「サ、シルブプレ」(これ、下さい)と発声すれば後は請求されたお金を支払えばすむ。しかしこの店はドアに施錠されている。日本社会の一般書店でもそういうことをするのが苦手なぼくとしては、よほど度胸を据えてからでないと、と歩道から店の中を覗き込んで気になる心を持てあます日々を送らざるを得なかったわけである。この日はK君の協力を得て資料収集のための散策をしていたこともあり、いつもとは違っていた。
「ねえ、この店、気になるんだけど。中に入って本を確かめたいんだけど。」
 ぼくの一声でK君がドア横のボタンを押しドアを開けて中に入った。ぼくはその後をおずおずと従う。店のマダムとK君がなにやら言葉を交わしているのを後ろで聞きながら書架の古書を一冊一冊目で追っていた。「この古書店は通信販売だけしか扱っていないそうです。カタログから必要な本を探してくださいとのことです。」と、第33号と印刷されたしゃれたカタログを渡してくれた。ページをめくっているとJournal Officiel de la République Françaiseが目にとまった。書籍解説にはオリジナル、完全揃いとある。動悸が激しくなるのを覚えた。まさしく、ぼくにとっては、「幻中の幻の史料」なのである。「コピー版は持っているのですが、実物を見たことがないので、見せていただけますか?」その願いは、もちろん、すでに先客がついていなければ叶う。マダムはにこやかな笑みを浮かべて、書架ではなく、大きなボックスの蓋を開け、45×65ほどの大きさの赤い表紙で製本されたものを取り出した。違うのである!コピー版とはまったく違う。コピー版の判型の4倍ほどに大きなオリジナル版。指先が震える思いで、おずおずと第一ページを開く。コピー版はオリジナル版にあるすべての情報は網羅していなかった!コピー版には書籍等の宣伝は掲載されていない。オリジナル版にはある。これが古書店での初見の印象であった。書籍等の出版情報も時代を知る上では重要であるが、より直接的な情報がコピー版で割愛されているとしたら、史料分析に欠陥が生じることになり、研究上重大な齟齬を来すことは間違いない。
 意を決して買い求め、急ぎ足で宿に戻った。着替えもせず、ページを繰る。とんでもない発見をした。コピー版では完全に欠落しているヴェルサイユ政府の議会議事録概要が載せられているのだ。パリの人たちがヴェルサイユ軍の大砲を奪った(正確には奪回した)のが1871年3月18日。この日をもっていわゆる「フランスにおける内乱」が勃発したとされている。そしてパリ・コミューンの議会議員選挙が広報されたのが3月20日、この時はまだパリ・コミューン議会は発足していないので選挙の管理はパリの国民衛兵隊中央委員会が行っている。選挙が行われたのが3月26日。3月29日に選挙結果を受けて第一回の議会が招集され、暫定権力であった国民衛兵隊中央委員会から行政権力の委譲を受け、la commune de Paris議会が発足する。広報紙にはこの間の事情を物語る諸情報が載せられており、このことはコピー版でも十分に間に合う。しかしながら、そうしたパリの動きをヴェルサイユ政府がどうとらえていたのか。それを直接知る史料としてはパリ・コミューン終焉後に出された回想記、研究書などを所蔵しているが、同時進行形の史料、たとえば議会議事録(概要を含む)については未見であった。ところがその議事録概要がオリジナル版に所収されていたのである!但しそれは4月3日までであり、それ以降はもっぱらパリ・コミューンの議会決定や議事録のみとなり、ヴェルサイユ情報は紙面から消えていく。このことの意味もかなり重要であるが詳細な検討は後日に移すことに決め、初めて見るヴェルサイユ府議事録を拾い読みをして、その夜を過ごしたのである。
 店の名前はlibraire hatchuel。インターネット上でも注文をすることができることを教えられた。古書店は通常、古書目録で書籍注文に応じるが、その目録には、店の書架にある売価付き本が、ほとんど掲載されている。しかし、この店の書架に並んでいるものは、その売価はつけられていなかった。しかもカタログすなわち古書目録はほんの一握りのサンプルであり、実際にはインターネット上で通信販売されている。帰国したら、週に一度は、この店のアドレスを我がPCに入力する習慣となりそうである。
(2)
 リュクサンブール宮殿を正面に見るパリ6区のトゥルノン通りはリトグラフや古地図などを扱う古書店が点在している。いつも雑然としたパリの街を歩き回り、「それらしい古書店」に目を配っているぼくにとって、この通りは購買欲は沸かない。が、物珍しいものに出会い、しかも人の通りもあまりないとあって、ゆったりゆったりとショーケースの中をのぞき込む格好の「パリの街で、しゃれたブティックのウィンドウ・ショッピングを楽しむ」通りである。
 だが、この日は違って急ぎ足であった。
 過日この通りの「ウィンドウ・ショッピング」でリトグラフなどを楽しんでいた。ある店前の粗末なワゴンに並べられていた古書、いわゆるゾッキ本を一冊一冊確かめていたところ、ぼくのフランス教育学研究の本丸であるセレスタン・フレネの著書が売られていた。『現代学校のフレネ技術』という書名のその本はすでに絶版であり、彼の著作集にも収録されていない。フレネ教育学研究を志す者にとってはどうしても入手したい一冊である。他のゾッキ本の陰に隠れていたそれは1ユーロ。心躍らせてそれを手に取り店内で支払いを済ませた。ことのついでに店内を眺め回したところ、ジャン・ジャック・ルソーの大判の4冊本全集(案内には完全揃いとあった)、ヴィクトール・ユゴーの『レ・ミゼラブル』5冊が目についた。これらを購入し、持ち帰るには荷物が多すぎると考えもしたし、1ユーロのフレネの「ゾッキ本」だけで大変な儲けものをした満足感で、宿に戻った。店の名前さえ記憶に残さなかったのだから、そのときは、ぼくの「宝物探し」の終末を意味していたのだろう。
 ところが数日後、ぼくは、トゥルノン通りをリュクサンブール宮殿正面に向かって足を速めていた。「ゾッキ本」のワゴンの中を丹念に探る。パリ・コミューン関係はなかったけれども、フランス教育史を学ぶにふさわしい古書が、やはり1ユーロ、2ユーロの値段が付けられて、眠っていた。数冊を選び出し、店内に入る。先日はにこやかに笑みを浮かべて優しげだったムッシュが、今日は難しい顔をしている。声をかけづらい雰囲気ではある。選び取った数冊をそのムッシュに渡しながら、おずおずと、パリ・コミューン関係の資料はないか、と尋ねる。日本の大学に勤めている教授でフランスの近代教育、その関連でパリ・コミューンを研究していると、自己紹介も重ねた。むすっとしたまま、先日は見たものの、目線が届かなかった棚から出して手渡してくれたのが、'Avant, Pendant et Après La Commune'(「パリ・コミューン 前・間・後」)という戯画集の複製版。1971年の、パリ・コミューン100周年を記念して出版された「パリ・コミューン大歴史」(全5巻)の予約者に限って配布された限定出版ものである。この戯画集の原作者はPilotell(1845−1918)。パリ・コミューンのリーダーには芸術家の参加も少なくなかったが、彼もまたその一人である。ヴェルサイユ軍に捕らえられ、1874年の第3軍事裁判で死刑判決を受けるがその後減刑、ロンドンで死んでいる。反パリ・コミューン側から描かれた戯画は入手していたが、パリ・コミューンメンバーによる戯画を(たとえその複製といえども)まとまった形で手に取ってみるのは初めてである。裁判抜きで処刑された屍が重なる中で少年が処刑されようとしている場面はヴィクトール・ユゴーなどが詩で描いているところである。やはり深い感慨を覚えざるを得ない。
 購入の意志を示すとムッシュが「パリ・コミューンに関わるオリジナルの絵画があるがそれは必要ないか。」と言う。リトグラフ、写真、新聞などは、オジリナルであったとしても、何枚も作成されている。しかしながら、絵画は、まさにその一枚だけがこの世に存在しているだけである。
 「見せていただけますか?」「ウィ」
 目の前に出されたのは、グレーのクレヨンを主たる画具として描かれた、戦闘の後の、A4判ほどの大きさの絵。その色彩こそ、まさにパリ・コミューンでなされた死と破壊を象徴するものである。小高い丘を舞台にし、画面中央下に数々の屍。画面右半分に破壊された建築物。そして画面左は下り傾斜の丘、その傾斜には大砲などの兵器。左半分中央は破壊されつつある街の遠景であろう、炎と煙が高く上がっている。そして天空には月。絵の作者はAlbert ROBIDA(1848−1926)。彼は、戯画、リトグラフなども描き、ジャーナリズムで活躍した。主として「戦争」を描くのが彼の手法であり、また哲学である。彼の名前は知っているという程度であり、どれが彼の絵なのかを識別するほどには知っていない。やはり「実物」の持つ迫力に圧倒される。黒と白の世界だけで、あらゆる色を持つこの人間の世界を描ききるその筆力に、パリ・コミューンの一つの「真実」を教えられた思いである。
 店の名は La Poussière du Temps。日本語に直せば「時々の塵」。古本の本質を言い得た店名である。そして「塵も積もれば山となる」。この山は歴史の宝の山である。「自宅の書庫のどこかに、パリ・コミューンの時の写真があるので、探しておきます。見つかり次第、連絡を差し上げます。」と、ぼくのその先の心を読んだ別れのご挨拶をいただいた。