6351はテントウムシ

1.
ぼくは今、左手に、幅1.5センチほどの紙製の腕輪をはめられている。これには、ID:******* 瀬田康司様 6351 MA型Rh+ などと記入されている。この腕輪は「ハサミで切らない限り、はずせません」との看護師の言葉にあるごとく、この病院におけるぼくの識別票である。ID番号はこの病院におけるぼくのあらゆるデータを記憶し、引き出すためのものである。けれども、日々の病室生活において活用される場面と遭遇したことがない。それに対して、氏名以下数字並びに血液型記号は、点滴、投薬などベッド上で行われる各種治療に先んじて、患者すなわちぼくと看護師あるいは医師と共同で必ず確認される。各種治療行為は毎日3回あるわけであり、その度に、「お名前をおっしゃってください。」「瀬田康司です。」「腕輪をお見せください。」「はい、どうぞ。」「瀬田康司さん。6351。間違いありませんね。」「はい。」「それでは点滴を開始します(あるいは、点滴の液を交換します)。点滴の目的は○●*@です。(あるいは、お薬を飲んでいただきます。)」等々、という会話がなされるのである。煩わしく思わなくもないが、医療事故が起こりうることを考えるならば、患者にも病院にも必要な煩わしさではある。ぼくの治療・看護を担当する責任ある者の一覧は「主治医 横井、担当医 酒井・春山・斉藤・峯川 看護師 仙石」と示されている。ぼくはこれらの人たちに生物的命をすべて預けているわけであるけれども、これらの人たち以外にも複数の看護師などに日夜お世話になっている。これらの可視的・不可視的な医療・看護チームはぼくをコアに置いて見ているのであり、このチームをいったん解体してそれぞれの医師、看護師をコアにするとどうなるか。まるでwebのような錯綜・拡散あるいは集束の構造図が現れて見えてくる。つまり、ぼくをコアにするという主観図からすればいちいちの誰何点検を煩わしいとするけれども、ぼく以外の当事者をコアにするという客観図からすればいちいちの誰何点検こそが医療と看護とを誤りから防ぐ重要な手段なのである。
一時的にではあるが点滴が外れた日の夜、仙石看護師ではない別の看護師が血圧と体温・脈拍を測った折に、「瀬田さん、後で点滴繋ぐわよ。」と言う。「あの、ですね、さっき点滴を外していただいたばかりなのに、もう繋ぐの?」と抗ってみた。「えっ?」と、ぼくの識別票を確認した後、室外に出て行き、すぐ戻ってきた。「ごめんなさい、人を間違えました。瀬田さんの点滴は数日ありません。」とのこと。ぼくの左手首に巻かれた識別票は、この病院における「ぼくがぼくであること」、すなわち医療的アイデンティティを確実に知らしめるものである。ついでのことながら、若い看護師さんは、こうした「初歩的な過ち」を繰り返しながら「過誤」を犯さない法を学習していく。ここはそういう意味の教育・学習の場でもある。
2.
 識別票にある6351という数字はぼくの病室番号である。ぼく以外の入居者はいない。従って、ぼくがここに入院している限り、6351は病室番号を示すだけではなくぼく自身を示すシグナルである。もちろん、このぼくというのは、この病院における医療対象としてのぼくであって、神田川大学教職課程の鬼の瀬田などというのはこの病院におけるぼくを示す情報には入っていない。それではどのような情報なのかと言えば、たとえば、看護師たちの交代打ち合わせの際に、「6351は昨夜11時、暴れ回って点滴を外した。鎮静剤はまったく効かなかった。やむを得ず2時間拘禁。その後安定し再び点滴開始。申し送り事項、粗暴性要注意。」などのように使用されているはずである。
 6351という数字とのはじめての出会いは入院手続きにおいてであった。「瀬田康司さん。1号棟6351があなたの病室となります。」「6階ですか?」「いえ、13階です。」この病院は10階以上の高層の建物が4棟ある。それぞれにどのような病院施設が入っているのかまでは確かめていないが、1号棟といえば、これまで、受付をし、各種の診察を受けたところである。その上で入院施設まであるのだから、かなり規模の大きな施設であることに間違いない。6351がどのような記号の集合なのか、あれこれ推測してみるけれども、本当のところは不明である。
入院手続きを終えた後13階のナースセンターに赴く。「主任看護師の仙石です」と名乗る看護師に導かれて病室へ。入り口ドアにはすでに、「6351 瀬田康司 殿」との名札が入れられていた。もう逃げられない。妙なもので「覚悟」という言葉がふさわしい心境が一気に押し寄せてきた。ドアを開けると、目に入った室内光景は、まさしくビジネスホテルのワン・ルームそのものである。簡単な応接セット、ユニットバス(ただしシャワー)、ベッド、テレビ、専用電話、その他簡単な収納庫など。窓外に広がるのは都市空間。眼前に東京ドーム、左手に新宿方向、右手に池袋方向を確認することができる。手術を待つまでの間は、間違いなく、より快適な空間であると感じさせられた。だが、ベッド・ヘッドの各種医療機器端末装置がここはホテルではないぞと主張している。数日後の手術のあと、それらの端末装置のいずれかがぼくを拘束する筈である。
主任看護師より病院での生活様式についてガイドを受ける。朝8時朝食、昼12時昼食、夜6時夕食、夜9時消灯。テレビは自由視聴、電話は交換を通すことなく発着信可能、PC使用は可能だがインターネットは不可等々。看護師によるガイドの後、入れ替わり立ち替わり、ぼくの医療・看護に当たってくださる方々が「ご挨拶」下さった。事務長、看護師長、担当医師等々。まったく覚えきれない。その後次々とやってくる看護師たちと同一なのか違うのか、それさえもわからない。後に、医療チームに女性医師が一人いることを知る。この先生、小柄で温和な顔つき、優しい声色。「そうよねー、うん、そうそう」という相槌をいただく。これまでぼくにインプットされていた医師像とは大きなギャップがある。この先生をティピカルとして、看護師たち、医師たちとも、ぼくに対する応対が柔和でゆったりとしたリズムである。やはり年齢、難聴、それとぼくの口調がそうしたリズムを生み出しているのだろうか。ぼくの入院生活の第一日から、少なくともぼくの主観のうちにおいて、高齢者の仲間入りを実感することになった次第である。いや、ぼくの主観のうちと言うのは正しい表現ではない。ぼくがぼく自身、ようやく、おれは高齢者なのだと認めた、というのが正鵠を得た言い表しである。
ガイド等が一通り終わったあと主任看護師に導かれて、治療室、給湯室等の案内を受け、ヤレヤレこれでゆっくりと出来るわいと病室に戻ると、ネームプレートに新たな標識が加えられていた。テントウムシの図柄である。「6351 瀬田康司 殿  」という次第。しばしこの図柄の意味するところは不明であったが、その日の消灯後トイレに行こうとベッドから降りた時、はたと思い当たった。「テントウ=転倒」。というのは、ベッド脇のスリッパに両足を乗せ損ね、少々ふらついたからである。主任看護師のガイドに「麻酔から覚めた時が一番事故が多い。まだ足下が定かでないにもかかわらず、自力で事を果たそうとするのは、頑固で、自称自立心が強く、依存することを潔しとしない男性高齢者。転倒して骨を折るという事故が少なくない」旨があった。病院で一番扱いに困るのがこのような人間で、比較的社会的地位が高い人物ほどその傾向が強いのだそうだ。つまり 度が高い。望みもしないのにぼくはその仲間入りを余儀なくされてしまった。自律・自治を教育論のコアにしているぼくであるが、病院に収容された病人は他律・依存こそが大切なのであると、自説を少し柔軟にする必要を覚えた次第である。
3.
 入院当日の午後は、看護師による術前、手術、術後についての概略の説明。全身麻酔による手術とのこと。引き続き、医師により内視鏡を使った患部の画像を見せられ、治療方針について説明を受ける。切開、切除、吸引等々、さまざまな施術がなされるとのこと。生まれて始めて見るモニターに映し出される我が身の深奥。痛々しい。インフォームド・コンセントとはこれほどに「むごいこと」でもあるのだろうか。知りたくもない、見たくもない、蓋を被せたままで治療を受けたいものだとの気が、いずこともなく湧いてきた。今となっては、すべてを医師にゆだねるしかない。いくつかの合併症の危険性についての説明も受ける。これもまた、今更じたばたしても、始まらない。納得いくまでの説明を受けました旨が記載されている手術同意書に署名をする(「治療方法に関する説明書・同意書」)。切開部の縫合についての説明が引き続いた。「血糊」を用いた縫合になる、その「血糊」には、万々一、C型肝炎ウィルス等が混入している場合もある(「100%あり得ないとは断言できない」)、その事故による合併症は当該医療事故ではない旨を承知すること(「血漿分画製剤使用について」)。「私の血ではだめなの?」などと抗ってはみせるけれど、それはほとんど形式的な抵抗であることをぼく自身が承知していることである。続いて麻酔医の訪問を受け、麻酔医療の詳しい説明を受ける。手術時間はおよそ3時間に及ぶとか。当然その間は麻酔がかけられているわけで、あらゆる記憶が消される。麻酔医曰く「眠くなって、目が覚めたら手術が終わっている、ということです」。なるほどその通りだろう。だがそれに引き続き彼が言う、「目が覚めない事故もありえます」。理屈の上では大変納得がいく。そうでしょう。で、ぼくの場合は?「血縁関係で麻酔による事故がかつてありましたか?」と訊ねられる。どうやら麻酔事故の多くが遺伝子レベルで起こっていることがわかってきているらしい。ぼくの知りうる限り血縁関係者では麻酔事故はない旨を応えた。そして、やはり、納得いくまでの説明を受けました旨が記載されている麻酔施術同意書に署名。これでぼくは、矢でも鉄砲でももってかかってこい!という戦闘体制に入ったことになる。
手術前々日は外出許可を貰い、貴婦人トドちゃんに無理を言ってご同道願い、湯島聖堂神田明神ニコライ堂などを散策した。それ以外の時間は、邦訳『アヴェロンの野性児』とイタールの2冊の報告書原典との比較読みを楽しんだ。夜は消灯時間9時を1時間オーバーして就寝し、熟睡の末、午前6時に目覚め、朝食までの2時間、ベッドの上で『論語』を読み進めた。
かくかくしかじか、ゆったりと過ぎていく時を楽しんだ次第である。逃げ出したくなった?入院前は、気の小さいぼくのことだから、逃げ出したいという衝動を抑えるのが大変になるだろうと思っていた。しかし、どうやら、ぼくという「病体」を、客観視し楽しんでいるもう一人のぼくがいるようである。

2006年10月16日午前9時00分、ぼくの人生の結節点。全身麻酔による手術開始時間である。当日は午前5時半に起床を命じられ、ただちに浣腸。生まれて2度目の「屈辱」感を味わう−1度目は小学6年生時、毒キノコを食べたことによる内科治療の際−。多分、だが、「屈辱」だという感性があるうちは、ぼくはまだ「病の渦中にある人」という自覚がないのであろう。この数時間後に、幾つかの管に繋がれた己れの肉体に気付くことになる。その時にこそ、「もうどうにもならない病人なのだ」と思い知らされ、やっと看護師達に「わがまま」を言うことができる病人になることができるはずである。午前7時半、看護師が「今度の注射は少し痛いですよ」と言いながら来室。これは麻酔にかかりやすくする薬だそうで、臀部にぶすりとやられた。ぼくはすでに手術着を着込んでいる。その下は「すっぽんぽん」。「手術室に行くまでに眠ってしまう方もいるのよ」とは、その看護婦さん−やはり看護師では「お気に入り」という気持ちを込めた表現にはならない−。ぼくに関する事実では、ストレッチャーに乗せられ、病棟内を押されてエレベーターに乗りこみ、手術室に入っても尚、頭と眼は冴えわたっていた。キョロキョロと広い手術室内を見渡し、天井の手術灯を食い入って見つめる。ぼくの3メートルほど向こうには女性がストレッチャーの上に横たわっていた。彼女はどのような手術を受けるのだろうか。ぼくのようにはキョロキョロとしていなかった。
・・・手術前の記憶はそこまでである。はじめて意識に伝わってきたのは、水の中で呼びかけられるような「瀬田さーん」という看護師の声。それに対してぼくは、「ハイ」でも「何ですか?」でもなく、「腹へった」と応えたという微かな記憶がある。その記憶はどうやら間違いではなさそうだ。病室に戻された第1声も「腹へった」。続いて「腰が痛い」。手術当日は全日断食を強いられる。全身麻酔というのは全身が仮死状態に陥るわけで、麻酔から覚めても、身体の機能は完全にその働きを戻していない。いくら空腹であっても、この状態の時の摂食は大変危険なのだそうだ。「腸閉塞になりますよ」とくだんの看護婦さんが優しく諭してくれた。それでも腹がへっているのには変わりがない。終日、腹へったを繰り返し、夜遅く、いや、翌日の明け方近く、ついに一口の水にありつけた。いやー、幸せでしたね。
それにしても身体から空間に向けて生えている、いや、身体に繋がれている管の鬱陶しいこと。腰が痛くて耐えられず身体を横に向けるにも気を配らなければならない。落ちる点滴をのんきに見つめている内はいいが点滴液がほぼ空っぽになった時には急に不安になる、「空気が血管に入り込む!」のではないか?と。点滴の落下スピードも看護師によって異なる。かの看護婦さんに訊ねた、「ね、ね、どうして看護師さんによって、点滴の落下スピードが違うの?」「患者さんの体質や腕の位置によって、微妙に落下スピードが変わってくるのよ。瀬田さんは腕を上げていた方が落ちやすいから私は少し遅めに調節しているのよ。」との答え。ある看護師の点滴は「1時間で終わりね」と言ったが20分も経つと液が空になった!!これにはぼくは少々怒りましたね、「早いのは嬉しいけど、恐さを伴うのは勘弁して欲しい。」と。
手術から2日間は流動食。毎食流動食では寝ていても身体が持たないとばかりに、クッキーやセンベイをぱりぱり、チョコの差し入れもあったのでよろこんでいただいた。看護師さんが、おなかこわしますよと忠告下さるが、何、あなたのおなかはこわれません、と口答えして、せっせと間食。とにかく入院生活はおなかが空く。入院中の体調記録表で、満点なのは、食事だけ。「全ていただきました」の文字が入院の日から退院の日まできれいに揃っている。体重が3キロ増加した。
5.
完治しない内の退院である。まだまだ病院通いが続く。それとともに、「新しい病気の発見」がなされ、「新しい治療」も始まった。もうこの年であるからして、完全な健康体に戻ることはあり得ないことは承知している。これまで医者知らず、病院いらずを通してきただけに、これまでとこれからとのあまりに大きな落差に、心がついていかない今ではある。しかし、まさしく玄冬期を生きていかねばならないのだと思う。