ずっと昔の講義日記 「リョウ物語」

リョウ物語

 講義は数多くのドラマと逸話を生み出します。今回はそれにまつわるお話し。

∵起
 教育原理(現:教育基礎)の受講生の一人、かわいいリョウちゃんと一ヶ月ぶりに教職課程事務室で顔を合わせました。その時の会話より-------。

僕「よう、元気?」
リョウちゃん「うん。今日も、今帰りなんよ。」
僕「そりゃ、大変だね。」
リョウちゃん「でしょ。・・・一緒に連れてきたの、見る?」
僕「見る。」

 レポート提出にきていた多くの他の学生は、この二人の会話をどう聞いていたでしょうかねえ。ちなみに二人のすてきな副手さん、リョウちゃんが帰ったあと、
「すごい会話ですね。なんのことか分からないのですが、先生、あれだけで分かってしまうのですか?」
と尋ねてきました。
「ええ、いろいろあった学生ですから。」
 ちょっと意味深な答えを返したのですが、二人の副手さん、そこはできた人たち、にこっと笑ってくれました。でも、いつもの、にこっ、とはちょっと違った、含みにこっ、でしたな。
 それでは、この会話の意味するところを解読することにいたしましょう。え?いらない?そんなこと言わないで。

∵承
 某月某日。教育原理の講義が始まって一ヶ月ほど経っていたと思って下さい。
 300人超もの聴衆が詰まっている講義も一ヶ月も経ってくると、ニューフェースどももすっかり雰囲気に慣れ、私語・居眠り・間食・手紙の交換など、講義をしている立場からすると、大変気に障る状況が生まれてくるのであります。
 ちょっとここらで釘をさしてやれ。悪魔の囁きが僕に聞こえてきたと思って下さい。あまり不機嫌な声ではなかったはずなのですが、私語から始まり、居眠りその他にも「注意」が及びました。この日の感想は、それはもう、例のごとく、
「いや、そんなに神経質にならなくても。多少のところはお目こぼしを。」
という典型的日本的回答や、
「だいたいから教師の講義の仕方がいけないのだ。」
という「してくれないから」症候群の若者的回答。中には今では希少価値とも言える正義派主張、
「先生が講義して下さっているのに、私語等は失礼だ。」(これはもう、典型的日本主義の正義主張)等々の声に満ちあふれておりましたな。
 そんなうじゃうじゃとした日本主義現象の中にあっても、きわめて個性的な学生は必ずいるもので、「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい・・・・・」なんと、「ごめんなさい」を20回書き連ね、「寝ていたのは私です。」と、ご丁寧に似顔絵まで添えていた学生がいるではありませんか。もっとも、似顔絵なんか描かれても、それが女性であること、ソバージュらしきヘヤースタイルの持ち主であることぐらいが分かるだけで、どこで寝ていたのか、とんと分からないのが、大人数教室での教師の悲しさですな。
 感想は「ごめんなさい」連発と似顔絵だけでは終わっていませんでした。その日の講義通信の柱は「考えること」でした。で、彼女の感想は次のように続きます。
『いつからこういった人間になったのかはよく分からないが、私は手を抜いた生き方を知らずと覚えていた。「楽に生きていけるように」と、いつもそのコトから離れてはいられない。しかも、ちょっとしたささいなことに対してそれを行っている。たとえば、どの講義が出席しなくてよいかとか、そういったコト。高校の時は、数学で、公式を突きつけられても疑問を持たず、どうしてこの公式を導き出せたのかなんて、考えもしないで、それを使っていた。さらに、先生が独自で編み出した、問題を、あるいは計算をもっと楽に解ける方法を教えられると、一も二もなく飛びついた。その他、いろいろ、この考えが生活にも反映されているが、それで済んできてしまったため、これでいいのだと思っていたし、今でも実行している。こうした自分を突き詰めて、最近、この考えに対しての真の理由を見つめた。私は「考えること」を回避している。物事に対して、あまりにも受動態で、何でも反発しないで(あっ、全部じゃないかも)受け入れる代わり、あまり何も考えない。現在の社会を見て、とか、教育とは、とか、人間の理性とは(私は哲・科だ)とか、そういったコトを考えるのはめんどくさい。いつだってそうだった。つまり「考えること」を、ずっと手抜きしてきてしまったのだ。実際、「考えること」をしなくても、もっと世の中をうまく、狡猾にわたってしまえたらいいと思うし、たぶん、そうした人がいてもおかしくない。なぜおかしくないのか?おそらく、皆、手を抜いているからだ。(皆が手を抜いて、一人で頑張ると、損した気分になる。そのうえ、手を抜いている奴に限って、何とかうまくやってる。)もちろん大小の差はあるかもしれないけれど。
 数学で、「とにかくコレを使え」と言って、公式を突きつけた先生が、一瞬思い出された。それと、日本史の年表を覚えるための語呂合わせとか、古典の活用の簡単なわけ方とか、いろいろあった。受験のために、それらはものすごく役立つ。役には立つが、だがしかし、何か欠けていないかと、今になって思う。やっと、物事を「考えること」の対象として見れるようになってきた気がする。でもやっぱり手を抜いているケド。少しずつでも、そんなふうに生きていけるよう、自分をそっちへ向けていきたい。』
 感想文は裏面までぎっしり書かれていました。裏面に書かれていたのは、講義で寝てしまうのは、夜コンビニエンスストアでアルバイトをしていることに原因があること、そのバイトでしか「好きな人」とは会えない、と書いてありました。

∵転
 この感想文の主がリョウちゃんなのです。「考える」ことから目をそらした生き方をこれまでしてきたし、そうすることでこれからも生きていくことができる、という主文のあとに加えられている「やっと、物事を『考えること』の対象として見れるようになってきた気がする」という一文が、僕にはたいそう気になりました。気になった、というより、リョウちゃんが「ごめんなさい」・似顔絵という自己主張をしている本質がここにあるのではないか、と読んだわけです。
 どうして彼女が「少しでも、そんな風に生きていけるよう、自分をそっちへ向けていきたい。」と決意を前進させているのか。それは、アルバイトでしか会えない「好きな人」の存在によるのではないか。もちろん、この時点では、いわゆる「片思い」に違いない。それなら、彼女のそんな生活にエールを送ってやろう。
というわけで、彼女の一文に、次のようなコメントを加えておきました。

【一言コメント:(あっ、全部じゃないかも)っていうのがいいな。夜のバイトでしか会えない「好きな人」のためにも、手を抜きながらも、少しずつ「考えること」を押し進めていってくださいね。】

 さて、次週。講義を終えて、例のごとく感想が次々と提出されていきます。コメントにくだんの学生がどう反応したのか、大変気にかかります。提出していく学生の名前をすばやく読みとっていきます。リョウ、の名前がありません。「今日は欠席かなあ。」
 30分以上も経って教室を見渡すと3人の女子学生が残っています。この中にいるのかなあ、と思い、近づいていきました。おりました、おりました。ちゃんと顔も確認いたしました。
 感想文には、次のようなことが書かれておりました。(「本論」部分は除く)
『どうして「夜のバイト」って書いたのですか。この教室にいる350人が、何かやばい仕事(水関係ということ)をしていると、思ってしまったかもしれません。
でも怒っていません。本当です。
 応援してくれる人がいると思うと、はげみになります。バイトで疲れたからだで学校に来るので、授業はつい寝てしまいます。今日も寝てしまいそうになりましたが、必死に、鉛筆で手の甲をつついたりして、起きて、先生の話を聞き漏らすまいと、努力しました。
 それから「好きな人」のことですが、私に、いろいろなことを「考える」ことを与えてくれます。これまで5冊、本を「これ読め」と言って貸してくれました。』
 それ以降の講義のたびに、感想の結びに「好きな人」との関わりについて書いてきています。「タバコ、やめろ、と言われました。禁煙しました。半日だけダケド。」と書いてあったのは、「ごめんなさい」から1カ月ほど後のことでしょうか。「片思いではなくなったな。」と感じさせる一文でした。

∵結<
 こうしてリョウちゃんは、毎講義のたびに、すっと背を伸ばし、私の話に聞き入る姿勢を示し、感想も、講義内容に関わらせて自分史を綴っていきます。自分らしく生きることに悩んだ小・中学時代の母親や教師との葛藤など、リョウちゃんの自分史には、私たち教師が真剣に考えなければならない課題が多く示されています。
『今まで、たとえば、学校の友達とバカ騒ぎしたり、夢中になって本を読んだり、試験前に徹夜したり、その時その時は楽しかったり、苦しかったり、そうしたことはあったけれど、一人になってふと気づくと、心がひどく空虚な状態であった。いろいろな知識や思想や遊びや、自分に取り込めるだけ取り込んで(なぜなら、いろいろなことを知っていた方がかっこいいと正直思っていたから)、けれど頭に残っても、心には何も残らなかった。いつも枯渇している砂漠のように、水がほしいのだけれど、時たま降る大雨ぐらいでは、私を充たしてくれなかった。何にも冷めていて、大切な友だちに対しても、外から見ているような、もちろん態度には出てこないけれど、友だちだからこそ、自分を許せないと、何度も思った。
 その都度、私は学校という場所にすがりつきたい気落ちで登校するのに、学校は、先生は、何も教えてはくれない。それは自分で捜すものなのだと分かっていても、どうしても求めてしまっていた。学校とは、教師とは・・・・・。
 たぶん、川口先生には、ここまで読んで下されば、私がひどく混乱していて、何も答えを出せないでいることに気づいて下さるでしょう。その通りです。』
 この日の感想は、「孤独」ということをテーマに、人は、自然、社会、文化、人間関係などと関わり合いながら、自己を形成し、また他者を理解していく、という内容の講義に対するものでした。リョウちゃんにとって、小・中学時代に味わった「孤独」への援助を学校・教師に求めたが、それに応えてくれるものはなかった、というものです。しかし、彼女は同時に、学校や教師というものは、その本来の役割として、「孤独」に援助の手をさしのべるものでなければならない、ということを気づきはじめているのです。しかし、自分史のなかからそれを見出すことができないといういらだち。
 この日私は、次のようなコメントをつけました。

「『混乱』の整理のためのお手伝いとして、学校が、教師が存在するように、そんな教育観を早く作り上げたい、あなたの、『生きる』ことの真剣な眼差しに応えるために。」

 リョウちゃんのなかにある教育への信頼、期待に応えたいと思い、最終回の講義で、ルイ・アラゴンの教育詩の一節を借りて、私なりに転訳したものを紹介しました。ご承知のように一般に知られているものは「教えるとは希望を語ること、学ぶとは誠実を胸に刻み込むこと」です。しかし私は、講義のなかで寄せられる教育・学習への学生たちの期待の質を捉え返し、「教えるとは真実を語ること、学ぶとは希望を胸に刻むこと」としたのです。

『★ルイ・アラゴン「教育詩」からの転用文について
 一年前の私だったら、何だコレは....と言って、鼻で笑っていたかもしれない。いや、絶対笑っていた。冗談を耳にして起きる笑いではなくて、あざけりの、軽蔑にも似た笑い。「〜とは〜である」という定義づけや、人それぞれの意見・主張・理想・真理、そうしたものを簡単に排除できてしまう人間だったから。このアラゴンの言葉も、例に洩れず、気に止めなかっただろう。気に止まっても、無意識に自分を押し止めただろう。一つのものに、一つの答えを出すこと(経過には、私が最初の頃感想文に書いた「考えること」がある)をこわがっていたし、事実、面倒くさかった。
 私は、この言葉を知らなかった。はじめて聞いた。この言葉を、川口先生の口から聞かせてもらえただけでも、今日一回の授業料が無駄にならなくてよかったと思った。もちろん講義ノート(注:講義通信のタイトル)の、皆の意見や、先生の数々の言葉の分もあるので、おつりが出て来るくらいだ。「教えること」が「真実を語ること」だと、そう言いきれる現実の教師の存在を、たぶん言ってしまうことは何とかできるけれど、本当にそれを実行できる教師の存在を、今なら信じることができる。それは、真実なんて人それぞれだし、自分でそうだって思ってるならまあそうなんだろう、という他人まかせの信用ではなくて(もちろん、自分で「〜は真実だ」と語れること自体、非常に重要だけれど)、だからと言って、一般論を台本通り読むような教師に対しての信用ではなくて、私の持つすべての思いに、ものすごい勢いで投げかけてくる言葉を、私に限らず子ども達の持つすべての思いに、そうした言葉を、それこそ真実を突きつけてくれる教師の存在を、信じれる。あるいは、真実に向かおうとして、まだ低迷はしているけれど、それを真剣に考えている教師の存在を、信じれる。
 そんな自分になれたことが、今はとてもうれしい。川口先生は、私の胸に、希望を刻んでくれました。』

 これが、リョウちゃんの講義最終回の感想だ。ほんのちょっとした「関わり」(赤ペン)が、彼女の意識や意欲に変革をもたらすきっかけになったかと思うと、そのように受けとめてくれた彼女の素直さに感謝しなければならないし、教師として、これからも、学生の生き様をしっかりと応援しきれる存在として、成長していかなければならないと、改めて身を引き締めた次第であります。
 リョウちゃんのすばらしさは、真実を実行している教師の存在を信じる、というところにあることは言うまでもないが、もっともっとすばらしいのは、「真実に向かおうとして、まだ低迷はしているけれど、それを真剣に考えている教師の存在」ということへの信順だ。僕は、どの講義の中でも、「発達可能」とか「教壇で育つ」とか「未来を語る教育」とかを熱っぽく?語るが、その僕の思いに、リョウちゃんのこの一文ほどに応えてくれたものとの出会いは、僕を、ものすごく、「教師をやっていてよかった」と実感させてくれる。
 ありがとう、リョウちゃん。

 と、これで「リョウ物語」は終わるわけでありますが、これでくだんの会話の内容がおわかりいただけましたでしょうか?
 リョウちゃんは、「ものすごい勢い」で、彼女の内面に語りかけ、心を揺さぶってくれた二人(僕と彼)とを出会わせたかったのでしょうね。「見る?」という問いかけは、表現論的には何ともおかしな表現ですが、リョウちゃんの真実の表現だったのでしょう。
 ところで、「見る」対象はというと、リョウちゃんが、感想文の中で、はじめのうちは、「好きな人」、次に「パパ(同姓だから、こう呼んでいる、って書いてあった)」、つぎに「Iさん」と変化しておりましたし、関わり方から推測するに、そんなに若い世代ではない(少なくともアダルト)だと思っていたのですが、なんとなんと、紅顔の美青年、でありました。
 なるほどなるほど、「見る」だけの価値はあるわな。