「いじめ」からの脱出ー私の「生活指導」実践記録

「いじめ」という魔性
 私自身は「いじめっ子」であったし「いじめられっ子」であった。もしかしたら今も「いじめ」の行為者であり被行為者であり周辺者であるのかもしれない。とりあえずは過去の私を紐解いてみる。「いじめっ子」であったというのは、善意・正義・嫌悪・遊技の意識から来る対他関係の当事者であったということである。とりわけ社会参加において何らかのハンディキャップを持つ人たちに対する意識と行動である。行為対象を対等の人間として捉えるところから来る意識と行動ではなく、彼らに対する自らの優越性を誇示するところから来る意識と行動である。一方の「いじめられっ子」というのは、母子家庭、貧困、虚弱などのハンディキャップから来る各種いじめと、本稿の主題である無意識性のいじめとの対象となっていた。私にとって「いじめ」とは、社会的矛盾がもたらすものと人間関係の齟齬がもたらすものとの二重構造であるということができるだろう。さらに加えて言えば、虚弱や低学力などのハンディキャップを克服していくにつれて私自身が他者のハンディキャップを攻撃するようになったということである。「いじめられっ子はいじめっ子に転化する」と私たち専門家の間では言い習わしているが、少なくともそれは、私の「いじめ」史のある部分においては当てはまることなのである。これらはある種のトラウマとなっており、優越感とは逆の劣等感にさいなまれる人生を送る羽目になる。もちろん今日に至るも、この劣等感が拭い去られることはない。「いじめられっ子」であることは、その瞬間瞬間は非常に苦しいことであるのはいうまでもないが、「いじめっ子」であることは終生自らのうちに抱え込まざるを得ない大きな人間性喪失の理であることを、私は身を以て語ることができる。
 「いじめ」という事実をめぐって、多くは、その行為者と被行為者、およびその周辺にいる者との間の意識の落差の大きいことに、「人間不可解なり」を覚えさせられることが少なくない。もちろん、犯意をもって「いじめ」をする行為者は明らかに確信犯である。差別・排除の行為がこれらに類する。犯意はなくとも善意・正義・嫌悪・遊技の意識が強く働いている。本稿で対象とする「いじめ」とは、こうした差別・排除とは直接に繋がらない、日常的な人間関係における齟齬に限定している。もちろん差別・排除という社会構造とまったく無縁であると断言するつもりはないが、行為者及び周辺者の意識構造において無意識化された「いじめ」に焦点を当て、事例考察をしていきたい。この、無意識の持つ結果犯罪性こそ、じつに魔性なのである。

ある「いじめ」の相談
 199*年11月末、K学院に籍を置く大学院生・江藤志津の訪問を受けた。相談の要点は、都内某区の公立中学校に通う1年生の弟・和夫が、学級内で複数の同級生から暴力的いじめを受けているが、どうしたらそのいじめを無くすことができるか、ということであった。
 私は志津に、いじめを受ける可能性としてのさまざまなタイプ――たとえば、性格上のことから、身体的特徴のことから、家庭環境上のことから、遊びのターゲットとして、集団のルールづくりの方法としてなど――について説明し、また、いじめが起こる集団構造の特徴について説明をした。
 志津の説明によると、「越境生いじめ」ではないか、という。というのは、和夫が通う藤国中学校は、地元では、評判の高い、「いい学校、落ちついた学校」であり、他の公立中学校と比較して、越境して入学する子どもが多いとのこと。和夫もまたその一人である。そして、事実、クラスの中の越境生がいじめられ、登校拒否状態になっている、ということであった。
 いじめのリーダー役を務めているのが、これまた越境生。「越境組が越境生をいじめる」という構図が目に浮かぶ。越境生が学級内に自分の地位を築いていく。志津の説明によって受けた初発の感想である。そしてこれもまた、よくあるいじめの姿である。が、事実はどうであるかは不明である。
 越境は、和夫自身が決めたことだ。もともとの校区の学校は横川中学校であるが、1980年代に全国で吹き荒れた中学校の校内暴力と無縁でなく、横川中学校も評判の、荒れた学校であるという。和夫が越境を決意したのは、手続きにはぎりぎりの時期であった。小学校時代からの遊び仲間が多く通う横中にする気持ちも強かったが、荒れた中学校に通って母親に心配をかけたくないという「優しさ」もあり、後者を選んだと志津は説明した。

私自身が和夫にどう関わるか
 「いじめ」の現場に直接いるわけでもない私にとって、志津の相談事は「解決」するにはかなり困難なことを予想しなければならない。学校側と話し合い解決の方策を依頼するにしても私には当事者能力を持たない。かなり遠回りになるし、本来なら「いじめ」そのものは行為者の責任として問われなければならないのだが、私が江藤家に助言できることとすれば、江藤家自身がいじめを「解決」する方策を提供することである。筋道で言えば、江藤家が「いじめ」の理不尽さを学校なり「いじめ」の行為者及びその家族に申し立てをすることによって「解決」の途を探る。そのプロセスについて、私がアドバイスをする、というのが方策を提供するということだ。だが、それは言うほどに楽ではない。
 「いじめ」に向かい合う勇気を培う中で、一人の若者として「今」を行き「明日」を展望する逞しさ、いわゆる自立の力を育てること、それが私に科せられた精一杯の任務であると認識した。ここには「カウンセラー」という概念は入りこむことはない、私自身が一人の大人として、教育者として、悩み苦しんでいる若者とその家族に寄り添っていく、一緒になって生きる。その結果「いじめ」そのものを跳ね返す逞しさを可能な限り和夫に培うこと、それが叶わなければ、少なくとも、「いじめ」を抱え込みながら、苦しみながらも、「もう一人の自分」を自己内に形成すること、すなわち「いじめ」に負けないで生き続けたいと願う自分像の形成に微力を提供すること、それが志津の話を聞きながら内心で考えていたことであり、また彼女が退出した時に決意したことであった。
 和夫の「優しさ」が気に掛かる。志津には「優しい子なのですね。登校拒否の子やいじめられっ子には、優しい、と言われている子が多いのですよ。」と語ったが、ここで言う「優しさ」とは人間性の本質である「優しさ」とは少し違う。自己を持たず、相手に擦り寄っていく、相手の意をおもんばかり、相手の意のままに生きようとする、相手から見て「優しい」ということである。登校拒否は、多くは、その「優しさ」に対する自己矛盾が強くなった時に現れるが、いじめられっ子にはその矛盾が自覚されていないことが多い。「自立」なき「優しさ」は人間性の喪失に繋がりかねない。
 和夫の「優しさ」はどこから来るのだろう。
 小学校1年生の時に父母が離婚したからか?子どもの頃からの遊び方から来たのか?たとえば、姉が遊び相手の主体だったとしたら、随分と差のある歳の差の遊びでは姉の後について歩く喜びだけとなる。それとも、同じ年齢の友達の間での遊びに自分の技を持たないでいたとしたら、やはり、ついて歩くだけになる。
 いずれにしても、和夫の生育史を追わなければ、その「優しさ」は解決できない。
 この日分かったことは、母親と一緒に風呂に入り、母親と一緒の布団で寝ている、ということだった。後に母親から、姉に果たせなかった母親としての関わりを悔いて、和夫には精一杯の愛情を、形として注ぎたかった、と聞かされた。
 「典型的な母子一体化ですね。それと、お姉さんがもう一人の母親役をやっているような気がします。とりあえずは、いじめを跳ね返す力を生み出すためには、和夫君が自分の意志を持って自分の人生を見つめること、自立する必要があると思います。おかあさんとの一体を止めさせるようにしてください。」

無気力との出会い
 「とにかくお宅にお伺いして、和夫君ともお母様ともお会いし、お話を伺いましょう。」
 その約束の日が199*年12月6日。日本蕎麦屋「名取」を訪問した。「名取」は母親の貴子が経営する店で、自宅はそこから歩いて10分ほど離れたところにある。和夫は、学校から帰宅後母親が店を閉めるまで、店の2階で時を過ごす。小学校時代の同級生が遊びに来るのも、ほとんどここである。「名取」は、表通りから少し入ったところにある。パチンコ店、バー、飲食店などが並んでおり、土地の香りがしない、人の息づかいが聞こえてこない、そんな感じの生活台だ。
 がっしりとした体つきというよりは、やや小太り、といった方が適切だろう。私とほぼ同じ体格、背丈の少年が、私を無表情に迎えてくれた。「こんにちは。」と私が声を掛けた時、母親が「和、ご挨拶は?」と合いの手を入れた。ぼそぼそとした声で、和夫が「こんにちは。」と返してくる。和夫の母親に対する「優しさ」が私の前で表出された最初である。その一方で、初対面の私を警戒している心が、ひしひしと伝わってきた。「いじめられているんだって?」これが最初に切り出した言葉だった。
 この日は、いじめの事実を確かめること、和夫がそれをどう受け止め、彼なりの解決への願い、見通しなどをもっているのかを確かめることを目的とした。
 話し手はほとんど志津と貴子。和夫は自分から語ろうとしない。私が尋ねると、志津あるいは貴子が答え、和夫がそれを確認または訂正する。そういう進み方だった。
 訪問を終えた後は、駅までの数分、志津に、分析と課題を語るのがその後のならいとなったが、第1回の訪問の際の分析と課題について、「姉が姉であること、それに和夫君が家庭の中で自分で責任を持つ場を作ること。」と述べた。これは和夫の「自立」課題を示唆したものである。「いじめについては、学校と何とか連絡を取りあえる方向を考え、それで解決を目指しましょう。」と語った。姉や母の不安に応えなければ、家族から見れば、「自立」課題の提示など、まさしく余計なお世話なのである。もちろん、江藤家に対して、学校でのいじめの問題は学校でしか解決がつかない、ということを示唆したものでもある。
 志津や貴子は、私に包み隠すことなく、家庭内の事情を語ってくれたし、また和夫の状況についてもそうだった。これまで多くの相談事を受けてきたが、ふり返ってみると、隠されていることが多い。そしてその隠されていることがネックとなって「解決」の道が見えない、あるいは見誤ってしまうということがほとんどだった。それから考えると、志津や貴子の私への姿勢は「カウンセラー」としてじつにありがたいものであったし、それだけ彼女たちが必死であったということであろう。第1回の訪問の別れ際、志津が「和夫が幻聴がすると言っているのですが、それは、いじめと関係があるのでしょうか?」と問うてきた。人が「死ね」と言っているように思う、というのである。少し聞き込んでみると、その幻聴のきっかけは小学校の時にあり、中学に入ってリアルになっているということであった。「今の段階では何とも言えませんが、一度、精神科で診察していただいたらどうでしょう」と応えた。さっそく診察を受けたとの報告を第1回訪問から間もない後日に受けた。「強度のストレスから来ている」との診断とのこと。小学校の時から、和夫は、何らかのストレスを抱え込んできているということである。その根本を探るのは、素人の私がすることではないが、それでも生育史を深くとらえなおすという課題は残されたことになる。それと共に、幻聴は、その後の彼の精神状況をはかるのに、重要な意味を持つようになる。

信頼関係を築
 江藤家への訪問は毎週月曜日夜7時と決めた。その他の曜日は私あるいは江藤家の都合がつかなかったからである。6時に仕事を終えるとそのまま江藤家を訪問する。当然食事を和夫と共にしながらの「カウンセリング」となる。食事に対する向かい方の中に、和夫の「育ち」を見いだすことも、私にとっては彼を「知る」重要な情報となる。が、訪問初期は、それらの情報はあくまでも私の内に止めておくものであり、「自立」課題として江藤家に提示されることはない。
 12月13日の第2回訪問の時、貴子に招ぜられて部屋に入ると、和夫は無言のままパソコン・ゲームに興じていた。貴子が和夫に声を掛けようとするのを制し、そのまま和夫の後ろ姿を見続けた。30分ほどしてゲームは終了した。彼の横に立ち、「こんにちは、和君。今度、ぼくにゲーム教えてよ。」と声を掛ける。「いいよ。」低いがはっきりとした声が返ってきた。それから彼は、しばし、パソコンのゲームについて講釈をしてくれた。どうやら、江藤家への出入りのテストは、合格したようだった。それが証拠に、この回の会話は、前回が私対貴子・志津がメインであったのに対し、私が問うと和夫が応える、それに対して志津と貴子が「追い打ち」をかける、事実をさらに詳しく説明する、という構造になった。和夫と私との間の会話はおよそ次のように流れた。
私「いじめられていて、いやじゃないの?」
和「いやだよ。」
私「いやだったら、やり返してやりなよ。体格がいいんだから、できるだろ?」
和「何かしようとしたらストレスがたまるから、いやだ。」
私「だって、このままじゃ、いじめはなくならないだろう?」
和「時が過ぎるのを待つ。」
私「もうすぐ冬休みだから、それが明けたらいじめはなくなると思っているのかな?」
和「そう。」
私「でも、やっぱりいじめが続いたら?」
和「2年生になって、クラス替えになるのを待つ。」
 問題解決に向けた和夫自身の努力姿勢はいっこうに見られなかったが、多くを語ってくれたことは、向後の私たちの関係性を保つ意味で、重要な役割を果たしてくれた。
 後日――年が明けてのこと、和夫が私を手招きをして、自分の学習机の方へと案内してくれた。引き出しを開けて「これ、見て。」という。びっしり詰まっていたものは、消化器の安全ピン、風呂屋やロッカーの鍵。
「どうしたの、これ?」
「ストレスがたまってどうしようもない時、消化器が噴射しないようにそっとピンを抜いたり、人目を盗んで鍵を抜いてやるんだ。」
「それでストレスは晴れるの?」
「そう。ドキドキ感がね、ストレスを忘れさせてくれるのかなぁ。」
 何をするのもストレスが溜まるから、いやだ、という和夫も、ドキドキ感を味わうことができるならばストレスを忘れることができる。彼にとってはそれはいじめに耐え抜くための方法でもあったわけである。その時に私に見せた晴れ晴れとした表情を忘れることができない。じつにいい顔の少年であった。
 だが、それらの行為は軽微とはいえ犯罪である。消化器のピンの抜き取りは和夫たちの身辺でゲーム化しているという。いざというときに消化器が役に立たなければ初期災害を防ぐことができず、大惨事に繋がりかねない。和夫が住むマンションの棟をはじめ近在の団地ではパトロールをしてピン抜き取りを未然に防ごうとしていた。だが、少年たちのドキドキ感の誘惑は、パトロールの目を盗んで行われる。ロッカーの鍵等は抜き取られれば使用不能となる。鍵が抜き取られて使用できず、荷物を収納できない様を思い浮かべて憂さを晴らす。これもまた都会の少年たちのゲームの対象となっている。こちらは消化器のような危険性はないが、間違いなく器物破損の犯罪行為ではある。
 彼とてそれは分かっているのだろう、いや、分かり始めたと言った方が正確かもしれない。だからこそ私に見せたのだ。ストレスの解消を別のものに代えるものを見つけたい、そういう彼の願いをかいま見たような気がした。「和君、分かった。」ようようのこと、私はそう答えた。代替行為について思いつかない苦しさを抱え込んだ返事だった。和夫が「ロッカーの鍵、返してきておくよ。」と言ってくれたことに大きく救われた思いをした。「返しにいってもたぶん鍵は付け替えられている。だから返しに行かなくていい。でも、もうしないよね?」「うん、もうしない。」

いじめの構図
 いじめは典型的な暴力によるもので、とくに理科の授業中に現れる。理科の授業は班別学習。班員の組織は出席番号順である。暴力をふるう赤堀、石津、太田が同じ班にいる。いじめの事実については、事ある毎に確かめていたが、貴子や志津の語るいじめと和夫の語るそれとの間には、期日などにおいて、食い違いがあった。そのこと自体、和夫が、自分からいじめられていることを語ることがなく、母と姉に問いつめられてようよう語る、それを志津と貴子が再構成する、そしてそれを私に伝える、という関係から来ているのだ。和夫の口から、事細かに聞き出すことができるようになるには、初回訪問から約2ヶ月経った頃である。信頼関係が生まれたからと言って湧き出るように事実が語られるのではない。信頼関係がほんものかどうなのか、探り探り、和夫は私に対して接触を深めているわけである。
 赤堀は越境組の一人。入学当初からあれこれと人にちょっかいを出して、小さな騒ぎを起こしている。その赤堀がいじめのリーダーとして頭角を現したのは1学期半ばのことである。
 6月初旬、やはり越境組の一人である佐々木が和夫に暴力を振るった。きっかけは何であったのかはわからないという。この時、佐々木が殴ったのをきっかけに、幾人かの男子が和夫を殴ったり、暴言を浴びせかけたりした。おそらくこの佐々木の行為は、日本社会における古くからある「仲間入り」の儀式(イニシエーション)の一種であったと思われる。多くは「度胸試し」の形で行われ続けてきたそれは、80年代の学校の暴力化と共に、リーダーと目される者による指示によって暴力的なイニシエーションが行われるようになった。佐々木の場合には誰に指示されるのでもなく自らが進んで「暴力」イニシエーションを行ったことが特徴的であり、それが彼の目算違いともなって事態は展開する。要は、佐々木は新しい学級に溶け込むために暴力いじめという行為に出た、その対象を和夫とした、他の同調者はそれを「遊び」と認識し参加した。
 自らが演じるイニシエーションが他に受け入れられるとは限らない。むしろそれは「仲間」というルールからはみ出る行為であり、「仲間」のリーダーを任じようとする者からすれば面白かろうはずはない。佐々木が和夫に暴力を振るい、何人かがその輪に加わっている光景を見ていた赤堀は、「おい、佐々木をいじめようぜ。」と、和夫をはじめ、石津、太田などに呼びかけた。呼びかけを拒否した和夫を除く者の手で、佐々木いじめがはじまった。佐々木はそのいじめが長期にわたり、陰湿さが加わったため、登校拒否に陥る。佐々木の登校拒否は3学期にいたるまで続く。歪んだ形の仲間づくりによりはじき出された結果の登校拒否という本質を知ることのない教師たちは、佐々木の登校拒否を深刻な教育課題だと受け止めつつも、本質に迫りうる具体的な実践を試みるわけではなく、「佐々木が来たら、あたたかく迎えてやってくれ」という声かけ程度で終わっている。それどころか、教師たちは子どもたちの人間関係づくりのゆがみをさらに強めるような言動を多くするようになる。「いじめられる弱さを持つからいじめられるのだ。」という恐ろしく俗人的な、つまりは教育のプロフェッショナルとは縁のない認識と行動によって子どもたちに向かう教師たちが学校を支配し始めれば、間違いなく学校は、その実質を「力のある」子どもたちによって支配されることになる。いじめや差別などが子どもの間で横行し、その一方教師や親たちに対しては見事なまでに隠蔽される。コップの中の烈しい嵐に見舞われると、その渦中の子どもは出口を見いだすことができなくなる。いじめによる自殺事件はこうして起こるが、自殺にいたらないまでも人間性喪失――無気力、諦観など――に多くが陥っている。和夫はすでに後者の直中にいたし、自殺に行き着かないという保障を誰がすることができるだろうか。
 1学期半ばに突然見舞われた暴力は、幸いなことに、その後現れることはなかった。しかし、夏休みが開け9月の半ば、トイレで掃除をしていた和夫に対して、赤堀、石塚、太田などの班員が、いきなり飛び蹴りをし、床に倒れた和夫に殴る、蹴るの暴行を振るった。和夫は抵抗をすることができず、頭を抱えてうずくまって「時が過ぎるのを待」った。それ以降、和夫に対する暴力いじめ、暴言などが、「教師の指導力のない授業」や「班学習で教師の目が届かない授業」「休み時間」「掃除の時間」などで、繰り広げられることとなる。もはやこれは、「イニシエーション」行為を越え、暴力いじめそのものを遊びとするものに転じていると理解されなければならない。教師による初期指導がなされなかった当然の結果でもある。
 9月からの暴力いじめで、当然のことながら、身体にあざや傷が生じている。一緒に風呂に入っている貴子に気づかれないはずはないのだが、貴子は、あざや傷は和夫が入っているバスケットクラブの活動のせいだという和夫の言葉を信じ、深く追求することはなかった。貴子に、それがいじめのせいであることが知れるようになったのは、11月末のこと。「名取」の雇用人の一人に和夫と同級生(女子)の母親がいた。家庭の事情で転居と転校が決まったその同級生は、今だから言えるけど、と泣きながら荒れに荒れたクラスの様子と母親に語った。その話の中に和夫に対する陰湿かつ執拗な暴力が加えられていることが入っていた。同級生の母親が貴子にその事実を語り、知るところとなったわけである。志津と貴子は、当然のことながら仰天し和夫を追求する。和夫はようようのこと、いじめられている事実を認めた。だが、学校に訴えることについてはかたくなに拒否した。彼をはじめ、子どもたちは、教師の指導力いや学校の教育力そのものに対して、きわめて強い不信感を抱いていた。教師に知られれば暴力はさらに烈しくなり、生きていくことすら辛くなる。それが和夫の母と姉に対する回答であった。

学校とのつながりを求めて そして、絶望
 12月20日の面談の帰り道、私は二つの道を志津に示した。それぞれの道は迫り方こそ違え、和夫に対するいじめの問題を教育の課題として学校側が意識をし、取り組むしか他にないとの私の判断である。
 一つは和夫の語る学校の様子――先に述べたようなこと――の事実をきちんと知らなければならない、ということである。和夫を疑うようなことではあるが、本当に授業が荒れているのか、本当に教師たちが暴言を子どもたちに向かって吐いているのか、本当に長期登校拒否生徒がいて学校ぐるみでそれに取り組んでいるのか、取り組んでいるとしたら和夫の言うようなただの声かけで終わっているか、などである。物事には因果関係がある。その因果関係のとらえ方に誤りがあると、因果関係を変更するにあたっても誤りを生じてしまう。ことは人権に関わる重要な問題だからきちんと知っておきたい、と志津に語った。志津もそれに同意した。あと一つは、それを待ち、結果次第によって担任に直接和夫に対する暴力いじめがあることを訴え、いじめ解消の取り組みをしてほしい旨を告げることである。もちろん、いずれも、和夫には内密の行為である。せっかく築き上げつつある私と和夫との信頼関係が崩れてしまっては、たとえいじめがなくならなくとも「自立」への道を歩ませることがまったく不可能になってしまうからである。ただ、冬休みが目前に迫っていることにあわせて私が東海地方の大学での集中講義が数日後に待っていることから、早急な行動が求められることであった。
 自宅に帰ったその夜、妻に事細かに事情を話し、協力を求めた。妻は江藤家が居住し和夫が通学する近隣区に職場を持っている。職場があるだけではなく児童文化運動や図書館関係の運動で人脈も持っている。その中につてを求めた。同時に私自身が関わる教育研究運動の中にもつてを求めた。妻の知人の紹介する某氏と私の知人の紹介する某氏とが氏名が一致した。某氏は和夫の通う学校の教師である。さっそく連絡を入れたが「担当する学年のことで精一杯。しかも他の担任学級のことに口を挟むことはできない。このことで事情を察してほしい。」と協力はおろか情報提供さえ拒否された。教師自身もまた「コップの中の嵐」に巻き込まれているわけである。
 志津には学内に協力者を求めることは不可能なので直接担任に話をするしか方法がないことを伝えた。出張先での仕事の初日の12月24日、志津は担任に面会を求め、和夫が長期にわたり暴力を受け続けていること、身体にあざや傷がたえないこと、和夫から笑顔が消えていること、このことについてカウンセラーに相談をしながら家族としてはことに当たっていること、家族及びカウンセラーはいかような協力も惜しまないので問題解決の道をはかってほしい、と訴えた。仕事を終えて疲れた身体をベッドに横たえている私にかかってきた志津からの電話は、話は分かった、だがカウンセラーと協力してやる必要はない、もちろん面談も断る、という内容だった。担任が何を考えどうするつもりなのか、それを知り、人格形成や発達課題を専門家として指導参考資料として提供するつもりでいた私、そして担任から伝えられる学校での和夫の様子や学校の考える指導課題を知ることによって家庭における和夫への関わり方を得ようとしていた私や貴子・志津にとっては、いっさいの頼みの綱が切れてしまったことになる。絶望的な気分で199*年の暮れを過ごすことになる。まさに、和夫の言うごとく、「時が過ぎるのを待つ」しかない。和夫の心内では、冬休みが明けたらいじめがなくなっていることを期待するしかない、それが駄目なら小学校の時の友人が多くいる学校に転校をする、ことを決めていたようである。

授業が怖い! 3学期がはじまった。
 和夫の期待は無惨にも外れた。担任にいじめの事実を話してあるから、何らかの手を打ってくれるのではないかという私と志津・貴子の期待も外れてしまった。それだけではない、和夫から仰天するような話が語られた。何人かの教師が「自分だったらこんな学校に越境しないね」「越境生はもともとの学校に転校した方がいい。」と公言しているという。これはずいぶんと長く言い続けているようで、和夫がいつものようにトイレで暴力を受けているときに、側を通りかかった生徒指導主任がそう吐き捨てて、通りすぎていったという。佐々木に対する暴力、そしてそれによる登校拒否のことを受けての教師たちの言葉であり、暴力の渦中にある被害者の和夫に向けての言葉である。このような話が新学期そうそう和夫の口から語り出されたのは、和夫にとってもはや腹に据えかねるものがあったからであろう。彼の顔を見ると、目の上に大きな絆創膏が貼られている。「どうしたの?」と尋ねると、別の学級をふと覗き込んだら、いきなりチョークが飛んできてあたったという。チョークで怪我をするとは考えられないことであるが、その言葉をそのまま信じる振りをした。だが、貴子や志津は、絆創膏を貼らなければならない傷が生じるような事態が学校で続いている限り、いじめがさらにエスカレートするのではないかとの恐怖感を強めていた。
 この日和夫が持ち帰った学校の書類の中に、「学年委員会便り」があった。それは学級委員を務める生徒たちの手によって作成されたものだ。各学級員がそれぞれの学級の様子を書き、2年生に向けての準備のための心構え、決意が書かれている。全5学級のうち3学級までは自分のクラスの自慢を書いていた。だが、和夫の所属する1組については、次のようなことが書かれていたのである。
「授業中の私語、勝手な立ち歩き、ものを投げるなどの授業妨害、暴力などがあります。云々。」 
 私が求めに求めたもの、すなわち和夫の言葉の裏付けをはっきりここに見ることができる。和夫の「被害妄想」なのではなく、事実なのである。しかも生徒の手によって書かれ学年全生徒全保護者に知れ渡る形となって知ることができた事実である。このことが教育実践としてどのように資されるか、私には不明であったし、もちろん江藤家にとっても不明であった。ただ、和夫にとっては3学期に向かう姿勢にはプラスに向かうことはなかった。というのも、3学期から技術科の授業が入る。ノコギリ等の道具を使っての作業が待っている。技術科の担当教師に対する和夫評は「なめられている先生」である。つまりその指導力に疑いを持っているから、道具がいじめの武器にされるではないかとの恐怖感がある。いじめをする奴は何をするか分からない、と和夫は言う。
 問題の解決を急がなければならない。和夫は冬休み中、横中に転校したいと言っていたという。横中にいる友だちからの年賀状に、「横中に来いよ。」と書いてあったことも、彼を刺激したのだろう。ただ従前の彼の姿勢から見れば、これは一つの前進としてみることができる。何をするにもストレスが溜まるからいやだ、時が過ぎるのを待つ、ということから、いじめられている事態からの逃避を願い始めたわけであるから。
 しかし、運悪く、横中の友だちが、ばったりと遊びに来なくなった。そのことが大きな引き金となり、貴子はパニック状態に落ちいった。
 「横中の先生が、うちの子と遊んではいけない、と言ったらしいのですよ。うちの子は何もしていないのに、どうしてなのですか。横中の友だちが和夫の救いなのに、それまで取りあげられたら、和夫はどうしたらいいのですか。」
 事情は次のようであった。
 和夫の遊び仲間の一人に、横中から転校したのに転校先になじめず、横中の校門のところまで来る生徒がいた。問題行動を重ねているとの評判のある生徒で、横中でも扱いに困っていたらしい。また、それと同時期に、いじめられっ子の和夫が横中に転校するらしいとのうわさが、横中に伝わった。それを受けて、横中の生徒指導主任は、まず、問題の生徒とは遊ばないようにと、その生徒の遊び仲間を指導した。さらに、和夫の転校意志は本当のことかを、藤中の生徒指導主任に尋ねた。藤中の生徒指導主任がそれが事実かどうかを、当の本人にではなく、周辺の生徒に尋ねる。うわさがうわさを呼び、事実が歪曲され、拡大解釈され、和夫の遊び友だちをして「一緒に遊んではいけないと、先生に言われたから遊べない。」と言わしめる事態にいたったわけである。指導の方針さえつかめない無能な教師集団の姿をここに見ることができるわけである。怒りに震える思いを感じずにはおられなかった。
 「一緒に遊んではいけないと、先生に言われたから遊べない。」という言葉が何を意味しているか。それは和夫の横中への転校は決して歓迎されていないということになる。いじめから逃れるための方策の一つとして模索しつつあった江藤家にとっては、逃げ場がなくなったということである。
 13歳の少年にはあまりにもむごい事実である。時を待ったが解決されない、場を変えようと思ったがそれは認められない。どうすればいいのか。着実に彼の煩悶は彼の身体に変化をもたらし始めていた。幻聴に加え耳鳴りがはじまる、風邪によく似た症状が続く。私が訪問する日などは、事前に起きているが、それ以外はベッドの中にいる。休日は自室に閉じこもったままである。登校時には腹痛がする。彼の住むマンションは10階である。志津の報告では、窓から登校の様子を見ていると、マンションを出てすぐの信号で立ち止まり数回の信号が変わってやっと歩き始める。わずか5分の駅までの道のりを30分かける毎日が続くようになった。完全に心身が社会との交わりを拒否しつつある姿である。暴力の方もエスカレートしており、怪我をして帰ってくる日が増えてきた。怖いという技術の時間と理科の時間だけを授業拒否していたが、1月の中旬には、とうとうほぼ全日不登校の状態に陥った。ただ、私との対話は、欠かすことなく迎えてくれていた。

学校との共同戦線を探る 息子は、ぼく、生きている価値があるのかなあ、とつぶやく。母親は、おかあさんと一緒に死のう、と息子に迫る。姉の志津が母親の思い詰めた行為をようようのことで制する。私の前でも同じような光景がなされた。このような現場に居合わせると、私自身の無力さを感じるばかりだ。このまま母子心中を待てばいいのか、それとも、耐えに耐えて、「時間が過ぎるのを待」てばいいのか。いずれにしても後に何も残らないのは事実だ。やはり、転機を作らなければならないのだろう。たとえそれが強引な手法であろうとも。
 1月の第3回の訪問日。怪我をして帰ってきたので小児科に行ってきたという。私は診断書をもらっておくように、貴子に命じた。診断書がこれからの「戦い」の武器になる。貴子に説明した。
「これはもう、いじめではなく、暴力事件といってもよい。担任もしくは校長に事情を話し、診断書を突きつけ、教育委員会提訴も考えている旨を伝えた方がいいかもしれない。人権擁護委員会への提訴も考えていることも伝えた方がいいだろう。ただ、それは、学校側と決定的な対決となり、形式は解決するにしてもしこりが残るし、学校側がいじめ解決のための力量をつけることにはならず、第2第3の和夫君を生み出しかねない。従って、その前に、和夫君の口から担任に対して、いじめを受けていること、そしていじめを排除するための努力をしてもらいたいことを伝え、解決の糸口を探りたい。担任が相手にしないようなら、先に言ったことを実行する。学校でこのことを訴えれば当然他の者に知られるところとなり、いじめのターゲットから逃れることは困難となる。だから、担任を自宅に呼び、和夫君の口から訴えるようにしたい。」
 私の江藤家での会話はすべて和夫に筒抜けである。あらゆる情報を彼の耳に入れ、彼の判断・行為の資料となるようにとの配慮である。和夫の問題について和夫の知らないところで何らかのことがなされる、これほど当事者を疎外するものはないとの、私の人間理解からである。言葉を換えれば、和夫には自身のことがらについて判断し、行動する力があるということを彼に暗に伝えていたわけである。当然この日の、私と貴子・志津との会話を、和夫は側で聞いている。オレはいやだ、絶対いやだ、と言い張る和夫を、三人で説得にかかった。和君、ぼくも命かけてる、君も命かけようよ。「駄目だったら…」と出かかる言葉を飲み込んで、懸命に語りかけた。
「分かった。」
 1月下旬のある日、いつもの席で、担任の来訪を心待ちにした。
 担任には、この日、私がいることは知らせていない。ただ、和夫が先生にお話ししたいことがあるというので、ぜひお出で願いたい、と伝えてあるだけだ。ただ、担任は昨年暮れの志津からの申し出のことを意識に上らせているだろうことは、想像に難くない。その時のことから考えてみても、予め私が同席すると伝えていたとすれば、担任は来訪を拒否することだろう。案の定、来訪直後、私が同席することを知った担任は、話が違うと言い、別室にて和夫から話を聞く、と貴子に告げた。だが、担任を迎えに出た和夫の声がドア越しに聞こえてくる。「カウンセリングの先生のいるところで話を聞いてほしいのです。ぜひお願いします。」事前の打ち合わせにはないこのセリフは、かつて聞いたことのない程に張りのある声であった。自らの意志で、自らの言葉で、和夫は担任に願い出たのだ。気負いに負けた形で、担任は、和夫の後から私が待ち受ける部屋に入ってくる。私と担任とが名刺を交換しあいながら簡単な挨拶を交わして後、予め示し合わせておいたとおり、和夫は、暴力いじめを受け続けていること、そのために怪我をし、医者にかったことを語り、診断書を差し出した。担任の顔が一瞬厳しい表情に変わった。診断書を開きながら、この間のいじめの事実の確認を取り始める。担任は、「それで君がどうしたいのか、それが出されるのを、先生は待っていた。」と言う。いじめられている当事者からの申し出がない限り教師としては手を出すことができなかった、もっと強い人間になってほしい、というのが担任の言い分であった。強くなろうとも、それの上を行くいじめがなされている、という事実認識は不十分であることを感じたが、私はじっと黙ったまま、その後の推移を見守ることにした。
 和夫から担任に願い出たこと。この内容までは事前には打ち合わせてはいない。診断書を添えて話を聞いてほしいと言えばきっと担任は聞く耳を持つだろう、と彼に伝えておいただけだし、志津と貴子にもその旨を語り、和夫に任せようと言い聞かせてあった。
1. 授業中のいじめが起こらないために、席替えをしてほしい。
2. 2年生に上がる時には、いじめっ子たちと同じクラスにならないよう、クラス分けに配慮をしてもらいたい。
3. 自分が担任に訴えをしたことを、他の誰にも話さないでほしい。
担任からの返事。
1. 自分が担当する授業や学級会では席替えを実行する。
2. 担当以外には、その教科の先生に事実を語り、配慮を願う。
3. クラス替えについては確約はできないが、配慮を学校側に求める。
4. いじめがあった時には、必ず報告してほしい。
5. 休み時間など、いじめが起こりそうな時や場所については、心して見回りをする。
 雑談の中で担任は、「子どもの荒れ」が年々ひどくなってきており、指導を越えてしまった現状にあることは認識していた、佐々木の登校拒否以降、学校としても全員一致で取り組みをしてきている、その効果として、佐々木は3学期になって登校をし始めている、などを語った。精一杯やっているので学校を信頼してほしい、ということが彼の言い分であった。「とにかく、よろしくお願いします。」私と貴子、志津、そして和夫が頭を下げ、担任を見送った。和夫は、診断書を出して先生の態度が変わった、真剣に考えていたと、幾度も繰り返した。彼自身、いじめの事態が変わるかも知れない、変わってほしいという予感を得たのだろう。

「ぼくを人間として認める雰囲気がクラスにはない」 担任の訪問を受けたあとも、和夫は登校・不登校を断続的に繰り返していた。私と談笑している時も、盛んにあくびを繰り返し、身体の落ち着きがない。精神的安定とはほど遠い状態である。風邪症状が続く。ストレスから来るものであると確信はしたが素人判断で症状を重くしてはならない。念のために内科医の精密検査を受けることをすすめた。案の定、内科医は、どこも悪くはない、それどころか、これまでなにかの重荷を背負ってきているのではないか、そちらを直すことが第一だと、診断した。口でこそ語らなかったけれど、和夫の精神的不安定の元を探り当てていた。
 赤堀の親は自営業を営みPTAの風紀委員という役職に就いている、太田は父親が警察官で厳格な家庭教育がなされているという。また石津の父親はキリスト教系の宗教者である。3人が3人とも家庭では「いい子」だという評判である。家庭での重圧感から逃れるためなのか、家庭では仮面を被っているのか、そのあたりは不明だが、彼らの学級での役回りは、いじめのターゲットを探し回っている、大空から地上の小動物を探している鷹のようなものだ。恒常的には和夫がターゲットになっているが、彼ら3人の取り巻きの中でも暴力の被害に遭う者がいる。いずれも成績は上位にあるため成績判断からは彼らのそうした行為を教師は想像し得ないようであった。また彼らは揃って同じ塾に通っているが、彼等によって登校拒否に追い込まれた佐々木も、その塾に通っている。塾ではいじめの行為をしていないという話であった。こうした情報は貴子が店の客などから聞き込んで得たものが多い。地域に根ざした昔ながらの食堂ならではのことである。悲しいかな、昔ながらと異なるのは、その情報に接して義憤を覚え、解決に向けて行動する人がいないということである。「学校に子どもを人質に取られている」故に、一歩踏み出すことができない、「弱い」親たちにしか過ぎないのだ。結局、情報を得ては、さらに怒りを増加させる、学校の指導力のなさを見せつけられ、絶望感にさいなまれる、ということの繰り返し。
 当の子ども、すなわち和夫は、登校しては殴られ、そして休む。もとより、担任の訪問が一挙の事態打開になるとは思っていなかったが、それにしても、赤堀たちの手を休めない「攻撃」にはほとほと悩まされた。和夫が担任に申し出たことは、「いじめ」からできるだけ遠ざかる状況に身を置く、ということでしかない。決していじめの根本的な解決に繋がるものではないのだ。もう一歩踏み出さなければならない、赤堀たちに迫り、赤堀たちの親にも迫り、また学級全体にも迫るような、解決策が求められる。
 和夫は言う、「いじめているうちにだんだんエスカレートして、気持ちを抑えられなくなる。いじめがいじめを生む」。正邪の気持ちなど入りこむ余地のないいじめの実体を、和夫はじつによく捉えていた。だからこそであろう、いじめを解決することなどできない、いじめから逃げるしか方法はないのだと、彼は考える。
「つらいでしょ。」
「うん。つらい。」
「君を人間として認める雰囲気なんかないんだ。」
「そうです。誰も、男も女も、ぼくを人間として認めてくれてなんかいない。」
「君から止めてくれと、反抗しない限り、いつまでも続くよ。」
「止まるまで待つしかない。」
「…君が反抗できないなら、大人のやり方に任せない?ぼくに全部、任せない?そうしなよ。」
 長い沈黙の後、和夫は、「分かった。」と答えた。彼として、精一杯の勇気を振り絞っての答えである。
 2月3日のことである。この日、私ははじめてタクシーを使って自宅に戻った。自宅に着いたのは午前3時を回っていた。

学校訪問 翌日の2月4日、志津を通じて担任に面会を求めた。担任が同日の夕方に会いたいとの返事をする。私たちも「急いで」いたが、担任も「急いで」いる。互いに腹のさぐり合いをする暇もなく、問題をどうとらえ、どう解決していくかという意志で一致していた会談であった。
 校長室に招き入れられ、まずは校長との話し合いとなった。私たちは勢い込んでいじめ解決を願うという話しぶりはしなかった。まず学校側の話をうかがい、それから私たちの願いと方向性とを提供する、という話し合いを心がけたわけである。
 校長は学校管理責任者として一生懸命務めていると話を切りだした。しかし30分ほど経った頃から、社会現象としての、子どもの荒れ、親の我が子に対する過剰信頼、親同士の腹のさぐり合い、人間の間を分断する過当な競争主義意識などが、如実に我が中学校にも現れてきており、指導のあり方を試行錯誤している段階であること、しかし教師の中にはそうした現象を個別的特殊なものとしてとらえる者も少なくなく、指導体制が万全ではないなど、誠実な応対の姿勢を見せるようになった。私自身も、生活指導研究運動に携わる立場から校長の言うことはまったく同感であること、だからこそ、学内外で手を携えることができる者同士が教育指導のあり方を求めなければならない時期であると認識していること、今回は和夫の問題であるが、和夫一人の問題ではない、クラス、学年、いや全校の教育実践の課題として取り組みが望まれる旨を語った。1時間ほどの校長を交えた話し合いで、双方が「よろしくお願いします」と頭を下げあった。担任は、今後の学級での取り組みについて、逐一私に報告するので、そのたびに助言をもらいたい旨を語る。
 私は、志津と貴子に話していたことを、校長と担任の前で再現した。「和君に対する暴力いじめの解決はすべて学校に任せる。一方和君自身が問題解決の意欲を示すために、家庭で全力を尽くす。」と。家庭で全力を尽くすという具体的内容は、「今の状態のまま2年次に転校しても、今度は転校生いじめにあうことは間違いない。和君は、友だちが防波堤になると考えているようだが、ぴたっと遊びに来るのが止まったことに見られるように、それほど強固な防波堤ではない。いじめとはそれを簡単に越えてしまう。だから、転校の方向性はまったく考えない。」「和君の自立課題と結びつけなければ、現象としてのいじめがなくなるにしても、自分の人生を行ききる強さを自分の中に培うことができなくなり、新しい対他関係から生じるであろう齟齬を解決することができない。従って母子一体を克服し、自ら置かれた環境の中に、すなわち藤中の中に友人を求める積極性、意欲性を培う。」である。「これらを実際に進めるためには、学級内、学校内での和君の出番があるような、同級生たちから出番が求められるような学習場面、生活場面が組織される必要がある。それは和君に限ったことではなく、一人ひとりの生徒が、それぞれの個性と能力に応じた出番の教育的組織が求められる。」学校と家庭とが、観念で共同戦線を張るのではなく、具体的な方策で共同戦線を張っていきたい、これが私の結んだ言葉だった。

暴力いじめが消えた  学校訪問から帰宅した日、担任から電話連絡が入った。和夫に対するいじめが長期にわたって行われている旨、和夫から報告があったことを学級に知らせてもよいか、という問い合わせであった。生徒たちのほとんどはその事実を知っているはずである。しかし知っていることを「隠して」いることも事実である。「隠して」いることを教師によってオープンにされることは、クラス内における生徒たちの力関係に何らかの波及効果をもたらすことは間違いない。「先生にお任せしたのですから、先生のおやりになることに異議は唱えません。どうかよろしくお願いします。」と答えた。いじめがなくなってほしいと切実に願った。
 翌日の夜、担任からの電話報告があった。
 ホームルームで「江藤から、いじめられている、という訴えがあった。いじめている者は手を挙げよ。」「また、全員で、江藤へのいじめ、という題で、作文を書くように。」と指導した。挙手の方は皆無であった。作文は、後日私も読む機会を得たのだが、「いじめはよくない」という観念的記述が大半であり、「江藤へのいじめ」との題とはおおよそかけ離れたものであった。担任は、和夫から具体的な名前が指摘された赤堀、大田、石津を個別に呼び出し、いじめの事実を問いただした。赤堀、大田はその事実を認めたが、石津は頑として認めなかった。赤堀、大田に対しては、和夫をいじめた事実を両親にきちんと話しておくことと説諭した。石津への担任としての対応に苦慮している、とは電話の向こうの言葉である。要は、担任は、いじめをした者たちの保護者を呼び、貴子ならびに和夫に謝罪させるという指導方針を持って事に当たったわけである。作文はそのために事実の食い違いが無いかどうかを確認するためのものとして位置づけられていた。この指導で、いじめがクラスの子どもたちの問題であり、子どもたち自身がいじめを克服するという指導課題を持っていなかった。私には、解決への道がはるか遠いことを実感するだけの電話報告であった。「謝罪させることが目的ではなく、いじめをなくすことにあるので、保護者の謝罪まで追い込む必要ないだろう。事実認識の食い違いは仕方がない。そのままにしておいてください。貴子の方は私が対応する。」と回答した。加えて、次のように語った。
「子どもたちの作文にどのように書かれているか、気になります。拝見させていただきたい。」
 担任から名前を伏せた作文の束を見せてもらったが、上に述べたように、いじめの事実がどの作文にも書かれていない。まったく無個性な作文である。「もう一度、生徒たちに作文を書かせていただけませんか。いじめ解決の方向性が見つかるまで和夫は登校をしないと言っています。このままでは、私も和夫に登校を促すことができません。」
 次のホームルーム。担任は「江藤が今日も学校に来ていない。それがなぜだか分かるだろうか。先週書いてもらった作文のいくつかを選んでこれからみんなに配るから、それを読んで、もう一度、江藤へのいじめ、という題で作文を書いてほしい。」と指導をした。二度目の作文は一度目のそれとは歴然とした差があった。「いじめがいけないことは誰でも分かっている。でも、このクラスに事実としていじめが続いていた。いじめをこのクラスから追放しよう。」「江藤君が赤堀君たちにいじめられているのをぼくたちは黙って見ていただけだった。江藤君の次はぼくかもしれないという恐怖感があったから、何も言えなかったし何もできなかった。」「私たちがいじめを見て見ぬ振りをしてきたために、佐々木さんや江藤さんにとてもつらい思いをさせてきてしまった。」などなど、リアリティを伴った反省や見通しを各々が語っていた。ただ一人石津は「いじめはあってはならない。」と観念的記述に終始していた。いじめは絶対にしていないと言い張る石津であっても、赤堀・太田を始め何人かの生徒が、「石津君と一緒に江藤君を殴ったり、コンパスでつついたり、プロレスの技をかけた。遊びのつもりだったけれど、江藤君はやられっぱなしだったから、考えてみれば遊びとは言えないと思う。」と書いている事実には敵わないはずである。
 担任は、これらの作文をプリントし、学級会の資料とした。「もうすぐ2年生になるにあたって、どんな学級を作って進級するか。」が議題とされた。学級会は、クラス全員が取り組むもので団結しよう、3年生を送る会で3年生に喜ばれるような活動をしよう、という声が次々と挙がった。教師集団も、年度末を「いいクラスとしてまとめることができた」「いい学年集団に育った」といって迎えたい、という思いがあったようで、「一人一人が出番となる行事」の組織が進められていた。1年生はクラス対抗バスケットボール大会、合唱大会などが組織された。
 不登校を続けている和夫のところに、クラスメートから休んでいる間に配布されたプリントが届けられるようになった。また、ある女子生徒から「早く学校に来てね。みんなで待っているから。」との電話が入った。クラスが前進しつつあるのを感じはじめたのであろう、和夫に少しずつ笑顔が戻ってきていた。しかし、登校のきっかけをつかみかねているようだった。ある日、赤堀から電話が入った。「江藤がいないとバスケのクラス対抗で負けてしまうかもしれないから、必ず来てね。」和夫がバスケットボールで活躍できる場がクラス内に用意された。当日、体調が思わしくないというのに、登校、そして試合に選手として参加。結果は二位だったと、うれしそうに語ってくれた。

一進一退だが生活の前進のために
 こうして学級内での暴力いじめが消えた。とはいうものの、和夫と貴子には、心を痛める事態が生じていた。彼らにしてみれば、それは、事態が後退した、としか言えないものだ。重たい雰囲気の日が続く。
 和夫はバスケットボール部1年生のキャプテンである。いじめを受けている渦中にあっても部を休むことはなかった。部員でもない太田が、時々「いじめの出張」にやってくる。それは、教師の目には、小さなちょっかいを出しに来ている、と映っていたようだ。足をかけられ転ぶ和夫に、馬乗りになって殴りかかっている太田らを、教師が注意することはなかったし、上級生部員も同級生部員も止めにはいることはなかった。それでも和夫は学校の中で自分が生き生きとできる場として、部活動を休もうとはしなかった。
 だが、2月に入ってから続く高熱と腹痛、耳鳴りのひどさのため、全日不登校に陥った。当然部活をも休むようになった。担任からは、登校したくなったら来るとよい、もちろん部活のためだけの登校でもかまわない、と登校刺激の無い配慮がなされていた。その際、担任は、部活のためだけに登校することがあっても受け入れるようにと、部活担当教師に依頼すると、和夫に約束をしている。和夫は、不登校を克服する直前には、担任の勧めるように、部活に出ていった。そのころ、学校対抗のバスケットボール大会が催された。これは同学年同士の対抗であるので、部長である和夫の出番はあるものと誰もが思っていた。小学校の時から地域の社会人に混じってバスケットボールをいじっていた和夫にとってみれば、多少部活を休んでいようと、体調が不調であろうと、選手として出番のあるだけの技量には自信があった。しかしながら、「部長のくせに部活を休むやつなんかは試合に出せない」と部活担当教師が言い、事実、試合の日、和夫はベンチウオーマーを務める羽目となった。和夫が一番、自らのよりどころとしていたバスケットボール部でのこのような処遇は1年生終了まで続くことになる。せっかく学級でそれぞれの出番を作り、和夫や佐々木や、その他学級生活に困難を覚えていた生徒たちが生気を取り戻しつつある時に、この部活での和夫の扱いは、生徒と教師との間の信頼関係を一挙に崩しかねない危うさを持っていた。担任にその旨を申し出たが、担任は、お願いをすることができても命令はできない、それぞれがプロの教師として自覚を持っているので、と自身の力の限界を超える問題だと弁明をした。
 先にこのような処遇と書いたが、試合に出されないのはともかく、日常のチームプレーの練習においても和夫はその中に加えられない。コートの外でそれを眺めているだけの日々が続く。貴子は憤った。「どうなってるんですか。学校長に抗議しましょうか。」ようようのこと貴子を抑え、和夫に一つの案をぶつけてみた。コートの外でドリブルの練習とか、フェイントをかける練習とかできるだろ?やってみないか。和夫の「たくましさ」がどれほどに育ちつつあるか、確かめたかったからである。さっそく次の日から、コートの外で一人練習に打ち込んだ。部活担当教師は何も言わなかった。そろそろ、きちんと、和夫に転機を告げた方がいいだろう。「小学校の時に大人と一緒にバスケットをしていたと言っていたよね?それはまだあるの?」「うん。」「一人練習じゃやっぱり物足りないだろうから、そっちの大人のに参加できるかどうか、聞いてみたら?」学校の部活ではなく社会体育を勧めたわけである。次の訪問日、和夫は、「日曜日だけだけど、参加してもいいと言ってたから、行くことにしました。」と笑顔で報告してくれた。
 時は戻るが、クラスでの暴力いじめが無くなっても、耳鳴りはやまず、微熱が続く。そして運が悪いことに、2月末から3月終わりにかけて、2度も足を痛めてしまった。9月から長く続いた精神の激しい疲労によって、身体のコントロールを司る神経も疲弊してしまったのだろう。それほど13歳の少年の心身を、いじめはずたずたにしてしまっていた。
 私には、まだなお、和夫の幻聴や耳鳴りの意味がとらえきれていなかった。いじめは解決したのだから私が依頼を受けたことはこれで終わりであってもかまわない。事実、貴子からはお礼をと金銭の包みを渡されかかった。もともと経費はいっさいいただかないという約束ではじめたものであるが、固辞をしながら、このお金を受け取ってしまえば私は明日からお伺いすることはいたしません、それでよろしいでしょうか、と訊ねた。和夫がすかさず、まだぼくは先生が必要だから、お母さん、お金をしまってよ、と言う。和夫にアテにされていること、それは、彼が自らの足で人生を生きる決意をする手助けをすることである。
 「名取」の客の一人に和夫の小学校6年の時の担任がいる。貴子が彼に和夫がいじめられていることを漏らした。6年の時の和夫の様子からは信じられないことだが、何か手助けをすることがあれば申しつけてほしい、と彼は言う。その彼の言葉を頼りとして、3月に入って、彼を訪ねた。元担任が、幸いなことに、勤務校を替えていなかったこともあり、学校に保存されている学籍関係・教育指導関係資料を、関係者、すなわち和夫の保護者名義で閲覧する手続きを踏んだ。小学校4年時頃から幻聴が始まるという、和夫の生育史の「空白」を補うための閲覧行為である。4年次の記録には「計算力はついたが、ただそれだけのことである。」とあった。計算力が足りないと指導を受け和夫は懸命に努力をし、計算の力を上昇させることができた。その結果評価が「ただそれだけのことである。」とは、なんと非人間的なとらえ方なのだろう。和夫に4年の時の先生の思い出を語ってもらったが、「できる人だけ、正解を言う人だけ、指名していたから、ぼくたちは相手にされなかった。」という。5年次もほぼ同様だった。学級での居場所はなく、バスケットボールだけが救いだったという。既に4年次ではクラス内でいじめが強まっており、いじめにあわないように身を守ることで神経を毎日使っていた、だから授業にも集中できなかった、と言う。6年次になり、件の元担任と出会い、一人ひとりのよさを認める学級づくりのスローガンのもと、和夫の生来と言っていいひょうきんさが受け入れられた。和夫の髪は縮れている。縮れは固いので和夫は時々髪に鉛筆を差している。それをクラスで披露した、と和夫が元担任の前で思い出を語ると、元担任も、そうそう、そうだったね、面白いのがクラスにいるなーと思った、と答えた。たわいもないこと、つまりそれは特別に演じる必要もない個性なのだが、その個性の表れを認める6年生のクラスは、明るく、さまざまな学級活動が繰り広げられたという。和夫はバスケットのリーダーとして大事にされていた。性格はおとなしく、他者の悪口めいたことは一度も言ったことがない、優しい子どもだと感じたと、元担任は語ってくれた。和夫のよさが理解されるような学校生活があれば、和夫は知的な面でも、ぐんぐんと伸びて行くに違いないと期待していた、とも言う。
 これらの話は、私にとっては、新しい和夫像との出会いであった。いじめにいじめられて、そこから逃げ出すこともできずにじっと時の過ぎるのを待っていた時に出会ったわけだし、その後の取り組みがあったにせよ、安物の映画や文学のように、ある日突然一件落着ということはあり得ない現実社会に生きているわけだから、和夫がずんずんと自分の世界の中にもぐっていくことばかりが気になっていた。自立への方策を探るといっても、和夫自身の中の何を手がかりとして進めいったらいいのか、私には暗中模索状態であったわけである。だから、元担任への訪問は、和夫とのその後の関わりの持ち方の暗示を得たように思われた。

おわりに和夫には男子学生の家庭教師がついていた。二人の関係は良好ではあるけれども、家庭教師は知的訓練をもっぱらとしている。いじめの話が家庭内で公然と語られるようになって以降、当然のことながら、彼にもその話が伝わるが、「じめられたらやり返すしかないよ」と助言する。確かに力関係を逆転させればいじめを受けることはなくなる。論理的には正しいが実践的ではない。彼は「牛を水辺に連れて行くことはできるが牛に水を飲ませることは誰にもできない。」とも言う。このような方法で、彼は和夫の自発性、自主性を喚起するための言葉かけをしていた。人生訓にはなりえても、実際の自分探しさえ諦めてかけている子どもに対しては意味を持つことがない言葉である。教育・発達の専門家でないから仕方がないと言えば仕方がない。家庭教師の限界でもある。いじめがなくなったあと、ちなみに、和夫に計算の問題をさせてみた。15分と持たない。頭が痛くなり耳鳴りがひどくなると訴える。集中力がいじめによって奪われてしまっているのだ。この集中力をつけることが、「水を飲む」ことにつながる。「問題は声を出して読んでね。」私の要求に声を出して設問文を読む。つっかえつっかえ、文節の区切りも充分ではない。読解力に物足りなさを感じる。家庭での学習のあり方を変更しなくてはならないと強く感じた。家庭教師は3月一杯で終わる。大学を卒業し職に就くことが決まっているからだ。
「和君、ぼくと一緒に勉強する?それとも、新しい家庭教師の先生が決まりかけているから、その人に任せる?」
「勉強、教えてください。」
 和夫は中学を卒業したら、調理師の免許が取れる高校に行きたい、と希望を強くしていた。「名取」の跡を継ぐという。貴子や志津は、跡取りにこだわらず、幅広く人生を選択させてやりたいので、できることなら大学に行くことができる高校を受験させたいという。いずれを選択するか、中学2年の秋頃までにはある程度決めなくてはならないが、人生を長く生きていく上で、基礎教養は習得しておかねばならない。計算力、読書力、そして論理的思考。各種知識はそれらを基盤として培うことができる。
 新しい家庭教師は、私の仕事場に出入りしていた女子学生である。彼女もまた学校の管理、同級生からのいじめ、周辺の無理解に苦しんで思春期を送ってきていた。長い長い自分探しに勇気を持って取り組んでいる。学生仲間からの信頼も厚い。彼女に、毎回冒頭に30分ほど文学の読み聞かせをしてやってほしい、と条件を付けて、すべてを任せることにした。
女子学生とともに、和夫は4年余、学び、人生を語り合った。高等学校は初志を貫き調理師資格を取ることのできる高等学校に進学した。一日たりとも休むことなく、しかも優秀な学業成績で高校生活を過ごした。学内で数人しかいないという、大学への推薦入学の候補に挙げられた。貴子や志津は大学進学を強く勧めた。人生のより幅広い選択が可能だと思うからだ。私からもそう説得してほしいと志津から依頼された。和夫に会ってみると、彼は調理師としての仕事に誇りを持ち、いずれは「名取」に戻るがしばらくは修行に出るつもりだ、だから大学には進学しない、ときっぱり言い切った。彼の中から、はじめて彼のことを知った時に感じた「優しさ」とはまったく質の違う「優しさ」を感じることができた。志津と貴子に、和君の人生を和君に選ばせてやりたい、と応えた。