アヴェロンの野生児 史料

1801年6月9日付
国立聾唖教育施設医師よりアヴェロン県知事宛
知事殿
 国立教育施設の管理職者は、内務大臣の許可を得て、およそ一年前貴県下の森の一つで発見された若者を私の治療に委ねております。この不幸な若者は、私の見る限り、進歩を見せており、さらに何かしらの新しい興味深いことが見られるようになるのではないかという期待を持っております。それで、彼が捕縛された当初の発達の公式記録およびその他、若者の能力に関してなされたすべての報告を可及的速やかにご提供下さらんことをお願いいたします。それについて、まことに恐縮ですが、知事殿、かつて若者が発見されたことのある地方の関係者に、私の願いとするところを聞き届けてくださるよう、貴下のお手を煩わしたくお願いいたします。併せて、以下の質問にできるだけ正確にお答えくださいますよう。
 この若者が捕縛されたのは、彼を森の中で初めて発見した時だったのか?捕縛したのはどのような手段が使われたのか?彼を留置した最初の頃、彼の振る舞い、性格、好みの食事、感覚機能、睡眠時間、身体外観はどのようであったか?食糧の確保や雨露をしのぎ寝る所の確保はどのようにしていたのか?この寝る場所はまったく人が住まず、危険な動物がいないところか?回りの地域で、この孤児が放棄された原因と放棄した人について、誰か知っている人はいるのか?
 知事殿、これらのことは、この珍しい出来事について完全に知るために、どうしても欠くことができない情報であります。いずれも重要なことであり、それらを活用することで詳細で正確、精細な、誤りを犯すことが無く、科学的に意味のある日々が到来するのです。我が願いのすべてはこのことにしかありません。私は貴下と面識をいただいたことはまったくありません。しかし私は、お立場上、貴下御自らの手を患わすことなく芸術と科学の愛好会にご下命いただくことによって それに基づく情報のご提供とご理解とによって、ご助力下さることにご同意いただけることと信じている次第であります。
敬具
イタール
(ファブール・サン=ジャック通り、国立聾唖教育機関医師)
シカールよりアヴェロン県知事殿へ
追伸
 聾唖教育施設教師からは、教育施設医師の要求に、何も付け加えることはありません。我々は必要に駆られて非常に強い動機を持っております。我々が遂行しようとしている非常に重要な前記の要求を認めた本状を差し上げ、しかる後にそれを有効に活用させていく所存であります。アヴェロン知事閣下にはこのことは十分ご理解いただけることと存じます。ではありますが、私が身内の者を駆り立て、このことを、少なくとも人間の認識の進歩に貢献するという栄誉ある事柄の欲求を持たねばならないようにすることを、知事殿に保証いたす次第であります。

アヴェロン県知事からイタールへの返信アヴェロン県のある森の中で発見された子どもに関して、国立聾唖教育施設の医師によってなされた質問。

1.この若者が捕縛されたのは、彼を森の中で初めて発見した時だったのか?
 アヴェロンの未開人の名で知られる子どもは約3年前にラコーンの森にいるところを見かけられている。この時彼は捕らえられたが、森に逃げ帰った。数ヶ月後、彼は再び捕らえられた、ラコーンに連れて行かれそこで数週間止めおかれた。しかし措置を委託されたある夫人のやり方が適切でなかったために気分を害した彼は、再び逃亡をし、共和暦7年収穫月の終わりから翌年の雪月19日まで、ラコーンに近い山を放浪した。その間、彼はラコーンでの滞在中に与えられた古着を身にまとって暮らしていた。市民ボナテールが公刊したアヴェロンの未開人に関する簡単な説明書の中で、このことについて説明されているのを見て、我々は以下の情報をまったく得ていなかったことが分かった。すなわち、市民ボナテールが示したことがらは、今日サン・タフリカの副知事である市民コンスタン・サン・エステヴおよび当時サン・タフリカ小郡近くの警察署長であった市民ギロウが中央官庁に宛ててなした報告と一致していたことである。市民コンスタンは度々私に、市民ボナテールの報告に示されている詳細のすべてを、激しい口調で語っていた。

2.彼を捕縛するのにどのような手段が用いられたのか?この件に関しても、同報告をお読み下されたし。

3.彼を留置した最初の頃、彼の振る舞い、性格、好みの食事、感覚機能、睡眠時間、身体外観はどのようであったか?
 彼がロデーズ<アヴェロン県の首都>に連れて行かれた時、食べ物の味の好みや願っていることとは違ったときなど、彼のめんどうを見るあらゆる人に噛みつくクセがあった。彼は提供されるすべての食べ物の匂いを嗅いだ。ジャガイモ、クルミの実、栗の実及び茹でたインゲン豆以外の食べ物すべてを無視した。彼は少なくとも日中の半分、規則正しく眠った。衣服はかろうじて着たが苦痛な様子だったし、ごく簡単に布で覆っただけの藁敷きで寝た。徐々にパンやスープを摂ることに慣れた。肉も同様である。彼はつねに脱走を図ろうとし、2回成功した。しかしその度に捕縛されロデーズに連れ戻された。サン・タフリクに連れて行かれた時には、体つきは貧弱で、やせ細っていた。やがて、少しばかり太り背丈も大きくなった。つねに不潔であった。この子どもに見られる嗅覚と触覚は非常にするどい。

4.食糧の確保や雨露をしのぎ寝る所の確保はどのようにしていたのか。
 はじめの頃は、人々は彼を柏の木々が繁茂する森で見かけた。しかし、この森のはずれにジャガイモや野菜が育てられていたが、彼はそれらを食料としていた。また栗の木もあったが、間違いなくこの実も彼の食料とされていたようだ。

5.この寝る場所はまったく人が住まず、危険な動物がいないところか?
 ラコーンの森の囲いの中にバラックや孤絶した家があるかどうか、我々は知らない。だが、市民コンスタンは、市民ボナテールの報告書に拠って、この子どもは木枝で小屋のようなものを作っていたと言っていた。子どもはその小屋で夜を過ごしていたこと、この小屋の回りに大量の糞便があったことでその小屋が彼の休むところであったことが判明した。また、この地方には狼のような危険な動物はいない。

6.回りの地域で、この孤児が放棄された原因と放棄した人について、誰か知っている人はいるのか?
 まず、ラコーン小郡では、この少年はこの地方のある市民の子どもであり、嫡出子であると、信じられてきた。しかし、コンスタン・サン・エステヴェによれば、やはり市民ボナテールの言うところであるが、この噂は根拠が無く、その出自はまったく分かっていないとのことである。いずれにせよ、人々がこの者に関して知っていることのほとんどすべてを市民ボナテールが収集したこと、そしてそれに基づき簡単な説明書で正確に報告したことを、繰り返しているに過ぎない。従って、ボナテールが語っている以上の詳細を付加することは不可能である。

アヴェロン中央学校博物誌教授P. J. ボナテールによるアヴェロンの未開人に関する簡単な報告 1800年8月
まえがき
 この小論の主題を為そうとする出来事で類似のものは、歴史を遡ってみても、さほどあるわけではない。つまり、ある一定期間、森の中で、人間社会から隔絶して生き延びた捨て子の問題である。本報告書が取り扱うのは、彼は動物的本性しかなく、正真正銘の「未開人」である。今日まで、他の時代、森で発見された幾人かの他の者の習性や習慣に関する詳細をわずかばかり知るだけである。従って、私は、哲学者や博物学者が興味引かれて、その観察記録を読み、人間の知的能力の初期発達について正確かつ簡潔に綴ることを、僭越ながら、期待するものである。政府がかの著名なシカールの世話に委ねることにしたこの若者の教育の進歩が期待に沿うことになるならば、間違いない無く、この小さな未開人の未開状態を初期感覚と初期概念の進歩の歩みへと進ませるであろう。このことに私は大きな喜びを覚えるのである。
 思いがけず森の中で発見された名も知られぬ一人の子どもは、好奇心をそそる見せ物となり、文明社会での大きな話題を提供した。この知らせの最初の頃のうわさ話が公衆の注目を呼び覚ましたのだ。世の中がこの新しい社会成員に注目した。誰も彼もが彼の出自や彼が森の中に連れて行かれた原因、さらには彼を取りまく多くの危険のただ中でどのようにして生き延びたのかを知りたくてうずうずした。
 しかし、すでに、風変わりな人間がいるということは、非常にリアルな様子を添えて、興味深く語られていた。つまり、この子どもが、数年来、全裸で、人が近づくのを避けて、森の奥深くを通っているのが見かけられていたのである。また、非常に高い山に面した地方の冬の極端な寒さにもまけないこと、彼を食ってしまいかねない獰猛な野獣との出会わないようにすることが巧みであることなどが語られていた。一言で言えば、彼は数年間森の中で見かけられ、間違いない無くこうした野生状態の特徴を有しており、驚くべきことはまだあり、今なお彼の経歴を誰も知りたがっていることである。それはアヴェロンの未開人との出会いを期待するという感情である。公にされた文章すべてが奇蹟だと報じているし、政府はアヴェロン県中央役場に情報を求めた。人々はこぞって自力で実相を知ろうとした。話しは共和国中に広まっていたのである。しかし、この子どもに好奇心を向けた人々の間でも諸見解はさまざまに別れており、子どもの外観に野生的特徴を見ると信じるある人々は、文明化された子どもと同じ特徴を持った両目があり、鼻、口があるからこの子は普通児である、と言った。また別の訳知り顔の人々は、この若者は魚のように泳ぐと言い、そう信じていた。また、リスのように木を登るとも。非常に例外的な生き物を、あたかも、見た、熟視したかのように、自慢げに。最後に、彼が一言も口を利かない、つまり彼が聴覚を有していることを示すどのような徴候も見られないことを知った人々は、彼は聾唖であると信じ、彼は生まれつき障害を持っており捨て子にされたと結論づけた。
 しかし、これらの不確実な情報によって公的な見解を定めるには問題がある。我々がこの子どもについて説明するのに為された諸情報を正確に報告したもの、我々が委託されて以来収集してきた観察のさまざまを伝ええたもの、そして幼い時に迷い子となり、人間社会から隔絶され、一人っきりのところを発見された他の幾人かの子どもに関して知り得る事柄とを比較したものとが、参照されるべきであろう。
(以下、中略)

XI アヴェロンの未開人
 太陽と雨とが彼に与えたもの、大地が飢えをふさぐのに充分なだけ生産したもの。
 森で発見された時からローゼズへ移送されるまでのこの子どもの経歴。
 タルン県の、ラ・バザンヌと呼ばれるラクーンの森の一部で素っ裸の子どもが見かけられるようになってから3年半である。彼は人間が近寄るのを警戒していた。この偶然とも言える出会いによって、興味と好奇心とがいやがうえでも高まった。その翌日から数日間、同時刻に、森の空き地で待ち伏せをした。用心して見張った。そして、同一の者が食用にドングリと根菜とを探しているのを見たのである。
 この情報はあらゆる所に広められ、何人かは非常に奇妙な人間を捕らえようと探索に出かけた。ある者は彼を見かけた。ある者は、彼がとても敏捷だったために、非常な苦労をして捕らえた。しかし、彼はすぐに逃亡し、森に戻っていった。
 最初に逃亡してから15か月が流れ、彼が同じ森で再び見出された時は共和暦7年収穫月の終わりだった。ラコーンの3人の猟師が見つけた。猟師を見て、彼は逃げ木に登ろうとした。しかしこの方策では猟師の追跡から逃れることはできなかった。彼は猟師たちの手に落ちラコーンに連れてこられた。この時から彼の社会参加がはじまる。次々と彼の生活の仕方に変更がもたらされるわけである。
 彼は猟師に捕らえられた時は素っ裸の状態であった。彼に衣服が与えられた。彼はドングリ、ジャガイモ、クリだけで生活していたと思われる。彼にライ麦パンが供され、彼にジャガイモや他の食料を火で焼かせることが教えられた。
それでも彼には自由はこの新しい生活様式より好ましく思われた。彼はラクーンには8日しか留まらなかった。ある未亡人の所に預けられ世話を受けたのだが、脱走した。森には逃げず、山をさまよい、この地域のいろいろな小さな集落を歩き回った。半径40キロメートル内である。にもかかわらず、彼は、夜、民家に入り込むことはなかった。まれに、彼が通り抜ける村や集落に30分以上留まることはあった。6か月以上の間、彼は、放浪生活を送り、非常に厳しい一冬を凌いだ。
 数日来気候が和らいで、雪月19日、朝7時、この子どもが、サン=セルナンから800メートル外れたところに一軒家を構える染色業者・市民ヴィダル宅に入り込んだ。頭、腕、両足には何もつけず、身体の他の部分をボロボロのワイシャツで覆っていただけであった。そのワイシャツは6か月前に、ラクーンで供されたものであった。
 市民コンスタン・サン・エステヴェは次のように言う。
「すぐに近辺に知れわたった。そしてあらゆる所から群れを為してこの子を見にやってきた。未開人だと口々に言う。私はただちに駆けつけ、この人々の口に上る話の真贋をはかった。私は暖かい火の傍にいる彼を見つけた。火は彼を喜ばせていたように見えた。しかし、時々不安な様子を示していた。彼を取り囲む人々による重要な試験のように私には思えた。私は、しばらくの間、何も言わず彼をじっと見つめた。それから彼に話しかけた。そして彼が唖者であると判断するのにさほど時間を要しなかった。すぐあと、私は彼を聾者であると思った。それは、私が彼に低く高く声を掛けさまざまな質問をしたのだが、彼はそれに応じる兆しを見せないと気付いた時である。
 私は、彼の手を取って、私の所へと招いた。もちろん愛情を込めて。でも、彼は強く抵抗した。私は繰り返し優しく撫で、親愛の情を込めて微笑みながら、2回口づけをした。彼はすぐに意を決し、とても信頼する様子を見せるようになった。
 家に連れて帰って気付いたことは、彼は空腹なのだということであった。それで食事を与えた。その帰り道のこと、彼は根菜や生野菜を摂取していたと私は確信した。確かめるために、あるいは、彼の好みを知るために、私は、陶器の大皿に、焼いた肉と生肉、ライ麦パンと小麦パン、リンゴ、洋梨、ぶどう、クルミ、クリ、ドングリ、ジャガイモ、アメリカボウフウの根、そしてオレンジ一個を、一度に盛りつけた。まず、彼は、迷うことなく、ジャガイモを取った。そして火の中に投げ込んだ。それから他のものを手に取り、一つひとつ嗅ぎ、投げ返した。それで私は、使用人に、もっとたくさんのジャガイモを持ってくるように命じた。彼はとても喜んだ。彼は両手でジャガイモを持ち火の中に投げ込んだ。やや経って、彼は炭火の中に右手を突っ込み、焼けたものをすべて取りだした。彼は少し冷めるのを待つという手段を持っていない。それから彼は、熱さを覚え、苦痛を訴えた。けっしてうめくような声ではなく、明瞭ではないがよく響く声であった。のどが渇いた時には、左右に目線をやり、水差しに気付く。何の合図もなく、彼は私の手をくるむように取り、水差しの方へ私を連れて行った。そして左手を叩いて、飲みたいと要求した。ワインを与えたが好きではなく、いらだつ表情を示した。それで私は彼に水を与えるように指示をした。
 質素な昼食が終わると、彼は立ち上がり入口門の方へと走った。そして、私の呼び声を無視して、門を乗り越え立ち去っていった。彼はいつもそうだった。私は苦労して彼を捉えた。厭がるでも喜ぶでもない彼を私は連れ戻した。私は彼を逆境にある人間として強い興味を抱いた。私は別の自然な感情−驚きと好奇心のそれ−を抱き始めていた。パン、肉を拒絶し、ジャガイモを選ぶ、好みの感覚を、彼は、彼が生き抜き、他の何よりも彼の手で長くつかませた大地の生活で身につけたように思われた。時々、非常な困窮に妨げられたけれども、その環境は満足のいくものであった。広大な環境を独り占めしているという観念は、この男の子は非常に幼い頃から、森の中で、欲求や社会生活とは無縁に生きてきたと、私は判断したのである。」