ぼくの「フランス」入門のこと

 ありがたいことに、ぼくの人生の節々には光を差しともして下さる方が現れる。生活綴方へと導いて下さった倉沢栄吉先生、生活綴方の英語圏版とも言えるwhole languageへと導いて下さった志摩陽伍先生。
 学習院大学に転じた時には、さすがに、自力で研究課題を深め発展させなければならないと思い、日々を暮らしていた。しかし、研究と教育との統一などというのは講座・学科制でこそ言える現実。教員養成課程では大人数講義でしかも半期単位のカリキュラム、持ち駒数も学科制の時の倍ほどある。研究は惰性でもすませるが教育はそうもいかない。何とかぼく自身の研究者としてのテーマ:生活綴方を生かそうと四苦八苦していた折、南フランスのヴァンス市にあるエコール・フレネ(フレネ学校)の教師が来日しており、フレネ教育研究会で講演をするという情報を、仏文科学生のKが研究室に運んできた。運んできたばかりではない、一緒に参加しましょうと誘ってくれた。1996年2月のことである。同年秋には、K君を頼みの綱としてフレネ生誕百年祭の国際行事に参加し、その足でエコール・フレネの参観をした。こうしてぼくの新しい研究素材と出会うことになった。素材は新しいが、ぼくの意識にあるのは生活綴方のフランス版なのである。やはりここにも、ぼくに光を差し出してくれる人がいたわけである。
 それから数年は、毎年エコール・フレネを訪問し、授業を参観する。そのたびに思うことがあった。「自由」とは何なのか。日本の教育界で口承されているフレネ教育の「自由」と、言葉が分からないなりにも感覚で捉えているフレネ教育の「自由」との間にはかなりの温度差があった。日本のそれは「管理・抑圧からの解放、すなわち個別学習論」、エコール・フレネのそれは「関係づくりへの解放、すなわち自治的学習論」。どうしてもこの温度差の本質を確かめなければならなかった。
 2000年4月1日、長期在外研修のためにパリに向けて成田を出発。研修目的は「フランスにおける初等教育改革の研究」。要するにフレネ教育の研究が課題である。誠にぼくにとって都合のいいことは、K君がフランス語学力を生かした教育学研究をしたいと、フランスに留学することになったことだ。
 研修に旅立つ前にはあれこれと研修計画を思案する。しかしながら、異文化の世界で生活するということが、これほどに「思うままにいかない」ものなのか、を痛感させられる日々が続く。端から語学力を培うことを放棄した海外研修者は、おそらくぼくぐらいなものだろう。聴覚能力に不安があるぼくは、ぼくが主体になって会話を交わすという自信がない。それと学校での外国語学習ですっかり「学びの主体」になる自信を失ってきたという生育歴・学習史がある。住まいと定めたパリで知り合った人たち――それはほとんどが若く、意欲に燃えた人たちだ――が、語学学校に行ってフランス語を学べと忠告をしてくれる。だけれど、それは、ぼくにとっては忠告でもなんでもない、難行苦行の罰を与えられるようなものだ。ええい、ぼくの教育論・発達論の中核にさえなっている「試行錯誤性」を自らに生かした異文化生活を送ろう。かくして、観光ガイドブックも生活ガイドブックも、そして会話学習のためのテープも、無縁の生活の日々となった。「困った時のK君頼み」、そして偶然パリの街角で知り合ったフランス人のローラン・レヴィさんを頼みの綱として、異文化に思いっきり触れる生活スタイルを貫く。肝心要のフレネ教育の研修は後半期に任されることとなる。
 パリでの生活の前半期は身辺のほとんどの情報が記号でしかなかった。「ボンジュール」「サ・シルブプレ」(これください)、「メルシー」この三つの言葉を駆使して用を足す生活。相手の発する身体的表現を含むあらゆる記号をじっと観察してその有意を知っていく。かくして、次のような心象を抱き、少しずつ異文化を自分の身体の中に取りこんでいく。
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 「パルドン」と背中越しに声をかけられることの多いこと。「すみません」という声かけだが、道を譲ってください、体が触れました、ごめんなさい、というような場面によく使われる。そして道を譲れば、「エクスキューゼ・モア」あるいは「メルシー」と言葉を残して通りすぎていく。地下鉄の改札にはドアがついているところが多いが、先に行く人はあとから来る人のためにドアを開け支え、あとの人が改札を過ぎ、ドアに手が掛かるのを待つ。当然のことながら、あとの人から「メルシー」の言葉が発せられる。車内が混み始めるとドア近くの座席に座っていた人はさっと立つ。座席は跳ね上げられ、車内空間が少し広くなる。また、障害者や老人・妊婦などが乗りこんでくると、若者が率先して席を立ち、譲る。「メルシー」の声も明るく、譲られた方はさっさと座る。
 その逆に、ブーイングの時もある。銀行、郵便局、スーパーのレジなどは列になるように明示されているので、よほど自己喪失状態か悪意の故意でない限り割り込むことはない。一方、パン屋、総菜屋など個人商店となると慣れるまでが大変だ。レジのところに並び、順が来たら店の人にほしい品物を注文し、代金を支払う。自己喪失でも悪意でもなく、つまり列に気づかず、ついついショウケースの品物の前で「ちょっと姉さん!これちょーだいっ!!」ってな調子で注文をしてしまうことがある。とたんに、客からも店の人からも厳しいブーイングを受けてしまう。さまざまに立つ市になると、どこからどこまでが始めで終わりなのか判然としがたい。ついついほしい品物を手に持って、「おじさん!これちょうだい!」と声を張り上げてしまうが、やはりブーイングを食らうことが多い。市ともなると観光客も多く多国籍状態。客が、それぞれの国の文化様式で品物を購入しようとするから、混乱状態といってもよい。けれども店の人は、きちんと「後で行くから」とか「その人のあとに並んで」と声をかけてくれる。
 客の方がさばくこともある。いつも行く日曜市でのこと。八百屋兼果物屋で面白い体験をした。客が一人ひとりキュウリを手に持ってレジの順を待っている。ぼくはたまたまキュウリがほしかったのでキュウリを手にし、列の最後尾についた。けれども列はいっこうに前進する気配はない。それもそのはず、一番前の客が、レジに向かって、多種類の野菜・果物を次から次へと注文をしているのである。次の客も、その次の客も・・・。まさかこの店では列の順の目印にキューリを持つ習わしになっているわけではあるまいが、こうして並んでいると、間に割り込みをすることもできないし、列以外のところから大声で店の人を呼ぶ、ということもできない。なるほどこれは良いアイディアだと感心した。客の一人がたまたまそうしていたのを、後続の客がそれに倣ったことから生じた偶然事だろうとは思うけれど。もちろん、キュウリも購買品のひとつとなって、買い物かごの中におさめられる。
 列の客からは「早くしろよ!」というブーイングひとつ、聞こえてくるわけではない。じっと自分の順番を待っている。ぼくのすぐ前の男性と目があったので、フーッとため息をついて見せたら、にこにこと笑って挨拶を返してくれた。「フランスでは待つのが文化なんだよ」とても言いたげだった。ぼくの前には7人がいたが、ぼくの順が来たとき30分近く時間が経っていた。この時初めて、ぼくはブーイングを受けることもなく発することもなく、「待つ」ことができたのである。店のおじさんは、ぼくの「メルシー、オールヴォアール」(ありがとう、さようなら)の別れの挨拶に対して、大声で「ボンジュルネ、アビアントォ」(よい一日を、また会いましょう)と返してくれた。
 挨拶行動、是非の明確な意思表示、他者との関係で自己の要求を持つ。これらをとまどうこともなく日常的に使うフランスの人たちに混じって生活をしていると、人ににじみこんだ文化的差異を否応なく強く感じてしまうのである。
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 他人様から見て、またぼくの滞在目的から見て、このような生活が有意であろうはずはない。何せ、出かけ先でその日に心に残ることと言えば、石造りのパリの街のこの石はどこから来たのだろうか、棟がくっついて建てられているけれど1棟だけを壊して再建するにはどうするのだろうか、大通りの辻に必ずある棒状のボロは一体何の役に立っているのだろうか、建物の壁にくっついてしつらえられている水道栓から流れ出る水はどこに行くのだろうか、道に迷ったけれど日本の街作りから見れば迷うはずはない歩き方をしている、それはどうしてだろうか等々、なのだから。
 しかし、それらは、ヨーロッパ・パリの街作りの基本を知ることに意味をなすことになり、ぼくの研究課題の外枠――本質と言っていいのかもしれない――を埋めてくれることになる。例えば、J. J. ルソーが遊びに出て城門で締め出しを食らい、そのまま放浪生活に入る、ということがよく語られる。文字で追っている分には「ヘー」というだじゃれにもならないため息をつく程度で済ませてきた(分かったふりをする)。だが、教会を中心として街が作られ、その街は城壁で囲まれている、街の外とは城門から出入りする、ということを、パリの街のあちこちに残されている城壁跡の「発見」をしたことから理解を始める。堅牢な城壁で囲い込まれた共同体――それはルソーの「自己」の核となっていたはずだ――からルソーは閉め出され、新たな自己探求を余儀なくされたわけである。城壁で囲まれた街を、かつてはパロワス(小教区)と言い、フランス革命以降はコミューンという。コミューンそれぞれは、象徴的に言えば、城壁で囲まれいくつかの城門で外の世界とつながっている。近現代フランス(ヨーロッパ)はそうしたコミューンを母体として作られた国・社会である、ということも分かってくる。
 そういえば、現在もなおフランス共和国は「門」が外に対しては重く閉ざされている。学校もそうである。余計な話しになるかもしれないが、我が国の学校は、今でこそ門と塀で囲い込まれているが、塀のない「地域に開かれた」教育機関としての歴史を持っている。それに対して、ぼくがフランス滞在で知り得たことは、フランスの学校は過去も現在も、固く門や塀・ドアで外部と遮断されていることである。前者は学校が地域の教育力の中心でなければならないという観念と実際とを産みだし、学校支配体制が整備されてきたのに対し、後者は学校と地域とは画然と区別されている、連携はすれども干渉なしという観念と実際とを生み出している。
 こういうことを、ぼくの目と身体で、理解していった。
 そぞろ歩きから感じ取った「なぜ?」を知るために、ぼくは書店に入る。そして写真や図版がたくさん入った該当の本を買い求める。書き添えられている短い文章をなんとしても解読しなければぼくの「なぜ?」は解決に行き着かない。こうしてぼくのフランス語の読みの学習が始められ,進められていった。ぼく自身の問を解決したいという願いは、「基礎・基本から応用・発展へ」「言語の体系的順次的学習」など一切無視したものである。まあ、ぼく自身の学びの履歴書もそのようなものであったことを思えば、ぼく自身にとっては、さほど奇異なことではないのだけれど。ぼくにとっての学習材は、パリの街のあれこれ、それに関する書物、そして仏和辞典。一日の終わりはアパルトマンの机に向かって心と言葉の謎解きが習性となった。
 現在と過去とを結ぶのは何も石造りの街のあれこれの景観ばかりではなかった。たまさか、知友がパリ・コミューンに強い興味を持ち、2ヶ月間のパリ滞在の間に史跡を訪ね歩いていた。また滞在の後半には、パリ・コミューンを生涯の研究課題としたいので指導を頼むとぼくに話を持ちかけてきたこともあり、彼の研究的支援ができればと、例によってぼくのゆがみ愛がむくむくと沸き起こることとなる。せっかくパリ・コミューンの本場にいるのだから、原典に当たった研究をなすべきだと助言した手前もある。
 ある古書店の入り口に束ねられていたポスターらしきものを知友が見つけた。「フランス共和国  自由―平等―友愛」で始まる大判紙の束。それらの紙面に綴られている本文はさっぱり理解できないものの、末尾にある「ラ・コミュヌ・ド・パリ  1871年4月*日」によって、それがパリ・コミューンにかかわるものであるらしいことが類推できる。店主が、盛んに、オリジノーと言う。蛮勇を奮って店主に「サ、パリ・コミューン?」とブロークン・フレンチで訊ねてみたが、店主は盛んに首をひねる。後日分かるのだが、「パリ・コミューン」というのはわが日本での造語であり、フランスの斯界ではラ・コミュヌ(ラ・コミューヌ)と呼び習わしている。ぼくの蛮勇が通じなかったのは、ブロークンでも発音でもなかったのだ(いや、それもあるかもしれないが)。フランス文化に無知・無理解であったことが要因であった。
 こうしてパリ・コミューンと出会ったぼくは、知友の帰国後もせっせと古書店めぐりをし、関係資料・書物を入手しては、その情報を知友に送り続けた。歴史を証言するものと出会うたびに、その歴史事項に対する愛情が深まっていく。どうせこのままパリ生活していても、フレネ教育研究に大きな展望が持てそうもない、ここはひとつ思案のしどころ、昨日手に入れたポスターに教育改革を進めている旨の内容があった、それをぼくなりの研究課題にするのも必要かもしれない、というのも、パリ・コミューンは「近代」社会を大きく前進させるエポック・メーキングとなっている、教育もそうであろう、そういう「心」が強くなっていった。こうして、ぼくは、一般史としてフランス近代史、個別史としてパリ・コミューン史、さらにはフランス近代教育史へと研究の視座を向けた研修生活を自覚し、実践するにいたる。
 こうなると、いやでもフランス語を学習しなければならないが、やはり仏和辞典をガイドブックとした学習スタイルを崩すことはなかった。時間が切り売りされ、指導者の選んだテキストに沿って、指導者の指示する体系に沿って学ぶことは、どうにもこうにも、ぼくの体質natureに合わないのだ。こうしたことができたのも、24時間すべて自己管理・自己責任ですごすことができる研修生活であったればこそのことではあるのだが。
 パリ・コミューンに関する研究成果は、帰国後、「la Commune de Paris 1871における近代公教育三原則の成立に関する研究」として学習院大学文学部研究年報第48輯(2001年)、第49輯(2002年)に発表した。パリ・コミューンは「史上初の労働者階級の政府」などとこれまで喧伝されてきたが、資料的に確かめるならば、その評価にいささか疑問を呈さざるを得ない。そのことについてはさらに研究を整えてきちんと発言していかなければならないけれども、教育制度の側面から見れば、間違いなく、世俗(無宗教、宗教からの自立)、義務、無償の公教育を実現したという功績は大きなものがある。わが日本の教育基本法を70年余先取りしていることになる。同論文は、新たな資料を添え、また論理不鮮明であった箇所を訂正し「ラ・コミュヌと教育改革」と題した約400枚の論文として纏め上げた。さらに、今年2月刊行になった『19世紀フランスにおける教育のための戦い セガン パリ・コミューン』(幻戯書房)の第2部に、大改訂の上、収録した。
 ところで、こうした生活の間にフレネ教育研修が頭から抜け落ちていたかというと、そうではない。ただ、セレスタン・フレネの原典を読むには、ぼくの語学力では到底かなわないことだった。仏和辞典をくってもくっても、たった数行の日本語訳が出てこないのである。「日本の教育者の日本語も分かりにくいのが多いが、フランスの教育者のフランス語もそうなんかいな」などとぼやきながら、あきらめることはしていなかった。しかし、こちらのほうは、建物、ポスターという、ぼくの心を揺さぶってくれる「心象風景」がない。ただただテキストがあるだけだ。
 ある日、K君から誘いが入った。「国際的なフレネ教育の研究大会があります。参加しましょう。参加申し込みはすでにしておきました。」渋るぼくではあったが、やはり研修課題を少しでも満たさねばとブルターニュ地方へと旅をする。フランス入りをして始めての遠出である。シンポジウムなどはさっぱり不明。展示物にようやくフレネ教育の国際的な広がりとその実践を実感する程度。とはいえ、教育現場の生の息遣いを感じ取ることができない。昼食会場で、右隣に座っているK君の隣の席のご婦人と目があった。あわてて目をそらしたが、ここで、例によって蛮勇を奮う。「お隣のご婦人たちと何か会話をしたいと思うけど、お国はどちらか、伺ってください。」マルセイユで幼稚園の教師をしているという。向かい合わせに座っている人がマルセイユ近郊の小学校でフレネ教育を実践している、とも紹介してくれた。「授業参観をさせていただけますか?」「いつがご希望?」「11月ならありがたいです。」「いいですよ。念のためにあなたのほうから、参観の申し込みを手紙でください。そしたら視学官の許可をもらっておきます。」
 秋に入って、エコール・フレネ、そしてマルセイユの公立小学校(エコール・ボンヌベンヌ・ペダゴジー・フレネ)、早春に再びエコール・フレネ、マルセイユ近郊の公立小学校(エコール・セレスト)、そしてパリ13区内公立小学校などの学校訪問を果たした。時を同じくして北海道苫小牧の小学校から手紙の束が届く。「フランスについての質問」であった。この質問の束を携えてそれぞれの学校を訪問。偶然にも、そして幸運にも、セレスタン・フレネがこれなくしてフレネ教育を語るな、という「学校間通信」の当事者となることができたわけである。学校間通信の一こま。
「フランスにはフランスパンはありますか?」(日本の子ども)
「フランスパンという名のパンはないよ。書き添えられている絵を見ると、バゲットだね。日本には日本パンという名のパンがあるの?」(フランスの各学校の子ども)
「日本の郵便の車はどうして赤いの?フランスは黄色だよ。」(日本の子どもの書いた手紙に添えられた絵を見て、フランスの子ども)
 ・・こうして、それぞれの国の子どもが質問と返事を繰り返していく中で、異文化と共通文化とを確かめていく。ぼくは、参観ごとに記録代わりにエッセイを綴った。もちろん、参観の事実の根拠を求めて、フランスの教育システムを確かめるために文献を探し、またフレネの原点を探る。エッセイが一まとまりの量になったので、さて、タイトルをどうするかと考えた。決して自由という文字は浮かび上がってこなかった。ぼくたちが日常使用している自由という概念ではフレネ教育の事実を結びつけることができなかったからだ。「フレネ教育研究のための覚え書き――「フレネ教育」はDirectionとContratによって成りたつ――」。約240枚のエッセイである。これはフレネ教育研究会会報に2回に分けて掲載された。市民的資質の形成、それがフレネ教育の主眼であり、またその方法として自由と自治とがある、というのが趣旨である。
 帰国まで後わずかというある日、パリ・コミューンについての聞き取りのため、元コレージュの歴史の先生のお宅にお邪魔をした。ぼくが調べ上げ、疑問に思ったことについての解決には至らなかった聞き取りではあったが、その先生の口から漏れた一言が、ぼくのパリでの約1年間の生活のすべてが一点に凝縮された喜びに満ちた。「セレスタン・フレネは良く知っている人です。交流がありました。彼はパリ・コミューンからも学ぶところが多くあったようです。そう口にしていましたし、確かそのことを彼も書いているはずです。」
 まだ草稿段階ではあったが、フランス研修の成果報告を意図して、パリ滞在生活エッセイ、パリ・コミューンエッセイ、フレネ教育エッセイを1冊に纏め上げ、『う゛ぁがぼん漂流記』というタイトルの私家本を作り、帰国の手土産とした。体に感じたことを言語化するというぼくなりの生き方の総決算であったように思う。パリ滞在中に知友となった人たちからは「ものを見るということの意味を知った」「改めて他者の視点でものを見直してみる生活が自分の中に形成されたように思う」などというありがたい読後感をいただいたが、日本の人たちからはほとんど反応がなかった。それどころか、「こんなのはフレネ教育じゃない!」と投げ返されることもあった。ぼくの日本社会における不適応は、はやり、拭い去りようもない不信感とともにあることを、改めて悟ったわけである。