フランスの教育制度-「フレネ教育」を論じるために

−以下は、2000年段階の記録である−

1.フランスの教育制度は日本とかなり違う。6歳小学校入学、というのは同じだが、小学校はCP、CE1、CE2、CM1、CM2の5学年制。日本の学年呼称に言い換えればそれぞれ1,2,3,4,5学年となる。しかし、省略文字の意味を考えると、日本の学年制とはずいぶんと違うことが分かる。CP(cours préparataire)とは準備科の意味で、小学校生活の準備を一年かけて行うことになる。CE(cours élémentaire)は初級科の意味。2年サイクルで子どもの学習などの発達を考えるというこの教育制度は中学校にも続いていく。その2年間も必要でない子どもはCE1年間で次のCM(cours moyen)つまり中級科へと進む。人より先に急ぐことはよいことだという観念が強くないこの国では、この「飛び級」を、特段、賞賛されることもなく、それぞれの子どもの「個性」「特性」として受け止めている。もちろん、原級留置についても、同じことが言えるのである。CMも2年のサイクルが準備されている。
 それが終わると次は中学校、コレージュである。コレージュは第6学年から始まり、数値が減少していく。6学年と5学年とは観察期と呼ばれるように、一人ひとりの意欲と適性とを、時間をかけて「観察」し、将来生活の基礎準備のウオーム・アップをする。この観察期は、子どもにとっても親にとっても真剣なものとならざるをえない。将来技術系に進むのか、哲学系に進むのか等々(それはたんに上級学級進学の問題に止まらず、将来の人生設計ともなる)、かなり具体的な進路選択をしなければならないということなのだ。そして4学年、3学年とは指導期とも呼ばれ、子どもが選んだ将来像に向けて、その具体的な指導が行われるわけである。だいたいこの時期に、超エリートになるのか、エリートになるのか、芸術家になるのか、専門職人になるのかなどが決められると聞く。義務教育はここまで。小学校5年間、中学校4年間の計9年制の義務教育。年齢的には16歳で修了する。原級留置(「落第」)になった者も16歳で修了ということになるので、当然、日本のような「卒業」という概念はないわけである。もちろん「コレージュ修了証書」は全員が取得できる。このあたり、中学校課程すべてを終えていないのに「修了」とは何ごとかといぶかるかもしれないが、どの段階を修了したかが問われるのであって、日本の制度とは大きな違いである。
 統計的な資料について目を通していないので、高等学校や大学への進学率がどれほどなのかまでは、ぼくには分かっていない。ただ、2000年の初夏、「バカロレア合格率80%を目指す教育」という記事があったし、それはそもそも1989年の「ジョスパン法」に明記されていることなのではあるけれども、その数値目標が掲げられていることからすれば、かなりの高進学率であることには間違いはない。ついでの話しだけれど、もちろんそうした大量高学歴取得は、いずれの国も同じように、「学力水準の低下」現象をもたらし、大学の補習教育もかなり真剣に行われている。フランスの大学での形式的な意味でのドロップ・アウト率は高率で、学問分野によっては5割に及ぶとの報道を目にした。だから、もちろんのこと、中途退学率も高いとのことである。
 念のため、高校修了者がすべて大学進学の資格を持つのではない。あくまでもバカロレア(baccalauréat;「bacバック」という略称で一般に使われている)という大学入学資格試験合格者に対して大学の門は開かれている。ぼくの知人などは、高校を「中退」しているけれどもバカロレアに合格し、大学に進んでいる人がいる。バカロレアにはすべてに共通のフランス語バカロレア(リセ=高等学校第1学年修了時)があり、それに合格したものがつぎに関門となる、いくつかの分野にくくられた各種バカロレアがある。哲学も修めたい、物理学も修めたい、など、多方面に興味と関心、学問意欲があるものは、それぞれのバカロレアを受験し、合格したバカロレアの分野の学部を選ぶことができる。あまりにも多くの学生が特定学部(特定大学。フランスの大学は、学部が大学、すなわち単科大学である)に集中した場合には、バカロレアの成績によって入学が認められるが、そうでない場合には、希望学部に入学ができる。それらが「就職に有利だ」という実利的な側面は、あまり期待されていないようである。バカロレアに合格したかどうかの方が、むしろ実利的に利用されていると聞く。

2. ヴァンスのフレネ学校にしろマルセイユのフレネ学校にしろ、子どもたちの日々の学習は「個別学習」「一斉授業」(共同学習)「自由発表」あるいは「協同組合」(会議)といった「活動」でカリキュラム(プログラム)が組まれている。参観をしている「日本人」からしてみれば、その学習内容、つまり「教科」プログラムはどうなっているのか、はなはだ気にかかるところである。とくに我が国のように、社会科学、自然科学について、かなり早い時期から教えているところからすれば、「社会」や「理科」に必要な施設・設備がほとんど整っていない、系統的に学習している様子も見られないとなると、基礎学力の構造に疑問を持ってもやむを得ないのだろう。ぼくがそれらを参観していて理科実験らしいのを見たのは、ヴァンスのフレネ学校CP/CE1クラスの「個別学習」時に、男児と女児二人が共同で豆電球を使って交通信号の切り替えの実験をしていたこと、オープン・スクール(パリ)のCM2で同様の作業実験をしていたことのみであった。フレネ学校では「教科」の時間での電気実験ではなく、個別の「興味・関心」から実験をしていたのにたいし、オープン・スクールでは一斉授業形態で行っていた。フランスでは、たとえば理科室だとか家庭科室などの施設はどうなっているのだろうと思い、梶原圭子さんにお願いして、ヴァンス市を含めた近在の公立小学校の実状をたずねていただいた。その結果は、それらはない、ということであった。すると、あの懐かしい、蛙の解剖などはフランスの子どもたちはやらないのだろうか?ミシンで雑巾をつくるなどということはしないのだろうか?蛙の解剖実験はコレージュに進んでからするようですよ、とは梶原さんの返事であった。結局のところ、ぼくの目に映る子どもの学習、指導する教師の活動は、「個別学習」と「共同学習」とで「フランス語」と「算数」を主体としている姿であり、「理科」や「社会」はおろか「教科領域」という枠組み(時間割とそれに沿った教授=学習過程)さえ見ることができない、あるいはオープン・スクールのようなきわめて実験学校的なところでしか見ることができないわけである。日本的に言えば、明らかに「学力に偏りがある」という直感がある。
 それでは、フランス共和国の小学校カリキュラム(プログラム)はどのようになっているのか。「幼稚園と小学校の時間割(1995年2月22日の条例)」によれば、週あたり授業時間数、教科、及びその時間配分は次のようになっている。

Cycle 2 (CP/CE1)    週あたりの総授業時間数26時間
  教科名              週あたり授業時間数
 フランス語               9時間*1
 算数                 5時間
 世界の発見・市民教育         4時間
 芸術教育・身体とスポーツ教育     6時間
 学習案内               2時間
* 1 サイクルの最後の年次で、現代語に1時間を使うこと。

Cycle 3(CE2/CM1/CM2)  週あたりの総授業時間数26時間
  教科名              週あたり事業時間数
 フランス語と現代語*2         9時間
 算数                 5時間30分
 歴史と地理・市民教育・科学と技術   4時間
 芸術教育・身体とスポーツ教育     5時間30分
 学習案内               2時間
* 2 1時間30分を限度とし、現代語の教育を確実になすこと。

 つぎに、各教科の内容領域(区分)はどのようになっているのであろうか。これはcycle2、cycle3共通であるので、以下に概略を示しておく。

 「フランス語」は「話し方」「読み方」「書き方」「詩」「言語的事項」、「算数」は「数と計算」「幾何」「単位」「応用計算」、芸術教育は「音楽」「造形芸術」、他は領域区分はない。ただし、「フランス語」をはじめ、「学習案内」を除くすべての教科において、かなり細分化された指導項目がある(解説書の例示による)。たとえば「フランス語」の「話し方」を例にとってみると、18の項目に区分され、それぞれに小項目がいくつか立てられており、計69小項目の指導項目となっている。もちろん、それぞれの小項目に対して、さらに指導すべき具体的内容が指示されている。かなりきめ細かなカリキュラムが準備されていることが分かるのである。

 これがフランス共和国における基準カリキュラムである。だから、フレネ教育に対して「学力」を問うとするならば、当然のことながら、フランスのカリキュラムに即してどうなのかを問うべきである。間違っても、我が国の学校の実体に即して云々することは憚らなければならないことだ。
 ところで、「学習案内」(études dirigées)とは何か?「幼稚園と小学校の時間割(1995年2月22日の条例)」にはその細目は記されていないので、解説書などでその内容指針を判断せざるを得ないが、端的に言えば、自律的な学習の力を培うための活動の時間ということになる。従来の教育学的区分に従えば訓育的機能を核とした教授=学習領域に相当する。フランス共和国の新しいカリキュラムの特徴である。少々冗漫になるけれども、「学習案内」の具体について、解説書に従って、以下紹介してみたい("Programmes et pratiques pédagogiques pour l'école élémentaire", pp.69-70. Norbert Babin, Hachette Éducation, 1996.による。)
 小学校では、毎日(一般的には一日の終わりに)、学習案内に30分の時間をかける。子どもたちは、もう家庭で勉強を義務づけられるのではなく、授業によって学ぶのである。
 この「学校に対する新しい契約」の精神においては、学習案内は次のようなものではない:
 −子どもがつまずいているレベルの支援の活動や再学習の活動
 −その日や前日のシーケンスの応用練習
 −シーケンス評価
 学習案内は、我々によれば、生徒たちに自律的にする勉強の方法を得させなければならないものである*1。つまり、「全科目にわたる能力」の章の中で、教師が、つまるところきわめて有効に、日々のこの30分を構成する科目を見つけるということである。
 *1 完全に子どもを自律的にする機会は、授業、体育館、図書館…での諸活動の間に、多種多様ある。それで我々は、本書の別の章で強調する必要はない。
 この学習案内の一環として…
         …方法論的能力を得ること、
それは子どもにとって、次のことができるようになることである。
・ 計画準備すること;
・ 効果的で丹念な学習記録をつけること;
・ 知識を習得すること、すなわち、
−再生するために記憶させること、
−応用すること、
・ 情報を収集すること。
計画準備すること
 生徒に以下のことを訓練する:
・ 自身の学習や他者の指示を記録するためにノート、日々手帳を利用すること、
・ ノートを参照すること(たとえば、必要な図書、用品、持って帰るその他のものを選ぶために)、
・ 毎日必要な身の回りのものが通学鞄の中に、用具入れの中にちゃんとしているかを確かめること、
・ 自身の勉強でもっと効果的であるようになること(快適な物的配置、のびのびとした勉強の計画、自由に使うために必要なもの…)、
・ 短期の、中期の自身の勉強を計画を立てること、
・ 共同の勉強において務めを分け合うこと。
学習記録をつけること
 生徒に以下のことを訓練する:
・ 機能的な仕方で自身のノートをつけること(科目、日付、教師による指示…)、
・ 自身の学習記録をさまざまな媒体(ノート、ファイル、カード…)で発表すること、
・ 自身の作品の発表を入念に行うこと(書法、定規を使って下線の引かれた見出し、囲み、色の使用、余白の尊重、改行復帰)、
・ 表現を実際に行うこと(地図、図表の説明、表…)
・ ノート、ファイル、関連書類にデッサンあるいはクロッキーで、説明入りの図で、イラストを入れること(詩、歴史、地理、科学…)。
知識を付けること
 暗唱課題を覚える、つまり:
−再生させるために記憶する(たとえば、詩、算法、要約、足し算あるいは九九の表…)、
−知識を応用する(綴りの練習をする、活用の練習をする、計算練習をする…)。
 これらの要求に答えるために、生徒は自身の戦略とか生徒が適切に答えることを目的とする戦略を利用してもよい。
□ 再生させるために記憶する
生徒は、たとえば次のようなことをすることが勧められる:
・ その「暗唱課題」を、黙読、あるいは大声で読むこと(教師は理解力を確かめることに気を配ること)、
−一目で収まる程度の量の文章
−伏した文章の一部
−いくつかの言葉が添えられている図
・ 頭の中でイメージし、意味をくみ取ること(詩として完全な文章、指標となる言葉、科学、歴史…・の暗唱練習のための重要な理念)、
・ 固有の「こつ」を使うこと、
・ 主題に関して質問された事柄をイメージすること、
・ 目で追うことなく、質問されたこと(あるいは自身で問いを持ったこと)に答える訓練をすること、
・ 次に、目の前に文章を開いて確かめること、
・ 覚えたことを再生する訓練すること(要求に従って、口頭で、あるいは書いて)。
□ 知識を応用する
 これは、主として、練習問題をし間違いを正すことである。これをするために、生徒は次のように導かれる:
・ 頭の中で、授業でやった練習問題を繰り返して行うこと、
・ 最初にやったのと似ている他の練習問題に取りかからせること、
・ 修正させる、もっとよいのは、自ら修正すること、すなわち、
−間違いを見つけること、
−教科書、参考書、授業で使った補助教材、および再読のための他のガイドブック…を使って訂正すること。
情報を収集すること
 生徒に次のことを訓練させる:
・ 調査研究を準備すること(質問事項、録音・録画機材、計測機器…)、
・ 研究発表を準備すること、
・ 研究、調査の作業の結果を、口頭やさまざまな媒体を使って、提示すること、
・ 読んで報告をすること、
・ さまざまな機材や教材を利用すること:使用説明書、教科書、目次、辞書、子ども百科事典、など。
活動の発表は、もちろん、徹底的な性格のものが提案されるものではない。
 これらの諸活動は能動的な勉強の跡のようなものを示すものでしかない。これらの活動はその発表の中で明確にされなければならないし、生徒のレベル、生徒の体験、学年次を通じて繰り広げられるような時宜…にふさわしいものでなければならない。
 活動は、一回限りを目標とするのでも、単発ものを目標とするものでもない。
 要するに、よく知られた「学ぶことで学ぶ」という方法に従って、子どもが必要としている支援をどの子にももたらす…次第にこの援助を必要としなくなるような方法を提供するということが重要である。

 以上、かなりのスペースを割いて紹介してきた。「学習案内」が日本の文部科学省では公式にどのように訳語にしているのか承知しないけれども、子どもの学習活動からすれば「個別学習」であり「自由研究発表」という形に結びついていることが分かるだろう。フレネ教育の視点から見ればごく通例の学習活動である。「学習案内」は、上記のように、プロセスを持った、非常にきめの細かい「自立支援」の教育プログラムである。ぼくが見てきたヴァンスのフレネ学校、マルセイユのフレネ学校、その他のフランスにおけるフレネ方式の教育を、ぼくは「direction−自治と自律の教育」と特徴づけたように、そしてその中で具体的に見てきたように、そこで繰り広げられる「自由教育」とは、きめの細かなdirectionがある。確かに、何もかも教師と教科書にdirectionされている従来型の教育とは異なるけれども、従来型の教育から自由になるということは、けっして学びの活動がdirectionされないということではないのである。
 子どもたちは、現在進行形も含めて、社会の集積してきた財産をその手に入れる権利がある。学校が、社会から隔絶されない限り、その権利を獲得するすべての手だてと内容とを、子どもたちに保障する場であることは、譲ることのできない機能である。学校での学びの活動とは、自治と自律の力を獲得する過程であり、その結果として自立した個人、すなわち市民的資質を獲得した人格として形成することに他ならないだろう。フレネ教育法では、教科領域別のカリキュラムをとらないけれども、「個別学習」「共同学習」等の学習活動を通して、フランス共和国基準カリキュラムに即した内容を、すべて網羅することを心がけている。ある知的分野が、ある子どもに大きく欠落する、ということは起こり得ない配慮がなされている。それが学習計画表であり、その点検の活動である。教師によってのみdirectionされるのではなく、教師、同級生、保護者、そして本人によってdirectionされる学習到達目標を設定し、実践・点検するわけであるから、偏向しようもない。また、本稿では触れなかったけれども、Brevet(ブルベ:仮に「達成度評価」と訳しておく)という評価実践があることも見逃すことができない。何が、どこまでできるのか、子ども自身が評価すると共に教師もまた評価する。このことも学びのdirectionに大きく関わると言えよう。もちろん、子どもの能力に応じて、さらに進んだことや興味深いことへと個別に学習されることは、何ら妨げられないことでもあるし、その逆に、つまずきのあるところは、さまざまな援助・支援を受けながら、時間をかけ、創意工夫を繰り返し、しかし原則を踏まえた学習活動がなされる。
 小さな項目に分けられた学習カードを、随意取りだし、学んでいる姿を見ると、「学習の系統性がない」と心配になるようだけれども、マルセイユのフレネ学校で見たように、ひとまとまりの学習内容が用意されており、そのまとまりを順次進めていくという学習スタイルは、教科書の順次性に沿ってはいないけれども、少なくとも、フランス共和国カリキュラムが大いに推奨しているスタイルである。