邂逅 

某月某日− 45年ぶりのサメのハツ

 とある大きな魚屋の品並べをゆっくりと眺め歩いていた足がぴたりと止まった。生きのいい「目の下1尺」という形容がふさわしい真鯛、目が輝いているおおがらの鯖、中型のでっぷり太った鰹などなど、豪華絢爛たる魚群の隅のほうに無造作に置かれた一辺が60センチほどの四角い桶がある。その中に、赤児の握りこぶしほどの大きさ、ぼくの握りこぶしほどの大きさ、実物は見たことはないが想像するに、鍛えに鍛えたヘビー級ボクサーの握りこぶしほどの大きさの塊が、無造作に入れられていた。目を近づけてみると、間違いなく心臓である。大きな心室に、ちゃんと心房もついている。肉屋ならとにかく、魚屋で心臓など見たことはない。なんだろう?ラベルがじかに貼り付けられていた。そこには「サメの心臓」と書かれていた。瞬時、全体は霞みがかかっているのだが、スポットが当てられているあるシーンが脳裏に浮かんできた。

 東京教育大学に機動隊が突入し、大学が封鎖される直前ごろのことだから1960年年代の終わりごろの1月だったろうか。いやその前年の暮れの月のことだ。その頃ぼくは、激しく繰り広げられていた学生運動には主体的にかかわらないだらしない学生であった。政治運動が嫌いとかしらけとかそんなたいそうな理由付けなどない。たまに気が向けばデモの隊列に加わりシュプレヒコールを叫ぶこともあったが、ただそれだけのこと。きざっぽく言えば一匹狼を気取っていたわけだが、ありていに言えばその日その日を気の赴くままに過ごしていた、そして赴く気は、大半が、ビリヤードなどの遊興に向けられていた、というだけのことである。遊興費はマージャンやパチンコ、アルバイトで稼いでいたが、そういつもいつも勝つわけではない。
 ビリヤードの勝負にも大負けしたある夜、ただ一軒ツケで食べさせてくれるすし屋で板サンに向かって「俺ヨ、もう賭け事やめてーんだよな。でもヨ、下宿してンだろ?そうすっと、暇だからヨ、どうしても、やっちゃうわけヨ。板サン、やめるにはどーしたらいいかな。」と声を掛けた。「道徳の先生が賭け事やっちゃぁ、世の中の示しがつかねーもんな」。ぼくが東京教育大学の学生だということを知っており、大学名をもじって「道徳の先生」と彼は呼んでいた。
「でよ、おれの親方が小さな料亭をやってるから、親方に話してみようか。そこは住み込みで、遊んでいる暇はねえから。」
「住み込みで働く」ということは、気が向けばにしか過ぎないが大学に通うという生活がなくなってしまうことだ、などとも考えられもせず、板サンにぜひ頼むと依頼した。親方―後日、オヤッサンと呼ぶ人―との「面接」が1週間後、そのすし屋で行われた。世にも奇妙な面接だった。指定された時刻に行くと、ただ一人、カウンターの隅に40代だろう、小柄でがっしりした体つきの、温和な顔をした先客が座っているだけだった。板サンに「親方さんはまだいらしてないの?」と尋ねると、明言しない。面接を受けるという意識があるものだから、板サンに対してもいつものタメ口は出ない。板サンが、どうして大学に行かないのかとか、将来は何になりたいと思っているのかとか、いつもにはない話題を振ってくる。ぼくは確か、「今、人生を迷っている時期だと思う」と答えた。「おれは大学で落第を繰り返しているからエリートではないし、かといって落ちこぼれているとは思っていない。大学に行けばエネルギーあふれる友達がいるが、彼らの仲間かと言われればそうだとも言えないし、そうだとも言える。中途半端と言えば中途半端だ。そんな中途半端なおれがこれからどう生きるかと考えると、やっぱり足を引っ張ってるのが賭け事だと考えてしまう。賭け事から足を洗ってみる、まず今やりたいことはそれだ」。そのとたん、カウンター隅の先客が「明日から来い」と低く響きのある声でひと言出し、そのまま黙って店を出て行った。板サンが「今の人が親方。顔役だぞ。道徳の先生、雇ってやるってよ。明日から。」と解説してくれた。顔役という意味が分かるのは、住み込みを始めてからのことである。
 ふと口から出た言葉を真実の言葉へと変えていく、それがぼくの生き方を決定付けたことが人生史のいくつかの場面にある。このときの「賭け事を止める」というのも、無目的に繰り返している生活に退屈していたことで口について出たのであったが、この面接の時にはぼくの真実の要求となっていた。いやそれは、人生の節目を作りたい言葉だったと言っていいだろう。事実ぼくは、翌日、大慌てで荷物の整理をし下宿を完全に引き払い、料亭に住み込んだのだ。帰るところと言えば遠く離れた母のいるところだけ。勉強机も本立ても、その他もろもろの学問に資する物すべてを料亭の押入れ深くしまいこみ、東京郊外の繁華街―夜は色街―のど真ん中の小さな料亭で、夜は社用族と土地成金族の酔客とその酔客たちから金を掠め取るために媚を売る女性客とを相手にした生活を送ることになった。そしてその酒色舞台はいわゆる暴力団が肩をいからせて闊歩する暴力舞台でもあった。さらに、親からも学校・社会からも見捨てられた少年少女たちが、色と暴力の直接間接に巻き添えを食っているところでもあった。ところが昼間は顔を一変させる。繁華街の店々は固くシャッターを下ろしており、そうした店と店との隙間が開かれる。夜の間は固く閉ざしているそこは、昼間、地域の下級サラリーマンや貧困学生が通う安食堂となる。親方の料亭も、裏通りに面したところに、立ち食いの関西うどんを出していた。ぼくは、夕方5時から午前1時まで料亭の配膳係や雑用をこなし、午前11時から午後3時まで立ち食いうどんの店を任せられた。こうして、夜と昼間とがまるで違う顔を持つ都市郊外中心部の実態を肌身を通して知ることになる。この街に住んだのはわずか2ヶ月あまり。しかし、包帯をぐるぐるに巻きつけた白鞘小刀(ドス)を懐手にして「あいつのタマを取ってくる。」と突っ走ろうとする店の駆け出しの「若いモン」、彼よりはるかに小柄のオヤッサンが両の手を広げ「行くならワシと親子の縁を切ってからだぞ!」と地響きがする声で止めかかる。幾度も見た光景だ。ぼくも、街と別れることになる直前の頃は、前に立ちはだかり「行くならオレのタマをとってからにしろ!」と、チンピラやくざ気取りの中学を出たばかりの家出少年を諌めた。家出少女がいるという情報が入ったとき、店の「若いモン」たちがスボンのチャックを下ろしながら走り出そうとした。日ごろから、家出少女は、店の「若いモン」たちの間では、格好の性的標的だと囁かれていた。ヤリマン、タダマン、コウシュウベンジョ。いろいろな符丁が使われていた。オヤッサンは絶対に許さなかった。「素人の女に手を出すな。ぶっ殺す。」このひと言で「若いモン」たちが縮み上がってしまう。「若いモン」たちの血が騒ぐとき、オヤッサンは、全員を客が引けた畳に座らせ、弱い者に手を出すことや一時の激情で見境なくなってしまうことが、どれほどに任侠の道に外れていることかを、諄々と説き聞かせる。彼自身が、性犯罪で懲役を食らったこと、「ヒトの女をふとした出来心で寝取ってしまい、指を詰めさせられたこと」などなど。「いいか、ヤクとカツアゲとスケコマシとコロシだけはするなよ。それをしたら親子の縁切りだと思え。」今の暴力団が聞いたら、いや今の若い人たちが聞いたら噴飯モノだろう。だが、オヤッサンを取り巻く「若いモン」たちは心底任侠道にあこがれていた。だから、オヤッサンの諌めの言葉は彼らの心に響いていく。実際は喧嘩っ早いし、家出少女と聞くと腰が浮くしで、なかなかオヤッサンの言葉を定着させる風ではないのだが、ぼくのようなど素人で新参者が、オヤッサンがいないときに、オヤッサンと同じことを言い同じことをすると、素直に従ってくれたのだから、言葉の意味するところは理解しようとしていたのだ。東映やくざ映画の影響もあったことだろう。オヤッサンは、精神は世捨てであったとしても、肉体は現実社会にある、とぼくに語ってくれた。心はひねくれていても、正業で生きる、これが素人集と共生するやくざの方法だと。彼は幾つもの店のオーナーである。そして学校でドロップアウトさせられ、暴力でしか自己主張できない少年たちを雇用していた。それをうわさで聞いた家出少年たちが彼を訪ねてくる。ほんの数語言葉を交わしただけで、彼は、ほとんどの家出少年たちを家に戻し、両親を説諭して家庭に取り込ませる。まったく教育力を失ってしまった家庭の家出少年のみを彼は「預かった」。店の「若いモン」は、ぼくを除いて、全員そういう出自であった。
 重さんという板前はそうやってオヤッサンに拾われた身であった。3年間店で修行し、10年間包丁を抱えて旅修行をし、オヤッサンに店に戻された。ぼくよりほんの少し歳が上だった。重さんには、グラスの洗い方、その他食器の洗い方、畳の掃き方など、接客を旨とする職業のイロハを教わった。「いいか、道徳の先生、客の中で、おれたちの符丁を得意げにしゃべっているやつがいるだろう、ああいう奴は何でもかんでも知ったかぶりをするだけで、実際は何も仕事ができないやつだぞ。ああいう奴からは金をふんだくっていいからな。」など客あしらいも教わった。ある日のことである。ぼくは10歳から家庭料理をしているから包丁は使えるほうだと自信を持っていた。生き魚を捌くこともできるし、キャベツの千切りも軽快な音を立ててできる。彼に懇願して、泥酔して食事に手をつけていない客の注文の品―刺身の盛り合わせ5人前―を作らせてもらった。彼は黙って傍で見ている。盛り付けをし、客のところに持って行こうと思ったその時、重さんが、ふざけるな!とぼくの頬を包丁の背で叩いた。まさにぼくは知ったかぶりの符丁の客と同じだったわけである。重さんは学校での学力で言えばオール1だったそうだ。しかし、彼の板前としての智と技そしてモラルは、他を抜きん出ていた。重さんと共同生活をして、学校の学力っていったい何なのだ、とはじめて疑問を持った。そして、その疑問は今もなお持っている。もちろん、問は解くためにある。それが今のぼくの教育学研究者としてのこだわりの原点の一つとなっている。
「オヤッサン、例のヤツ、手に入りましたけど、召し上がります?」早朝、築地市場での仕入れから帰ってきた重さんが訊ねた。「ようやったな。もらうか。」ぼくは起き抜けでボウとした頭を抱えて畳を乾拭きしていた。「例のヤツってナンです?」よほど頓珍漢な物言いだったのだろう、オヤッサンに大声で怒鳴り返された。「半人前にもなってないヤツが人の話の間に入るんじゃねぇ!」ぶるぶる震えているぼくを見て重さんは哀れに思ったのだろう、そばに来て「サメのハツ」と囁いてくれた。その場はそれですんだ。オヤッサンがほかの店の見回りに出かけた後、重さんに訊ねた。「サメのハツってナンです?」「サメと言ったらあのサメ、わかる?かまぼこになる魚。」「ハツってのは?」「心臓」。「サメに心臓なんかあるんですか?」などと聞きそうになるぐらいに、初めて聞く言葉だ。それがようやく手に入ったというのだから、よほど珍しいのだろう、それだけではない、オヤッサンほどの人ではないと口に入れることができないものなのだろう。重さんがこう言った、「道徳の先生は、おれたちの世界で生きていく人じゃない。生きていけなくはないが、生きていくべき人じゃない。そのうち、元の生活に戻った方がいい。サメのハツが要らない生活にな。サメのハツは、おれたちの世界では、縁起モノよ。サメって強いだろ。おれたちは、いつも命の裏側で生きている、オヤッサン、ああ見えても、いつも誰かにタマをとられるんじゃねえかって、毎日よ。そんな毎日を送っているおれたちは、サメにあやかろうってわけで。だから、道徳の先生には無用のもの。仕入れてきたハツはオヤッサンに食べてもらうけど、オヤッサン、おれにもおすそ分けくれるはずだ。そしたら、和わさびの上等のをすりおろして、生醤油をつけて食べるぞ。」
 それから数日後の2月の雪の日、機動隊が大学構内に入り大学が逆封鎖されたという電報が級友から届いた。ぼくはオヤッサンに願い出た。「大学に戻らせてください。生きる道を見つけました。」「そっか。わかった。いろいろ世話になったな。若いモンが道徳の先生のおかげで、何人も、命を捨てずにすんだ。礼を言う。」別れの日、重さんや若いモンが荷を車に積んでくれた。彼らが手を出すのはそこまで。あとは素人の世界。重さんが囁いてくれた、「サメのハツ、道徳の先生に必要になるときがあるかもしれないな。それは死にたくなるとき。あんた生真面目だから自分から死ぬ気になる性だ。死ぬんじゃねーぞ、この馬鹿!」

 幻影が頭から遠のき、ボクサーの握りこぶしほどのサメの心臓を買い求めた。心房、心室を切り分け、心房を二つに切り開き、心室を四つに切り分けた。それぞれを冷水に漬け血抜きをする。何度もそれを繰り返す。心房をそのまま口に含んだ。ひやりとした感覚と共にやわらかい、しかしどこかぴんと張り詰めた感覚が口内に漂う。歯を立てると、動物種の肝臓や心臓、腎臓とは違った反応が返ってくる。固すぎず柔らかすぎず。今まで味わったことがあるようでいて、まったく新しい感覚である。切り分けた心室を薄切りにし、また冷水で血抜きをする。家族ともども食べるには刺身ばかりではだめだと思い、半分に塩コショウを振り、日本酒に漬け込んだ。食べる直前に無塩バターで炒めるためだ。1/4は刺身、そして残りはぼくの疲れた心をいつもやさしく包み込み続けてくれている友人におすそ分けすることにした。友人はおっかなびっくりで受け取ったが、「サメハツの味はなめらかな舌触りにびっくり。想像していたより美味に二度びっくり!やはりお魚のハツらしく、お刺身にして食べても、アドバイスどおり炒めて食べてもいいものですね。」との感想を下さった。もっとも、友人には、サメのハツにまつわるぼくの青春日記については、語っていないのだが。