(古稿)ヴァガボンの終着


「もう一度、行ってみたい。」
 前日とうって変わった雨模様、冬に逆戻りをしてしまった土曜日のことである。午前中はこれまでの仕事の整理にあたっていたが、母や担任の教師からよく言われたように「持って生まれた」ヴァガボン(vagabond 移り気な)気質がむくむくとわき起こってきた。
 「貴族の館」が今も残るle Marais(マレ地区)を代表するplace des Vosges(ボージュ広場)へと、小雨の中、歩を向ける。アパルトマンを出てリシャール・ルノアール通りに出る。この通りで日曜市に通いつめ、八百屋のムッシュ、魚屋のマダム、臓物屋のマダム、ラパン・鶏肉屋のムッシュと懇意になった。八百屋のムッシュは、いつもウインクをしながら、荷物の中に一握りの野菜を忍びこませてくれた。忙しいときにはビニール袋をいくつか渡し、勝手に入れて持っていきなさいという、たいへんありがたいサービスをしてくれた。魚屋のマダムはそういうサービスをしてはくれなかったけれど、笑顔をつねに向けてくれた。フランス語の発音はまだだめだね、と言いながら。その他その他。市での買い物の楽しみは、そういったお店の人とのコミュニケーションが持てたことである。また、この場所で、ぼくがラ・コミュヌの史資料の収集の広がりのきっかけを与えてくださった、パリ・タクシードライバー組合のドマールさんと、出会った。ドマールさんとは昨夜、「タクシー」の歴史について語り合った。江戸時代の日本の公共の乗り物であった「駕籠」と同様のものがフランスでもあったことを知り、日仏の文化の共通性に喜んだものである。
 リシャール・ルノアール通りをbastille(バスチーユ)に向かう。すこし回り道になるけれども、バスチーユに行き着くとサン・マルタン運河の発着場へと出る。1日に2回運河観光船が出る。この観光船も、慌ただしく時間に追われることを忘れ、水しぶきを浴び、古人の運輸の知恵をたっぷりと味わうことができた。
 バスチーユからHôtel de Ville(オテル・ドゥ・ビル)方向への道を進む。この通りには19世紀の中頃にブルジョア階級の子弟のために設立された中等学校(エコ−ル・プリヴェ)の校名標識の残る建築物が残っている。ぼくがフランスで始めて目にした教育史遺産であり、フランスの教育の歴史的事象を次第に知っていく発端となったものである。現在はくすみの濃いアパルトマンとなっており、校名標識と正面扉が当時のままである。
 その真向かいにボージュ広場へと抜ける小路がある。ボージュ広場は、ぼくにとって、パリ生活の潤いと数多く出会うきっかけを得たところなのだ。
 6月の半ば頃、友人の小澤允孝氏、瓦林亜希子さん、そしてぼくの3人がボージュ広場のベンチに腰をかけ、暑さをしのいでいた。3人の前にはパリ地図が広げられていた。今自分たちがいるところはパリのどのあたりに位置しているのかを、確認していたのである。そこへ一人のフランス人男性が「お手伝いしましょうか」と、流ちょうな日本語で訊ねてきた。とくに道に迷っているわけでもない、しかも観光客でもないと自覚していたぼくは、「ありがとうございます。でもけっこうです。」と返答した。彼は、「そうですか」と、その場をすたすたと去っていった。しかしぼくは、その頃、「本の喜び図書館」という日本名しか分からない施設について、その所在を求めていたことを急に思い出し、彼の後を追いかけ、その旨を彼に告げた。彼は「私はそれを知りません。フランス名は分かりますか?…分かりませんか…それでは、近くに公共図書館がありますから、そこで訊ねてみましょう。そうなさいますか?」とぼくに確認を求め、3人を先導してくれたのである。その人の名前はローラン・レヴィさん。その後も彼は、「本の喜び図書館」の所在確認、実際の訪問、館長からの聞き取りの実現をはじめ、ぼくたちのフランス滞在目的をていねいに尋ね、彼なりに情報を収集し提供してくれた。託児所、幼稚園、学校、教育研究・運動などの関係機関との折衝もしてくださり、さらに通訳の任を引き受けてくださった。彼に謝礼を支払おうとすると、「友人としての行為ですから」と受け取ろうとしない。さすがにぼくもそのままで済ますことができないと、「もし、秋になって、ローランさんが私のために骨を折ってくださる場合があるときは、仕事としてお願いします」と申し出た。とにかく、ローランさんの「アミ(友情)」という言葉と行動に、どれほど、研究的に生活的に、潤いを得たことだろう。
 生まれて初めてフランス語のひとまとまりの文章の訳出を手がけたとき(ラ・コミュヌ関係資料)、「よかったら添削してあげましょう」と、拙い訳文の細部にわたって、「今から150年前の文章ですから、辞書に載っている言い回しと異なることがあります。今では使っていない言い回しです。」などと、文法事項だけではなく言語の歴史性・文化性について教示してくださった。それだけではなく、「おだて」が上手な人であり、ぼくがフランス語に行き詰まって投げ出したくなっている気持ちの時に限って、「瀬田さんは、こちらに来て始めてフランス語と本格的に触れたとは思えません。感服します。この訳文は辞書に載っていない言い回しですが、これなど完璧にフランス文化を掴んだ訳になっています。」という言葉を下さる。彼は、日本風に言うと、高等学校中退、大学中退という「学歴落ちこぼれ」である。その彼が、歴史・世界・文化などさまざまな領域についての専門的知識と洞察力、すなわち深い教養を持っている事実に感動さえ覚えるし、彼のその教養をもって「アミティエ」としての人間関係を築こうとしている生き方にも多くを啓示される。本来あるべき教師を見るようである。彼ともし出会わなかったら、と考えると、ぼくは、冷や汗が流れてくる。
 ボージュ広場近辺には、ぼくのパリ生活の馴染みが幾つもある。
 カルナバレー博物館はフランス文化史の絶好の案内をしてくれた。とくにフランス革命とラ・コミュヌ関係の史資料は他の歴史あるいは美術博物館をしのぐ質量を誇っている。その近くの歴史文書館はたびたび足を運び、貴重な資料をせっせとノートに写した。フランス語の勉強はこのノート取りで行ったようなものである。おまけにその前庭の石畳は、ぼくを癒してくれた。ヴィクトル・ユゴー博物館では「レ・ミゼラブル」ぐらいしか知らなかったぼくに、彼が国会議員を務めたり、国外亡命したり、あるいは馬肉にあたり続けたけれど馬肉を食べ続けたり、ついでにワニや象、ネズミなども食べたディレッタンティズムの人であることを教えてくれたし、何よりも作家として、その多彩な文筆による形象描写の影にデッサンによる具象の対象化という手法を用いていたことなどを教えてくれた。その他にもピカソ美術館もある。そして、ぼくをパリの建築に導いてくれた書店がある。この書店は「貴族の館」跡をそのまま使用しており、天井には、17世紀頃の絵画文様が描かれている。そして、プレリュード・ドゥ・パリという市民楽団による弦楽演奏が毎日曜日、行われる。何度も足を運び、ぼくが子どもの頃から学生の頃にいたるまで手慰みで楽しんでいたいくつかの楽曲を聴き、昔日を偲び、「今」を慰めることができた。
 その演奏に堪能した帰り道に立ち寄るのが古楽器店である。立ち寄るといっても、店内に入るには、なかなか勇気がいる行為だった。まるで楽器博物館のようなその店には、「フルートが木管楽器である」と言われることが、なるほどと納得がいく、木管のフルートが陳列されている。オルゴールにしても穴の開いた紙製の円盤を手で回すという代物。アコーディオンは鍵盤の前身を見ることができたし、日本明治文学にたびたび登場する手風琴も、何台も置いてある。その他の弦楽器、管楽器が多種多様に揃っている。ハープシコードファゴットなどにも圧倒された。古い楽譜類、音楽にまつわるリトグラフ類も揃っているらしいことは、店の奥の方で整理にあたっているマドモワゼルがいる。その質と量に萎縮してしまい、ぼくのような貧相な人間はとても入ることなど許されない、という感がするのである。
 数度目の10月のある日のこと。立ち寄ろうと店に向かっていくと、これまで聞いたこともないような弦楽器の音色が聞こえてきた。店の前に来ると、たった一人の客らしき人を相手に、店のムッシュらしき人が演奏をしている。思い切って、そっとドアを開け店内に入った。その楽器は、一弦だけでできた琵琶のような形をした楽器を弓で音を出し、左手はオルガンの鍵盤様のもので音階を作っている。足のペダルを振るわせながら、ムッシュはビブラートをかけていた。曲名は思い出せないが、フランス・シャンソンであった。生まれて始めて見る楽器、そして生まれて初めて耳にした音色。演奏が終わると「客」と「ムッシュ」とが会話しているが、ぼくにはさっぱり不明だった。ただただ呆然と、その楽器と「ムッシュ」とを交互に見つめていた。「客」が店から出る時を見計らって、ぼくも店を出た。それからは元に戻って、店の外から楽器のさまざまを堪能するまで眺めるだけであった。
 今日は、おそらく最後の日。幸いあの時の「ムッシュ」がいる。ぼくは勇気を奮って店に入った。すると「ムッシュ」が、にこやかにぼくを迎えてくれ、あまつさえ、大きな手のひらをこちらに差しだし、握手を求めてきた。「今日は、ムッシュ。久しぶりですね。」と挨拶をしてくれるではないか。覚えてくれていた!言葉も交わさず、ただ側に30分ほど立っていた半年ほど前のことを。ぼくは、19世紀中頃の文化・教育について調べている日本の研究者です、もうパリを離れなければならないので、ムッシュの店に入りました、と挨拶した。
ぼくはどうしても、パリの記念がほしくなった。しかも19世紀の楽器を。ヴァイオリンは値が高くてとても手が出せない。かといって、どの楽器とて「安く」はないのだけれど。持ち帰るのにかさばらないものをという欲も出る。となると管楽器、とくにピッコロやフルートが手頃な形になる。1840年に製作された「木管楽器のフルート」の演奏をムッシュにお願いした。柔らかい。暖かい。ぼくの語彙のなかでとびっきり上等の言葉がこんなものでしかないのが恥ずかしい。だけれど「木管」の味がする。それを買い求めることにした。
 「ムッシュ、お願いがあります。これを演奏してくれませんか?」
 件の一弦鍵盤楽器である。「ヴォロンティエ!」(喜んで!)。激しいリズム、ゆったりのリズムを繰り返すシャンソンムッシュが歌う。ぼくも、聞きかじったことのあるメロディーなので口ずさんで、ムッシュと「合唱」した。演奏が終わると、他にいた3人の客が、ムッシュに向かって大きな拍手、ついでにぼくの方にも拍手をしてくださったのは、面はゆかった。楽器名は聞き取ることができなかったが、「モナコでグレゴリアンを教会で演奏するための楽器」という説明を受けた。グレゴリアンというのはおなじみのグレゴリオ暦と深く関係し、グレゴリオ聖歌という宗教歌曲である。きわめて限られた目的のために作られた楽器であり、非常にめずらしいものだそうである。
 最後のお願いをした。「ムッシュ、写真を撮りたいのですが。」フランスで芸術関係の店での写真は、原則的には御法度である。それを承知で、そして無理を承知で頼み込んだ。ムッシュが「ヴォロンティエ!」と再び言う。演奏の姿をヴィデオに、そしてポーズを取っている姿を写真に収めた。この店には、もう一度、何とかして時間を見つけてきたい。ムッシュに写真を渡すために。
 メルシー・ムッシュを何度も繰り返し、店を後にした。店を出るとき、ムッシュが、あなたの買い求めたフルートが日本の平和の精神をさらに高めてくれることを、心から祈ります、あなたの健康を祝福して、と最大の送別の辞を送ってくれた。

プレリュード・ドゥ・パリの演奏風景