<自己実現論に寄せて>

 21世紀はどのような時代になるのだろうか。人々はどのような社会で暮らすのだろうか。このような問いに対する答えを出している書物がおびただしい数で書店をにぎわしている。曰く、国際化時代とその社会、生涯学習時代とその社会、情報化時代とその社会、等々。しかしながら、忘れてはならない問いがある。それは、人々は21世紀をどのような時代につくるのか、どのような社会につくっていくのか、という問いである。
 振り返って20世紀は国際関係においては国家主権の理念を確立し、一国内においては自立した国民を創造する、いわゆる近代主義をばく進してきた。近代主義のもとで、人々は主権者としての地位を得、政治を通して経済・産業・文化等々の諸活動に参加するようになる。だが、その一方で、封建的な支配関係とは異なった新たな支配関係も生じてきている。近代主義が強力な手段とした多数の意志の論理は、近代主義の内においては、少数者の存在を危うくしてきた。また、近代主義が育て、やはり強力な武器とした文明的文化形態は、近代主義の外においては、かつてない「弱者」を生み出してきた。また、近代主義が育て、やはり強力な武器とした文明的文化形態は、近代主義の外においては、かつてない「弱者」を生み出してきた。近代主義とはほど遠いところにある社会がしかりである。さらに、近代主義は「神の領域に近づいた」という比喩で語られるように、「自然」をも人智の対象とするようになり、支配・被支配関係を強めてきている。もちろん、このような近代主義に対しては、常にその脆弱性のあること、すなわち平等を天賦のものとして見なす「個人」が、統制され、管理され、抑圧され、差別されているという側面を見逃すことができないという指摘がなされてきている。指摘されるばかりではなく、それらからの解放の運動もなされてきた。文明的文化形態は、人類の高度な生存を人工的に可能にしたけれども、「自然」常態としての諸個人の生存はむしろ困難になってきているという指摘もなされてきた。そして、やはり指摘だけではなく、「自然」常態の回復の運動もなされてきた。
 これらのことは、近代主義化における教育、すなわち近代教育においてもあてはまる。一定年齢の段階にあるものを一定数、固定した場所(学校)に集め、国家や自治体が定めたカリキュラムに従って、一斉に知識や技術を伝達するシステムを持ち、その伝達のために特別に養成された教師の直接的管理・指導のもとで、主権者を養成する。これが近代教育の特質である。これは機会均等という意味において人類史的には画期的な試みではあった。しかしながら同時に,近代教育は、人的な社会配分を機能として持ったが故に、垂直型ヒエラルキーを形成した。教育によって社会共同体間で支配・被支配の関係が誕生し、固定化されていった。それに対して、機会均等のもとで「知の権利」がすべての人のものとなることによって、垂直型ヒエラルキーでは飽き足らない、すなわち知の社会配分とは異なる道筋の自己実現要求も生み出されてきた。これらの要求は、近代主義に対する懐疑も出来(しゅったい)させ、多様な価値実現の営みを現実にしてきている。伝達・普及を教育方法の核とした近代教育に対して、批判的関係・伝え合い(コミュニケーション)・確かめ合いを方法とした生活的知性・技術の拡充・発展という、水平型学習共同体を創造してきた。このことによってこそ、近代の諸矛盾を相克していく可能性が開かれたということもできるだろう。
 20世紀をこのようにとらえてみれば、人々が21世紀をどのようなものとして創造していくべきかは明らかであろう。「参加」と「共生」と「創造」とが大きな実践課題となることは間違いあるまい。「参加」とは、多様な文化形態を持つ人々が、その自己実現に向けて主体的に社会参加していくことであり、「共生」とは、やはり多様な文化形態を持つ人々が、その自己実現のために「他者文化」を主体的に取り入れていくことであり、「創造」とは、「参加」と「共生」の広がりをさらに豊かにするために新しい社会=共同体をつくっていくことである。
 この試みはすでに始められている。たとえば、市民運動は、その政治的自己実現に向けて議会主義をこえた政治参加を生み出したし、その生活改善の願いは市場原理を超えた生産・消費参加を生み出した。それと同時に、国家主権をこえた地球規模での政治・生産・消費・文化等の諸活動を創造しつつある。また、周知のように、インターネットは人類がいまだ経験したことのない、まったく新しい共同体である。電子共同体と言われるそれは、「参加」主体と「共生」主体によって、日に日につくり替えられている。
 これらの主体者を「市民」という名で呼ぶことは許されるであろう。もちろん近代社会が成立させるに大きな力を発揮したのはブルジョアジーと呼ばれる市民であった。たとえばフランスでは、ブルジョアジーが「自由・平等・友愛」を唱えて主権者として自立する要求を提出した。しかしながら、21世紀に同じ「自由・平等・友愛」を市民的資質としてとらえるにしても、ブルジョア主義的なそれではなく、「参加」「共生」「創造」を付加した主体者としての市民的資質が求められる。それを「地球市民」的資質と呼んで差し支えないだろう。
 本書では、21世紀という時代・社会を、地球というグローバルな局面において、政治・経済・文化等の人類的営みがなされる「市民社会」の到来と位置づけた。そしてその資質形成の担い手はほかならぬ「市民」であるという視点を強く持っている。近代主義が「国家」と「国民」がそれぞれの「自立」を大きな課題として進んできたのに対して、「市民社会」では、「自立」と「依存」がキーワードとされるであろう。現行道徳教育が近代主義の枠組みの中で「自立」をコアにした人格形成を目指しているのに対して、本書では、人々が「参加」「共生」「創造」の主体であろうとすることによって自らの内に出来するモラル感情、すなわち価値実現要求を豊かに形成するための教育システム・方法・内容を明らかにした。「依存なき自立」から「依存を自覚し実践する自立」のための教育、それが本書でいう「モラル・エデュケーション」である。

(出典:川口幸宏「はしがき」 川口幸宏編著『モラル・エデュケーション―市民的資質形成のために』1999.八千代出版社。 i−vページ。)
*絶版