私の教育エッセイ

―「私教育」が「公教育」に従属する源を「私」に探す

1. 問題とするところ
 我が国の教育に関わる根本法(日本国憲法及び教育基本法)には、「学校教育」「社会教育」「家庭教育」の機会が国民に用意されなければならない旨が述べられている。このうち、内容・方法・手段ともに、完全に「私」に委ねられているのが「家庭教育」である。「公」とはまったく別の論理で語られなければならないのが制度理念であるはずなのだが…・。

2. 私の教育エッセイ

 自分史を語ることをお許し願いたい。
 私が生まれたのは1943年。太平洋戦争のまっただ中である。父は、私が生まれた翌年、フィリピンのレイテ島で戦死した。母は、子どもにつがせるべき技術も財産もない親として、「教育を受けることによって子どもが、社会で生きていくための技術を身につけ財産を得ることができるようにするのが、親として残してやれる財産」と考え、「教育」に力を入れた。
 だが、「教育」を親が子どもに残すことのできる「財産」だというのは、実体性のない、不可知的なものでしかない。子ども一人ひとりの個性や能力を十分に発揮・発達させる保障など無く、その社会が学校に委託した選別機構によって、社会的立場を子どもたちに付与していくのが「教育」の実体である。もちろん、この「教育」観は、教育のすべてを言い当てているのではなく、近代学校教育のひとつの側面でしかない。しかし、私の親にとっては、このひとつの側面こそが、自分の子どもの人生にとって決定的であると思われたのだ。
 「教育」を「財産」として捉えるということは、物質的金銭的であるだけではない。社会的文化的精神的であることが期待される。「高学歴」「高収入」そして「安定」「満足」までが期待されるわけであるから、「職業に貴賎はない」とか「世の中には無数とも言える職業がある」とか「個性的で豊かな人生は自分で創る」などといった言葉は建て前でしかない。「自分で選ぶ」ことよりも「権威あるものに選ばれる」ことが「財産」を備蓄していくために必要である。そのために、個性的であるよりも「権威あるもの」の視線にあわせることのために汲々とした生き方が求められる。自らの課題を自ら見つけ自ら学び取っていくことよりも、「権威あるもの」から提示される課題を習得すべく強いて勉めることが「子どもらしい」と期待される。「学習が大切だ」という言葉を耳にすることはほとんど無く、「勉強が大事だ」という言葉を幾度聞かされたことか。「今するべきことは何か、を考えなさい」という言葉は、そのまま「将来にとって有効なことは何かを、何よりも優先させて、勉強しなさい」ということにつながっていた。
 母を初めとして、日本社会全体が、「将来」という不可知性に期待を持って、子どもに接しようとしたのには、それなりの理由がある。それは、教育の営みを通じて、子どもたちを社会化・文化化させようとすることを大きな目的としているということである。
 教育を社会化や文化化の営みとしてとらえることは人類のきわめて早い時期からのことである。しかしながら、その社会化や文化化は、じっくりと時間をかけて、徐々に質を変えてきたのが人類の歩みであった。しかしながら、私の両親の時代頃から、急速に勢いを変えて不透明な様相を帯びてくる。端的に言えば、人々における「地域」観念が消失し始めていた、ということである。「地域」には生産があり、文化があり、生活がある。それが人類の長い伝統であった。しかし、母の世代の頃から、「地域」とは、そこで生を受けた人々にとっては、「中央」に収斂される受け皿として、期待されるものでしかなかった。私の記憶にある「学校」とは、「地域」的なものを「間違い」「悪い」「不合理」だと簡単に切って捨てる力を持っていた。端的なものとして例を挙げるなら、「地域」を象徴する「言語」「人倫関係」「生産関係」がある。「学校」は、このように、「地域」を「中央」に収斂させる受け皿としてとらえることによって、教育を社会化、文化化の営みの最も重要なものとしてとらえていた。
 私にとって、母とは、このような「学校」の代弁者であった。
 子どもにとっての社会化や文化化とは、間違いなくこのような形で進められた。つまり、先人の歩みをモデルとして生きていくことよりも、人類の未経験な姿こそが「真実」であると教えられ、それに対して私は、「本当にそうなのだろうか」と疑念を抱きながら、与えられる「結果」を甘受しなければならなかった。そうしなければ、また、「私」という「個の存在」を確証することができなかった。
 親子の情とか愛とか、そういうものは確かに「親の背を見ながら育って」身につけたものはある。しかし、親の労働など社会参加の技術を自分の身につけ、それによって社会の仲間入りをしたという実感はないし、おそらく事実もないだろう。たとえ「結果」として、親と同じ職業に現在就いているとしても、私は親が家に持ち込んできた教師としての技術は継承していない。それどころか、「地域を捨てる」ことを平然とやってのける、また「母的なこと」に郷愁さえ覚えない。私の中には、親から子へ、子から孫へ、という歴史継承観そのものにが欠落していることに気づかされる。
 そして、私は、つねに不安定感を抱きながら、少年期・青年期を過ごした。「明日の準備のためにこそ今がある」ことが、「自分らしさ」を証明することだ。そのために、「権威あるもの」によって支えられる自分を励みとした。その一方で、「地域」にも「親」にも自分のモデルがないことが、これほどに切ないものであるのかと、苦しみを抱える日々だった。

 自分史を通じて描こうとしたのは、「教育」という名に象徴される近代学校の、一人の人間にとっての脆弱性の事実である。それは一体何にあるのか。「教育は明日の人生のための糧」という教育準備観である。それは国家や社会にとっても同じことで、「教育は時代を育てる営み」「教育は国家百年の計」とも言う。日本の、諸外国から見れば、急進的で華々しい成果を上げた「近代化」は、一人の人間の今の個性、今の意欲を価値あるものとして認めてこなかった。認めるとしても、それは「明日」の準備につながるものとしてのみ意味があった。ひとつの文化の今の姿を価値あるものとしてとらえなかった。価値あるものとして存在しえたのは、「豊かな未来」を保障するものでなければならなかった。
 「近代」とは、かほどに、予定調和的に、希望観測的に、現在を整理するものであった。そのために、人々を駆り立て、「地域」を破壊した。その結果、私たちの、現在および将来は、この「近代」のままであってはきわめて危険な状況が予測されている。
 人間の心身の発達および文化の発展、「地域」の悠久の姿は、私たちの人類の歩みの歴史の中で、大きな転換期にさしかかっている。その転換期をどう生きるのか。まさしく、「今を生きる」ことこそが大きな地球的人類的な課題なのではないだろうか。
 本書は、こうした課題意識を根底に置き編まれている。「今を生きるための教育学」が副題としてふさわしいだろう。

 本書は初め、教員養成や社会教育教養講座の教育学テクストとして企画された。もちろん、その目的は貫かれてはいるものの、さらに幅広く、教育を専門としている人々、教育に関心を持つ人々に読まれても遜色のない内容となった。
 本書には、多くの教育学書に見られがちだった西欧近代中心主義教育体系からの教育解釈とは立場を異とする論攷を初め、伝統的な近代教育(教師中心主義)を脱却し、「国連子どもの権利条約」に示された子どもの人格権に基づく教育創造の実践的課題を探求する論攷、学校中心主義教育体系をどのように組み替え、今を生きるすべての人々にとって、どのように教育を我がものにするかを具体的に提言する論攷、教育文化の多様性と現実の偏狭性について制度論的にあるいは時代史的に提言する論攷が収録されている。
 それぞれが自己完結している論攷ではあるが、全体として、現実の教育に対して、それを批判的に発展させていく課題が提言されている。本書を契機として、多くの教育論議・論叢が繰り広げられれば、編者として、これに勝る喜びはない。 (以下略)

(出典:‘まえがき’i〜iv. 川口幸宏編『新教育学講義』1995年、八千代出版社 現在は絶版)