我が「教育学研究」の振り返り

ぼくは「研究」を仕事としてきた。何を研究して来たのかと問われれば「教育学」と応える(答える、ではない)ようにしている。教育現場や教育行政家たち、実業界からは「実際に役に立たない机上の空論か?」とやや(いや、かなり)侮蔑的な対応をされることが一般的だ。実学でない教育論などは「空理空論でしかない」と、存在する意味さえないというのだろう。明治初期の「近代化」路線と何も変わらない。そういうジャンルの学問であっても、社会の根幹を指し示す哲学や組織学となると,「これからどうあるべきか」を試行錯誤する社会にとっては有用とされ、ぼくの同業者にも社会的活躍の場が提供され、場合によっては「時代の寵児」扱いもあり得る。もちろんぼくには縁のないことだけれど。
 研究経歴を辿ってみると、ぼくは、歴史上の人物を対象化してきたことは歴然としている。いや、それしかない。ペスタロッチ、上田庄三郎、小砂丘忠義、木村文助、セレスタン・フレネ、エドゥアール=オネジム・セガン・・・それぞれの人物が教育史上に貢献した事跡を検証し今日に継承すべき意義ある課題を客観化するという研究か?1970年代の駆け出しの頃のままだったら、「研究の意義と課題」にそう綴ってきただろう。だがそういう大それたことは本心からは綴っていない。
 振り返って見ると、ここに挙げた人物は、青年期に大いにつまずき、苦悩し、ついには人生最後の瞬間まで、「自分は何ができるのか」を、社会的見返りなどを期待しないで生き抜いた人たちだ。
 今、ゆっくりと自分の時間が持てるようになって、2000年のパリ滞在で偶然に出会った、ボーリス・ヴィルデという人の獄中書簡、獄中日記を読み返している。上記の人々と共通する「何か」を見いだし、魅了された感慨が、作業能力を未だ回復ないしは新生させることができていない今のぼくに、強烈に迫ってくるのだ。これぞ、ぼくの追い求めてきた「教育学」だという確信を持って。