戦前生活綴方教育史研究の窓4 ジョン・デューイはいかに評価されたか 2

前便の続きに入る前に、「池田種生」という人がどういう人なのかについて紹介しておく。

 池田種生(いけだたねお 本名:池田胤夫。1897−1974) 教育評論家。日本教員組合啓明会会員。新興教育研究所所員、のち中央常任委員長。『教育週報』紙記者。雑誌『啓明』(第2次)の編集に携わる。全日本教員組合準備会の結成。新興教育研究所の創立に参加。兵庫県生まれ。1919年(大正8年)姫路師範学校卒業後、県下の小学校に赴任。農民の貧窮、教育の後進ぶりを痛感。1923年同人誌『蒼空』を同誌と創刊、啓明会に入会。25年郡内統一学力試験を拒否し、翌年教員生活を退く。上京して雑誌『鑑賞文選』の編集を行う。29年『教育週報』編集部に入社。30年新興教育研究所創立にあたり野上荘吉の筆名で参加、中央委員となる。32年新興教育同盟準備会と改称されるにあたり中央常任委員長に推され、日本プロレタリア文化連盟(「コップ」)の協議員となる。33年新興教育同盟準備会がプロレタリア科学同盟へ発展的解消を遂げるまで関係を持つ。第二次世界大戦後、週刊教育新聞社に入社。著作『日本教育界暴露記』(1930)、『動きゆく社会の教育と展望』(1932)、『プロレタリア教育の足跡』(1971)など。人物研究はほとんどなされていない。

・・・どいうわけで、生活綴方運動の草分け的な人です。

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 彼はそこに自分の本心をぶちまけている。決して歪曲したり、無理に悪宣伝したりしない代わりに、彼自身によって見た通りを述べロシアが決してまだ共産主義の理想に到達してはいないといっている。そればかりではなく「一般経済は明らかにどの点から見ても貨幣経済である。」と言い、経済状態が対外及び国内戦争、封鎖及び飢餓に基づく貧窮からまだ回復していない欧州各国に比べて何ら変わっていないと言っている。

 更にロシアが恐ろしいほどの欠乏ではなくとも貧窮に陥っていることの事実であることを指摘し、階級の区別のあることも「ニューヨークやロンドンに於いて見られるほどの明瞭な区別は有しない。併し区別は確かに存在しているのである。」と言い、金銭が使われてはいるがそれは金銭を未来の行動に対する道具としてではなく、直接的な現在の怡業の手段とみなしていると述べ「制度が明らかに、資本主義的であっても、それは個人資本主義でなく、国家資本主義的である」と言い「併しこれ等の修正は最初の印象を破棄したというよりは、観念を形をかえたのであった。先入主観(訪露前の予想)の明らかな転倒を来したことが私にとっての真の結果であった。」と述べているのである。

 かくて彼は「変遷状態にある国」という題下で彼の印象記はますます深くロシアを見つめているが、彼が児童植民地を訪問した時の印象は口を極めて誉め「私は未だかつてそれほど聡明な、幸福そうな、そして理知的に作業している、かくも大勢の児童を見たことがない」と言って「何を彼等がしていたかということよりむしろその態度や様子が私の心にまざまざと残っている−その印象を伝えることは私にはそれに必要な文学的技巧を欠いているのでできないが、併し真の印象はいつまでも心に残るものである。もし彼等が最も優れた環境におかれた家庭より来た子どもたちであったとしても、この場面は未だかつて私の経験しなかったほどの素晴らしい光景であったであろう」とさえ言っている。また、博物館の印象を述べて青年というよりは成人の男女である団体が20か30毎に訪れている光景に驚き「このような現象は世界中どこにも見られない」と述べ、彼はロシア革命に対してこう結論しているのである。曰く

「恐らくロシアに於けるもっとも意義深きことは、要するに経済的変革に於ける努力ではなくて、前古未曾有宇の民衆文化特に審美的文化の発展の手段として経済的変化を起こそうとする意志であろう」と。更に彼はこれを敷衍して曰く「ボルシェビキの凶暴を連想せしめるようなものは、かえってレニングラードやモスクワに於けるよりは、寧ろヘンリー8世以降の英国に於いて多く見られる。荒廃や美術破壊主義<ヴァンダリズム>の記憶をまざまざと心に描きつつ英国からやってきたばかりだったので、強情なアングロサクソンのために、特に(この点に関しては米国人も英国人も同様だが)英露二カ国の革命中に破壊された芸術品及び建築物に関する対比目録が作られたら良かろうと、しばしば思った。保存に対する関心の積極的なしるしは、ロシアに於いて起こった博物館の素晴らしい拡張と、その増加の中に見られる。なぜなら、博物館とか、歴史的及び芸術的実物に対しての畏敬的関心は、破壊的精神の著しいところでは栄えがたい性質のものであるから。今日もモスクワだけでもおおよそ100の博物館があり、国中を通じ、地方の町々の博物館の数は、現制度の下に5倍以上に増加され、それと同時にそれらの実物を大衆にとって近づきやすく、効果あらしめるようにと努力が払われている。
 

 私はジョン、デュウイのロシアに対する印象の面白さにつられて、彼のもっとも大切なロシアの教育に対する点の紹介の余白を少なくしてしまった。けれども、このロシアに対する根本的な印象が、その上に立てられた教育をより正しく見る根拠となるのである。マルキストでない彼は共産主義の制度に対しては、賛否半ばした感想を漏らしているし、それが完全に出来ていないことを、認めているのは彼としては仕方のないことであったであろう。それならばこそかえって日本の新教育者と称する人へのよき刺激となるのである。(なぜなら彼等はジョン、デュウイのような人が言ったのでないとなかなか信用しないほど固陋だからである。)そこでジョン、デュウイはロシアの教育に対してはどう見たか。精神主義者であり新教育者である彼としては教育こそは重要なる観点であったのだが、彼はそこで言を極めてロシアの教育を誉めているのである。彼は自分の信ずる新教育がかくてこそ実現しうるのだと言い、ロシアに自由がないなどというのは大きな誤りで、デモクラシーをモットーとする国よりもはるかに教育の自由が認められ、限りなき発展が許されていると述べるのである。

 ロシアの帝政時代に於いては自由教育さえが完全に許されないで、フットボールを紹介した教育家で牢獄に繋がれたものがある。それはボールを直確<ママ>に投げることによって爆弾を性格に投げうるように青年を訓練するからだということが、この印象記に書かれているが、その教育家を紹介してデュウイはこう言っているのである。「私の今話している教育家は、自由主義改良主義者として、即ち急進的でなく、立憲的な民主主義者として出発したのだ。彼は学校が新しい型の教育を与えることによって、平和的にかつ漸進的に他の諸制度に於いて要求されている変革を達成しうるという自信と希望とを持って働いていた。改良的教育者より確信的共産主義者への彼の巡礼は、ソビエトの全教育的運動の社会相の象徴でもある。先ず第一に、帝政下に於いてはあらゆる方面に於いて阻まれていたこれらの改革と、進歩的努力とが、ボルシェビストの制度によって能動的に、かつ公然と奨励されたという著しい不可避的事実があった。そしてこれが確かに多くの自由主義インテリゲンチャをしてボルシェビキ政府に対し彼等の協働を惜しまないようにさせた一つの事実である」と述べているのである。

 更に彼はロシアの教育の実情を伝えて

 「生徒が、従ってまた研究とか方法とかが、社会生活から孤立したものでなく、それと関係づけられているのが真の学校であるという考え方は、教育理論の中でしばしば聞くことである。それは何らかの形式をとって徹底的教育改革のすべての企図の基礎になっている考えである。従ってソヴィエト教育の特質は学校内の活動を、学校外の社会的活動の中にうまく組み入れるという考えではなく、有史以来初めてこの原則の基礎の上に、全面的に組織された教育制度が存在しているという事実である。それは我々自身、アメリカに於ける場合2、3の散在せる個人的経営の学校において見られるようなものではなく、上述の教育組織はその背後に、それを支持するところの全統治組織の重圧と権威を備えている」と述べ「西洋諸国の真摯なる教育家が、彼が望ましいと考えている社会との連関を学校内に採り入れる際に、実施上もっとも大きな障害となるものは、大部分我々の経済生活に於ける個人的利得に対する個人的競争と欲望とによって演ぜられているのだということをどうして否定し得るのか私には分からない」と言っているが、果たしてこの中に日本の真摯なる教育家諸君を加えて悪いものか。
 

 私はもう筆を擱かなければならない。私はこの読後感において、彼の言をあまりに多く引用したようである。併しそれは彼の心持ちを伝えて私の主観をなるべく抜きにしたかったからに他ならない。繰り返して言うが彼はアメリカに育った自由主義的教育家である。これをただちに日本に持ってきて、社会的に関連した未来における教育を予断することは早計である。訳者たる山下君もその点は誤解を防ぐために、長文を以て更にこれを批判しているが、我々のこれをとる所以は、彼がかかる境地の人でありながら、何らの偏見なく、正しいを正しいと言い、その真摯な態度を以て、つとめて正鵠を伝えんと努力している点である。と同時にデュウイの言うことならたいていは信じそうなわが国の教育家諸君への、ロシア教育を知る手引きとしてすすめたいのである。これまた、他山の石とも言い得るであろう。

 このジョン、デュウイの印象記さえが、わが国へはゆがめて伝えられて、他に2、3の訳がないこともないがいずれも、省略したり訂正したりしている。本書はその点ではかなり信がおけるもので訳者は序文で自分の言いたいことを言っている代わりに、本文を決してゆがめてはいない。真に教育の発展を思う人に小冊子ではあるが、是非一読を勧めたいと思うのである。(昭和5年11月)