「1843年のセガン」 第1号

まえがき
 オネジム=エドゥアール・セガン(Onésime Édouard Séguin 1812-1880)は、知的障害教育を開拓した人として、教育界においてはほぼ教養的な人物として知られている。しかし、その人物像が明確に描かれてきたとはとうてい言えない。彼自身がまとまった自分史(懐古談)を残していないし、名声の割には、とりわけ人生の前半期(フランス時代)は、その開拓領域、関係機関でネガティブな処遇をされてきたことも大きな原因であろう。また、逆に、その一方で構築されもした彼に対する高い評価が、彼の没後かなりの時を経て、彼の虚像を創りあげてきたことも、見逃すわけにはいかない。
 私は、こうしたセガンの「実像」を知りたい、その上でセガンの史的業績を改めて問いたいと思い、2冊の書物を世に問うた。
 1は、2010年、新日本出版社から上梓した『知的障害(イディオ)教育の開拓者セガン〜孤立から社会化への探究』である。本書では、セガンの生誕事情から生育史、学習歴、社会運動(活動)歴、そして白痴教育開拓歴を、公文書発掘ならびに関係機関等の踏査によって、ほぼ満足のいく結論を得た。これまで語られてきた研究上のセガン像はあまねく虚像として構築されてきた、ということであった。そして、作られた虚像が崩壊してしまおうとも、セガンが残した数々の足跡は、今日、私たちが積極的に継承すべき質の高い、誇るべきものであることはいうべくもない。本書はフランス教育学会の書評で高い評価をいただくという光栄に浴した。
 2は、2014年に、幻戯書房から上梓した『二一世紀フランスにおける教育のための戦い セガン パリ・コミューン』の第一部にセガン論を収載した。これは、前記著書でうまく整理しきれなかった、セガンの教育史上の業績を明確にすることができたと、主張することができる。それは何かというと、セガンは、「白痴の教師」という(独立した)専門職としての自立の問題提起をした、ということである。精神医学の「実験」の対象として扱われていた「白痴は教育によって発達する」という課題に、医者の管理下の下でその指示命令に従って「教育」する定めに置かれていたのが「白痴の教師」だったが、セガンの精神医学界への反発と激しい自己主張(独自な指導計画の立案とその実践)に示されていた、ということであった。まさしく、今日の、障害児教育者の原姿の提出であった。このセガン論を収載した本書は学習院より「安倍賞(学術賞)」をいただくという光栄に浴した。
 さて、一方で、セガンの大きな業績を創りあげる源となった哲学的背景は何であるのか、については、私は、研究史上で常識化されていたルソー主義を廃し、サン=シモン教徒であったことを重視すべきだと主張した。そしてその主張に間違いはないと、今も確信している。それでは、セガンの具体的な活動、理論において、何が、どう、サン=シモン教徒としての立場を見ることができるのか、という指摘はしてこなかった。その専門とは異なる分野の研究者であることから、壮大な哲学を垣間見るような専門性を持たないという自覚からであったし、また、自制をしたということである。しかし、今、サン=シモン教徒としての彼の「教養」の総量を検討するべき時だと強く思う。それは、直ちに、セガンの「白痴教育」の理論的・実践的バックボーンであると思うからだ。
 しかし、今一度、我が国に紹介されている「セガン」の哲学・思想理解をふり返り見ると、理解のための好適な資料、つまり信頼するに足りる文献が非常に少ないという事実にぶつかる。じつは、セガンの著作は、「白痴教育」に関わるもののほとんどが翻訳出版されている。そして、ありていに感じてきたことを言えば、これらの翻訳書こそが、セガンの虚像を創りあげてきた大きな源なのである。セガンの「言辞」として引用しセガンを論ずるにあたっては、そうした文献は避けなければならない。
 ということで、思いあまって、セガンの「白痴教育」の原初的な理論が構築されている、1843年に「公衆衛生と法医学年報」誌に収載された「白痴の衛生と教育」という論文の翻訳を手がけることにした。すでに訳書はあるが、私はそれを信頼することができない故に、あえて、挑戦する次第である。
本稿(随筆)は、その作業のための予備作業として、位置づけられる。