旧稿「2009年4月26日 晴れ」の再考

1.旧稿より
 ピガール通り6の教育施設(これまで学校と訳してきたが、正式機関名はcours)の設置場所について調査。ペリシエ等の『子どもの精神医学の開拓者 エドゥアール・セガン(1812-1880)』により以下のことが分かった。

 建物は18世紀のもので、2棟の母屋からなっている。邸宅はヴィクトル=オーギュスト=エリ・ルフェヴルとその妻によって、70,000フランで買い取られている(ルフェヴルは地主であり、別掲するが裁判の前にセガンを攻撃した人物である)。邸宅は、1844年5月21日に、宿駅長クロード=ガスパル・ダイィに売却された。1852年の土地台帳書き換え記録(セーヌ県古文書館、DP 4, C886)には邸宅の精細な記述が見られる。それによると、総919?で、内、庭道112?、庭591?を含んでいる。そして次の記録がある。1.母屋一棟は通りに面しており、3階建てで両開きの大門が付いている。2.庭道の奥まったところに、もう一棟の母屋があり、こちらがメインとなっている。1階から3階まで、4階は屋根裏となっている。この2棟の母屋は切石作りで、石盤岩の壁である。作りは平凡であるが、アパルトマンの間取りは良く、間借りは容易にできる。8アパルトマンと6つの小さな借り間がある。中庭と庭の間の主な母屋のアパルトマン―そこにセガンが学校を設置したことは疑いない―は、玄関ホール、キッチン、廊下、寝室、書斎、居間、食堂、暖炉部屋が各1付いている。1852年頃には賃貸料が800フランであった。

 ペリシエ等は、これに脚注を付し、エドゥアールが「なお、セガンが非常に慎ましく4階の屋根裏に入居していたことは単に重要であるだけではない。セガン著作の1880年『(教育に関する)報告』の一節を信じるならば(207ページ)、<二部屋>のアパルトマンが語られているようだ。要するに、それは4階で、屋根裏部屋である。土地台帳書き換え記録によれば、書斎1及び小部屋2があり、賃貸料は年間400フランであった。」と綴っている。しかし、『教育に関する報告』同箇所に綴られている内容には、ゆりかごに入った子ども、編み物をしている妻の姿がある。これは1843年以降のことでなければならず、ペリシエらの考察は、エドゥアールのライフ・ヒストリーとは矛盾することである。かつては1843年にビセートル救済院を罷免されて以降ピガール通りで学校を開いたと説明されていたこともあり 、その説明にペリシエ等は従ったのだろう。
 ピガール通り6の教育施設の実践はエドゥアールが「ただ一人で生徒たちと一緒に為した」と、彼は言う 。そして教育の実際は、エドゥアールが望んだように、責任ある地位の者の手によって検証され、その結果、高く評価された。1840年6月24日に、「1838年法」と言われる精神病者のための施設・設備改革の法案を準備した一人であるビセートル救済院長・フェリュスが教育施設に関する報告書を内務大臣シャルルに提出している。それによると、8歳の白痴児に読み、書き、計算、話すことなどの成果が見られること、白痴の若者Mの進歩・向上を自身が目撃していること、生徒Aに対しては3ヶ月でアルファベが綴れるようになったこと、などを内容とし、エドゥアールは「この困難な仕事において、非常に強い意志、驚くべき忍耐そして豊かな人間性」を備えた人物である、と結んでいる 。フェリュスは実践実例に3人を挙げているが、これはエドゥアールが記している生徒3名 と数が一致する。このことから、ピガール通り6の教育施設の子どもは、3名が寄宿生活を送っていたと見て良いだろう。
 またフェリュスは、エドゥアール以外に1人の男性監視人 が子どもたちに関わっていたことを報告している。この監視人とはどのような実践に関わる役割人=人物像なのであろうか。フェリュスの報告書には詳細は記されていないが、エドゥアールは、子どもの側には「兵士のように、きちんと服従することを知っている男性が必要である。」と言う 。また、ピガール通りの教育施設に続く実践の場・男子不治者救済院における実践の報告書で、「たくましい男性監視人」を白痴の子どもたちのためにつけるべきだと述べている 。このことから、心身共に規律正しく、従順で、たくましい男性・「兵士」をキーワードとする監督者の必要を強調するのがエドゥアールの白痴教育の大きな特徴であると言ってよいだろう。「兵士」はエドゥアールの身体状況とは対極の人間像であることも、興味深いものである。
 以上のことを施設面で総括してみると、常時子ども3名、男性監視人1名そしてエドゥアール1人、計4名の居住空間があったこと、さらに生徒が集まる可能性持っていたことなどを考えると、ペリシエ等が言うような屋根裏部屋が教育施設であるには能力不足であると言わねばならない。広大な庭に恵まれたピガール通り6のアパルトマンは、エドゥアールの教育施設論すなわちアメリカに渡ってから発表した学校園必須論の原型であるように思うのである。
2.<今回の考察>
 『1880年著書』に触れられているのは、(現在英語版を所持していないので、フランス語翻訳版に従って述べるが)、セガンは、「1846年著書の最後に、生理学的教育を書くことだけが残されている、と綴った。・・・この若々しい情熱に溢れた著作は、我が息子の揺りかごの側で、その同じ灯の下で、考えという糸をより合わせながら、書かれたものである。その隣の二部屋で、ホーレス・マンとジョージ・サムナーと共に、アメリカの白痴教育の向後について話し合ったのだった。」と書いているところだ(339頁)。
 この住まいをペリシエらはピガール通り6のアパルトマン屋根裏としているのだが、このセガンの記述は1843年12月に白痴教育の場を追放されて以降のことと考えなければならない。その時セガンはどこに住まいを定めていたのか?公的な書類は発掘できていないが、セガンが書いたペレール伝(1847年著作)の著者紹介に、ロッシェー通り(35, Rue du Rocher)に居住していると記している。ロッシェー通りはサン=ラザール駅周辺地域で、やはりサン=シモン主義運動と縁の深いところであった。1843年末まではビセートルに24時間常駐を命じられていたのだから、その後、どこに住まいを構えていたのか、という問題になり、ペリシエらはピガール通り6に白痴学校を開いたという説に乗っかって、上述の記述をしているが、セガンの記述するところを読む限り、1843年の末以降白痴学校を開設した形跡はない。だとすると、ピガール居住説よりも、ロッシェー通り居住説のほうが事実を表していると理解すべきだろう。