セガン1839年実践記録(第1教育論) 訳文と解説

われわれが14ヶ月前から為してきていることの要約
1838年2月15日から1839年4月15日まで
川口幸宏訳

要約と結論
1.
三つの能力、すなわち活動、知性および意志は、人に備わったその他のあらゆる能力を支配する。私がこのように三つの能力を割り振った順は、市井の人に対する影響のその順序とはまるで正反対を表しているが、われわれが取り組む特別な教育を首尾よく導くためにはそれらの能力を発達させなければならず、そのためにはどうしても必要な順序であることを言い表している。
2.
痙攣し絶えず落ち着かずに動いている身躯に出会ってから、私は1ヶ月間かけて、身体が痙攣しないような、不安定に動かないような姿勢を取らざるを得ないようにし続けた。というのは不動の状態こそが、正当な活動を獲得するために必要な唯一の手段であったからだ。兵士の行進、その、頭と腕のさまざまな動きを模倣することによって、子どもは自我という観念を身につけ始めた。
3.
続いて、幾つかの図形から相互に関係しあうものを取り出したり、たくさん並べ置いた図形から違うものを取りわけたりすることによって、非我の観念が生まれた。
この二つの観念(それらは長続きせず、漠とした状態なのだが)は、まさに従順で受動的な活動そのものを得るために必要であった。というのも、人のあらゆる活動は、自分ではない事象と接触することであり、そのことで自我と非我との一致が明確にされうるのである。
4.
これらの前提的な作業は、可能な限り言葉を代表とする表象を用いて、行われた。それで、われわれは、アルファベ25文字の識別作業(アドリアンは言葉がないので、精神的な意味なのだが)にまで至った。私は、それらを、音節グループ、単語グループ、語句グループに分け置いた。そうして、かれがそれらを読んだ。もちろん発語はされない。
命ぜられたままに書くことがほぼ並行して進められた。首や腕に電気仕掛けの機械を乗せているかのように、外在の意志に動かされて、かれは書いた。
この子どものそれ〈この引退した手〉が機能し続けるためには、一体、何が欠けているのだろうか?...
後ほどお分かりになるだろう。
とにかく事実は、きちんとした活動がただ神経質で不規則な活動に取って代わったということであり、このことが、子どもが自分の意志でもって直接関わっている間は持続されていた、ということははっきりしている。
第2の点、知性に移ろう。
5.
アドリアンに一つのものを要求しても、ほとんどそれに応えることはなかった。二つ同時にはまったく駄目。かれに対象物を指し示しても、かれはその名前を教えることが出来ない、その単語はそこに、つまり、対象物のそばに、かれの目の前にあるにもかかわらず、である。しかしわれわれは(発語無しの)読みを交流しあった。すると子どもは自ずと名前を教えるようになったし、ものを隠してしまう前に必ずその名前を教えるようになった。そして次第にかれは、書き文字と発音された単語との関係を理解するようになったし、さらには単語とものとを関係づけるようになった。
計算の理論はかれにはたやすかった。かれと同年齢の他の子どもと遜色ないほどに、簡単に暗算した。
絵画を補助として、かれは表象とそのものとの関係を理解した。アルファベで始められたゆっくりと漸進的な歩みの学習は、この年、居間での200の主要な活動内容の理解で終わった。
このような最終的な結果を得る5ヶ月前には、すでに、知性が十分に発達していた。ただし表現方法はそうではない。(話し)言葉は未だ無い。あれこれくり返して努め、手段を講じてはみたものの、結果は得られなかった。
6.
しかし、言葉のない知性とは一体何なのだろう?...
形而上学者にとって、言葉は観念の典型的な記号である(とりわけ、かれらはきまって、意志と感情との、と付け加えるはずである)。そのことはさておいて、次に進もう。
私の場合には、言葉とは、私がすでに別個に得た活動と知性との結合以外にはあり得なかった。つまり、人間が、動物に対して、おそらく、ただ一つの根本的に優越する能力において、活動と知性とが混じり合って現れてきた、私が得なければならなかった能力とは言葉なのである。
7.
では、言葉とは何なのだろう?
言葉は、現れ方は単純であるが、それが生み出される観点で見れば複雑である。それは異なる二つの現象の結果である。二つの現象とは、すなわち、音声つまり文字通り言い出された声の発出と調音による音声の変化である。
音声は肺から喉頭で生じる。その際、音調の変化はあるが、それが音声の同一性に影響を与えることはない。それで音楽にこそ有効性を持つ。
音楽によって子どもは音声や声を発達させた。その音声や声は、ある種の動物のように、とんがったような激しさで発せられたものであったが。
調音は口の器官のさまざまな運動の結果である。すなわち、内外のこの運動を注意深く観察・模倣することによって、子どもは、フランス語の発音が構成される調音の大部分を獲得した。
8.
うまく言葉が出るようになったので、アドリアンは、まわりの人に、わりに話しかけている。
しかしかれは、読む時にしか、書く時にしか、不動の姿勢を取る時にしか、仕草をまねる時にしか、話さない。かれは、衝動とか欲望とかに駆り立てられてことを行う時にしか、話さない。つまり、他の意志による支配のもとで、かれは話すのである。とはいえ、要するに、かれは働きかけ、思考し、話すのである。だがそれは、厳密に言えば、かれに対して、これらのことを、他者が為さしめようとする条件の下でのことでしかない。
驚くべきことなのだろうか?…
動作は秩序正しくなって、体は秩序に従順になった。
精神はコントロールされるようになって、知性が働き始めた。
音声が発せられ変化させられるように指導を受けて、話すようになった。
だが、まだかれは意志の指導は何も受けていない。
9.
つまり、かれに不足しているのは、意志あるいは自発性である。
(否、食べたい、走りたい、叫びたい、飲みたいという衝動的な自発性は、他の導きが無くとも、人を欲望に駆り立てるのだが)。
しかしながら、知的なかんずく精神的自発性は、観念と感情との二重の領域において、原因を引き起こせば、結果が出始めるのである。
10.
まずは、調子を合わせたり、ご機嫌を取ったりすることが出来るようなものが与えられた機械。
さらに、鉄のごとき堅い意志でもあるかのように黙々と習い、まわりをぐるぐると回る活動的な生活に振り回される、受け身的な存在者。
この二つの立ち位置の中でアドリアンは、絶えず、注意や言葉や命令に責め立てられなければならなかった。注意や言葉や命令は、アドリアンを、わずかな進歩でさえたいそう難しいと苦しめたのである。
11.
このように、かれに意欲の能力が欠けているとすれば、それは、かれの器官とかれの第1段階の訓練という二重の当然の帰結によるものである。われわれが第2段階で発達させることに取り組まなければならないこと、それは発意イニシアティヴによって発現される、意志であり、自発性である。アドリアンはイニシアティヴを為さねばならない。
12.
これを為すために、これまで命令の形でしか成し遂げられてこなかった訓練は、監視という特徴を帯びなければならない。監視とは、悟られないような管理やそれと感じることが出来ないような権威をとり続ける受容的な姿勢のことである。
この時期には、子どもの欲求や欲望に向かっていくものすべては、かれの周辺に円のようにして、離して置かれなければならない。中心にはかれがいるが、かれが欲しがっているものは円周に置かれており、かれはその対象物に向かって、自分の意志によって、自分から手を差し出すことでしか、円周に手を届かせることは出来ない。
意志を否定するようなことは、なるほど、体育、読み方、発音、記憶、などといった身体的知的諸活動によって遮られるには違いない。だからといって、この作業は二次的な位置にあってはならず、くれぐれも、そうした無駄骨を折る子どもを癒してやるようなことがあってはならない。
13.
かつてないほどに、同情、援助、救助、世話といった有害な影響はかれから引き離されなければならない。患者に重病であり、だから手当てをする、とは言わない。ある子どもにお前は弱い、だからあえて歩かせない、とは言わない。世の中のことなど何も知らなくてよい、どうせ何も出来やしないのだから、とは言わない。
毎日、刺激物として、逞しい男性が必要である。歩きぶり、振る舞い、声に力強さが感じられ、そのことで、自信を得させたいとわれわれが願っている人間に影響を与えるような男性が必要なのである。
アドリアンの側には、兵士のように、きちんと服従することを知っている男性が必要である。穏やかで規律正しい男性、為すのか為さないのかのテキパキとした指示は、為すがままにさせるか制止するか、つまりアドリアンが命令に従うかどうかで、為すがままにさせるか制止するかになる。
ただそれだけのことだが、それ以下ではない。
14.
このような精神的条件でこそ、信頼、決断、意志、自発性、勇気の向上が速やかになされ、やがて、先に発達していた二つの大きな能力と平行して進むことになる。
この方法以外では、身体と知性の訓練は、その進歩は不完全でむなしいものという特徴しか残らない。自発性の諸能力はけっして結びあうことはないし、それ故豊かにしあうこともないのだ。
われわれは子どもを暗い部屋に閉じこめ、決して外に出さないようにしてしまうだろう。
15.
待たなければならないと言ってはならない。われわれはすでに十分に待った、すでに2か月を無駄に過ごしてしまった。時を取り戻せるだろうか?2か月を。夏のいらいらさせられる気温は身体的精神的衰弱を強く引き起こしてしまうだろう。非常に遅れている。今度の春までにしか時間はないというのに!…
16.
私はあなたに率直に申し上げるべきだと思う。つまり、大急ぎでこのわれわれが今あるところを不完全ながらまとめ上げたが、あなたに理論と実践との一致を証明したかったのだ。
これは、アドリアンの完全なる発達へわれわれを導く可能性のあるただ1本の真っ直ぐな線として私がかいま見た、論理的な筋道である。あなたが、ご子息のために為し得たであろうけれども為さなかったことについての、まことに残念な証であろう。
17.
この根拠のある助言は、今、あなたが与えることが出来る愛情の非常に大きな証である、ということを、どうか、信じてくださらんことを。
敬具
エドゥアール・セガ
1839年4月23日

1839年4月24日、医学博士エスキロルの同意を得て


第1教育論解題

それまで歩んでいた人生行路とはまったく縁のない白痴教育の世界に踏み出したその最初の足跡が、「H氏へ われわれが14ヶ月前から為してきていることの要約」という記録である。セガン第1教育論と呼ぶことにする。
セガンが白痴教育に関わるに至った経緯については、アメリカに渡って書かれた論文「白痴たちの治療と訓練の起源」(1856年)等に綴られている。そのことについては多くの研究者が紹介しているところなので、ここでは省略をする。
人を介してアドリアンという子どもの教育に携わることになった。白痴教育の先駆者とされ若い頃の父の友人だったJ. M. G. イタールの先導があったという。セガンは次のように述べている。
イタール博士氏はわが父とはヴァル・ドゥ・グラスでの元学友で、私の最初の研究をしっかり指導しようとしてくださった。そればかりではない。彼が1800年来白痴教育に関して集めてきた宝の山=観察結果を一気に私に開示してくれた。それらは、イタールが彼の最初の生徒、かの名高いアヴェロンの野生児に教育を施した際のものであった。彼は、もう決して使うことのない資料を私が意のままに使うことを許し、40年に及ぶ経歴を有する非常にすばらしい仕事を私の若々しい情熱に任せたのであった。
なるほど、セガンの初めての白痴教育実践は、セガン自身が言うように「イタールの下絵による鋳造物」(1846年著書、323頁)とみなされよう。イタールがヴィクトール少年に行った教育・訓練をそのまま想起させられる变述が、第1教育論に見ることができるのである。同教育論は1838年2月15日から翌1839年4月15日までの記録だと記されている。イタールは、1838年に入るとリューマチに苦しんでいた。そして同年7月4日、療養先のパリ西郊外のパッシーで死亡した。とすれば、さほど長い期間、セガンはイタールから直接手引きを得ていたわけではない。イタール亡き後、セガンは当代の実力者の精神医学者エスキロルが開設していた「健康の家」に、毎週、通ったという。エスキロルは、多数の症例研究をもとに、1816年に発表した論文「狂気について」で、「感覚(la sensibilité)」「知性(l’intelligence)」「意志(la volonté)」の能力がきわめて虚弱か欠如しているため「痴愚と白痴とは教育・訓練(l’éducation)はできない」と指摘し、1837年には、論文「狂気について」を巻頭に置いた大著『医学的、衛生学的、法医学的見地の下で考察される精神病について』(全3巻)において、「第14章白痴状態(idiotie)」を設け、白痴は病気(白痴症idiotisme)ではなく状態(idiotie)である、しかし、終生その状態を変えることはない、とした(前掲書、第2巻)。1816年に打ち立てた理論の補強である。その立場からいえば、アドリアンが本当に白痴ならば、イタールの指導も、セガンの実践も、無駄骨に他ならないはずである。何故にエスキロルはセガンの訪問を毎週受け入れたのであろうか。中野善達は、アドリアンの教育を手がける以前にセガンは医学校でエスキロルの弟子であった、としている(中野善達「訳者あとがき」、『エドアール・セガン・知能障害児の教育』中野善達訳、福村出版、1980年)が、それはありえないことである。ほかに要因を探そう。
ジャン=エティアンヌ=ドミニク・エスキロルは1772年フランス・ツールーズに生まれ、1794年から医学の道に入っている。サルペトリエール救済院(現サルペトリエール病院)で、近代精神医療の魁フィリップ・ピネルのもとで精神医学を学び、1805年に医学博士号を得た。1811年サルペトリエール救済院の医師に任ぜられ、1826年からシャラントン救済院の主任医師を務めた。かたわら、サルペトリエール救済院近在のイヴリー通りの私宅を「健康の家」として、精神病者たちの共同生活の場にして、精神療法の医療実験を行っていた。
1840年12月、パリで死去した。
エスキロルの経歴を見る限りセガンとの接点の具体は見いだし得ない。ただ、1805年に学位を得たというのはセガンの父ジャック・オネジム・セガンと同じであり、論文の主査がピネルであることも両人は共通している。イタールがそうであったように、エスキロルもセガンに若き日の想い出を重ねてなつかしみを覚えたのであろうか。そうであったとしても、セガンとエスキロルとを直接結んだことの説明にはならない。この点に関しては、セガンは、毎週子どもたちをつれてエスキロルのところに行った、と回想しているだけである。
「白痴は教育(訓練)不可能である」との学説を打ち立てている精神医学の大家のところに、白痴の子どもたちの教育の相談に赴くということは、論理的には説明がつかない。ただ、セガンが、エスキロルからは「概念」(les idées)を学んだと謝辞を述べている(セガン「遅れた子どもと白痴の子どもの教育に関する理論と実践 不治者救済院の若い白痴者への訓練 第2四半期」1842年)ことから推測できることは、医学の基礎のないセガンが精神医学、とりわけ白痴について、エスキロルに指導を仰いだ、ということである。その際エスキロルは、セガンに、「白痴には教育・訓練の成果は認められることはない」と念を押したことだろう。
この両人の「橋渡し」役を務めたのが父ジャックだったのだろうか。それはありえなくはない。というのは、ジャックはセガンの白痴教育実践に好感を抱いていたようであり、金銭的な援助をしていたのではないかと推測されるからである。
一方、エスキロルはイタールと無二の親友であったとされる。イタールが医学校に学籍登録をするのは1797年のことだが、そこでエスキロルとは終生親密な友人関係を結ぶことになる(ティリー・ジネスト『アヴェロンのヴィクトール 最後の野生児、最初の狂児』1993年、による)。エスキロルは精神医学、イタールは聴覚学。学問的に両人をつなぐものはないように思われるが、イタールは、聾唖と白痴とを関係づけた研究を行っていた。
そして、両人が同一テーマのもとで執筆に参加した著作物も、持っている。ジャン・クリストフ・ホブマン『精神病者と聾唖者に関する法医学』(1827年)に両人が詳細な注記をしたためている。この中で注目すべき記述が見られる。それはイタールによるもので、「全く動物のような暮らしでいのちを紡ぎ、森の中でひとりで生きた人間に見られたある状態が、先天性の白痴なのかたまさか愚鈍・白痴のような状態なのかの検討は、今もなお必要である。この事例のようなことはいくつもあり、その事例の一つとして、今世紀初め、アヴェロンの森に棄てられたひとりの子どものことを挙げることができる。云々」とある。イタールは「アヴェロンの野生児」を白痴の少年だとの結論を出してはいなかったのである。もし白痴の子どもだとの結論を出していたとしたら、イタールはその実践をどのように締めくくったのだろうか。イタールのヴィクトールに対する実践は、巷間で言われているのとは違って、1806年の、いわゆる「第2報告書」を出して以降放棄してはいない。ヴィクトールは1810年まではパリ聾唖学校に留め置かれたし、それ以降1828年に死去するまで、「研究を持続するために」、聾唖学校のすぐ近在の、聾唖学校が所有するアパートで、聾唖学校時代から世話をしたゲラン夫人と共に、生活が保障されたのである。まさに、ヴィクトールは、白痴かどうかを見極める研究の材とされ続けたのである。
ロルも共に、白痴には教育・訓練は不能だという認識で一致していたと考えてよい。その両者がセガンの第1実践の協力者であったというのだから、その内的な理由について考察されてしかるべきだろう。父親ジャックの熱心な口利きがあったからなのだろうか。もっと別の要因を考えなければならない。
セガンは自らの第1実践をイタールのヴィクトール実践のあらゆる成果を継承したと言い、「エスキロルの指導に基づくイタールの下絵による鋳造物」だと記している。白痴に教育は不能だと考える二人が、アドリアンという男の子に対するセガンの実践過程に寄り添うという光景からは、セガンの言辞にも関わらず、それが白痴教育の一端だと考えることは困難である。あくまでも「白痴のように見える」子どもへの教育なのである。何故に、イタールそしてエスキロルがセガンの「指導」にあたったかと言えば、人倫関係はともかくとして、それぞれの研究テーマに誠にふさわしい事例であったからだと言わねばなるまい。イタールは聾唖現象と白痴現象との研究の視点から―アドリアンは唖の状態を見せていた―、エスキロルは、白痴は終生その状態を変えることはない、という立場を失うことはないものの、時代的な動向を直視せざるを得なかった。ピネルの弟子医学博士ファルレがサルペトリエール救済院で白痴・痴愚等を、教育・訓練を目的として集め始めたのが1820年代のことだし、1834年には医学博士フェリックス・ヴォアザンが白痴の子どものための施設を設置し教育・訓練を開始している。ヴォアザンは後、セガンの上司となる人である。また1839年にはビセートル救済院で白痴の子どものための学校が設置された。言ってみれば、セガンの白痴教育は、こうした教育可能性の実験開始の流れの中で進められたわけである。
つまるところ、セガンの第1教育論の結びに「エスキロルの同意を得て」とあるが、エスキロルはこれを白痴教育の成果だと認めたわけではない。あくまでも「白痴のような状態」である子どもに対する教育の成果としたのである。
2.
セガンが教育・訓練をした対象児H...家のアドレアンは、どのような家庭の子どもで、何歳ぐらいだったのだろうか。セガンはそのことについて直接に論究していない。だから、時代的社会的背景や第2次資料等から推測せざるを得ない。
白痴の子どもを個人にゆだねて教育・訓練をするということは、よほどの篤志家(博愛主義者)か、有償で請け負う家庭教師的な存在があったからだろう。子どもの半数以上が、どのような質であれ、学校で学ぶことができなかった時代、すなわち義務教育制度がきわめて未成熟の時代・社会をバックグラウンドとしていることもあわせ考えなければならない。
結論(推論)からいえば、H...家は有資産階級、アドリアンにはなんとしても識字能力をつけさせなければならない事情があった、たとえば財産継承権をかれが継承しなければならなかった、というような。
アドリアンの年齢を推測させる記録がある。セガンが1840年1月、当時パリの最北端に位置するピガール通りに、公教育大臣の認可を得て、白痴の子どもたちのための寄宿制教育施設(coursクル。修了・卒業証書が出ない各種学校)を設置した。この学校を医学博士のフェリュスが調査に来、「(私は見たわけではないが、セガンが)8歳の白痴の子どもに読書算、会話、着衣を教えた(ことを、ゲルサンとエスキロルの両人が保証している)」などと報告書にまとめている。ゲルサンとエスキロルはセガンの第1教育論の実績を保証し、その到達を高く評価した、最初の人たちである。つまり、アドリアンは8歳ほどの子どもであったわけである。
セガンはきわめて多動な少年アドレアンと出会った。自己を律することが困難なこの子に、まずは身体を静止続けさせるという課題を果たそうとする。セガンは、1843年に発表した、初の体系的な白痴・白痴教育論「白痴の衛生と教育」で、次のように書いている。
A... H.... は、抑えの効かない興奮症であった。猫のようによじ登ったり、ネズミみたいに逃げてしまうので、3秒として彼をじっと立たせておこうと思ってもそれができなかった。私は彼をイスに座らせ、私も彼と向き合って座り、私の足と膝の間に彼の足と膝を据えさせ、私の片手は彼の両手を捉えて彼の腿の上にのせ、一方、もう片方の私の手は動いてやまない彼の顔を捉え、絶えず私の方をちゃんと見るようにさせた。寝食を除いて、この状態をじっと5週間も続けた。こうして後、A... H… は不動の姿勢で立ったままでいられるようになり始めたのである。
自己を律することができれば他を模倣する、すなわち学習へと向かうが可能となる。「自」と「他」の関係の取り結びこそが白痴児にとって困難な活動であり、だからこそ重要な教育課題となる。セガンの教育論の白眉とするところである。
ところで、セガンは、人格(能力)を、「活動(l’Action)」「知性(l’intelligence)」「意志(la Volonté)」の3つの系で捉えている。先に紹介したエスキロルの3つの能力の系と異なるのは、エスキロルの「感覚(la sensibilité)」がセガンでは「活動」となっていることで、他は同じである。セガンは、「感覚」訓練の重要性を後に実践課題とするようになることは、付言しておきたい。しかし、「活動」の重視はセガン教育論の大きな特徴である。それは、先に述べたような、自他認識の礎となるが故である。
白痴は教育不能とする立場は、それぞれの能力がきわめて虚弱か欠落しているかだと言い、訓練による発達は望めないとする。セガンは、第1論文では明言していないが、後に、白痴はそれぞれの能力がきわめて虚弱であるが故に個別能力の発達は困難だが、それぞれの能力はそれぞれに依存しあっているのであり、能力の三位一体を図ることによって、白痴は人格発達を遂げることができる、と言う。第1論文はそのアウトラインが描かれていると読むことができる。
具体的には、各能力の訓練がそれぞれ個別に為されればいい、というわけではない。セガンは明記する、活動、知性、意志の順に訓練されなければならない、と。彼の以降の教育論すべてはこの考えに基づいて綴られている。そしてそれはセガンの実践の事実なのである。「静」と「動」を対概念とした白痴教育の出発、そして、模倣、表現(書画、音声)、記憶等々と続く。
発話のために音楽を取り入れていることも大きな特徴である。アドリアンに即して言えば音楽の導入は比較的容易であった。アドリアンはパパ(papa)という発語でさえ困難だったという(1843年論文「白痴者たちの衛生と教育」より)。教育・訓練に音楽を取り入れるというのはセガンのオリジナルかと言えば、そうではない。師イタールもそうであったし、精神医学者たちの白痴教育カリキュラムにも重要な位置づけがされていた。セガンはそれらを、躊躇することなく踏襲した、ということになるだろう。
3
セガンがアドレアンの教育を請け負ったのは、いつからいつまでなのだろう。第1教育論に記された期間では終わっていないことは、先にアドレアンの年齢推測のところで述べたことから明らかである。遅くとも1848年初頭には開始され、ピガール通りの学校開設中までは継続されていたと思われる。それがH…家との契約だったのだろうか。第1教育論15の項で、「今度の春までしか時間は残されていない。」とあるところから見ると、どんなに短くとも1839年一杯までは契約関係にあったと見ることができる。到達をどのようにすえていたのか、そのあたりも第1教育論では不明なだけに、興味が尽きないところである。
なお、セガンは、アドリアン以外にも白痴の子どもたちの教育を請け負っていたと類推される。場所はセガンのアパルトマン。寄宿型の簡素な教育施設をすでに準備していたとみなすことができる。