アパルトマン界隈事情

 ぼくの住むアパルトマンはパリ11区。中国人たちが衣服問屋の店をずらりと並べている。ドアには「小売りはできません」という断り書きがどの店にも張られているので、ぼくには縁がない。その道から小路に入ると、バスチーユ広場に続く道への近道とあって、しばしばその小路を利用する。半年前のほどのこと、サッカーの欧州選手権でフランスがイタリアを劇的な戦いで破った瞬間、そこを通りかかったぼくは、2階窓から水を被されてしまうところだった。ほんの目の先数センチのところに水の塊が落下した瞬間、きっと上を見上げると、中学生らしき数人が笑っている。オヤオヤ坊やのいたずらかいと思った瞬間、通り向かいのホテルから、さらに賑やかな笑い声が聞こえる。目をやると、人間の塊がぼくの方を指さして笑い声を挙げているではないか。そして頭上の数人と声を掛け合っている。向かい側は家族一同で、そして頭上は兄弟であろう、サッカー勝利に浮かれて、ぼくを見せ物にしていた様子であった。そして、それぞれの建物にはHotelという文字を読むとることができた。こういう時でないと、なかなか建物の目印は気がつかないもの。ずらりとHotelが並ぶのに初めて気づいた次第。あるホテルのドアのガラスに張られていた宿泊ガイドを見ると、1泊150フラン、1ヶ月で2,000フランとある。アパルトマンを借りて住むよりはるかに安い値段、いわゆる木賃宿である。(注:当時のレートで1フランは約20円)
 こう言えばお分かりだろうが、ぼくの住む近辺は生活が豊かな地区ではない。どちらかというと下町、スラムすれすれのところもある。ぼくは10歳頃までスラムすれすれのところで育ったから、郷愁を覚えること大ではあるが、さすがに夜中の一人歩きは危険であるため、夜の外出はまずしたことがない。このような下町は、まさに人種多国籍状態、いわゆる不法滞在者も少なくないと聞く。
 アパルトマンのすぐそばのサン・タンブロワーズ教会前広場には、冬を迎えつつあるこの時期にも、ホームレスたちがたむろしている。日が没すると夜の石階段に身を移し、数人が体を寄せ合っている。政府方針が外国人受け入れに厳しくなっているため、滞在許可の更新ができない人たちの中で、故国にも帰れずそのまま不法滞在となり、従って定職にあり就くことも困難、またアパルトマンなどを借りることもできない、そういう状況が重なり重なりしていると、いつしかホームレスとなっている。もちろん政府としてもこのような状況を好ましくは思っているわけではない。
 フランスは思いの外、排外主義思想が強い国である。考えてみれば、西側の大西洋、南側の地中海、その他の大陸続き、すべて他の諸国からの武力、文化侵略を受けやすいし、事実フランス史を紐解けば、他国との戦い・和睦の繰り返しである。イギリスという大国との覇権争いがあった最近の歴史は、我が国の歴史教育の中でも登場してくる。そのような中で、ヨーロッパの中でも特異なフランス固有の文化を育て上げ、守り続けてきたわけだから、自ずと、自国文化を守る気概と誇りは強いものとならざるを得ないし、それを侵そうとすることに対してはかたくなに排他的になる。
 フランス語など少しかじっていい気になっている段階では、フランス人から、そう、タクシー・ドライバーであれ商店主であれ、とにかく会話を交わすやいなや「あなたのフランス語はきれいですね。」とお褒めのコトバをいただくそうだ。しかしそれはけっして誉めているのではないことは、次の段階の親しさにまで行くと分かってくる。とにかく発音の違いに対する矯正指導がすさまじいのだ。ここにいたって、ようやく、対等のコミュニケーションが認められることになる。しかし、この「次の段階の親しさ」に行くことが、なかなか受け入れられない。けっして自宅訪問を許さないし、また彼らがこちらにやってくることもない。自国の文化の象徴である言語が、他文化流にゆがめられてしまうことは、とうてい耐え難いことなのだろう。そういう人たちとは近くない人間関係にとどめておき、自分の「城」を守ろうとするわけである。
 これが、自分たちの生活を侵すという危機感に見舞われると、容易に排他的になることは明かである。1960年代から20年ほどは、フランスの経済発展にとって他国の労働力に頼らざるを得なかった。いわゆる移民(エトランジェ=異国人)を積極的に受け入れてきた。このことによって、かたくなに保守的だったフランス文化に緩やかさが見えてくる。日本からの渡仏も急激に増え、定着していった時期である。ところが80年代に入り経済不況が押し寄せ、失業率が10数%という高率になってくると、再び保守主義が頭をもたげてくる。自国人が失業しているというのに何故移民を受け入れるのかという政治圧力が、とくに保守系団体からなされる。ジャーナリズムもこぞってこれを報道する。この問題に関する書物を読んでいたら、移民を受け入れないだけではなく、移民としてやってきた者をその祖国に帰すべきだ、なぜならその数(人口比)はちょうど失業率に匹敵する、というのだ。祖国に帰って職にありつくことができる者を、何故失業を抱えているフランスが多額の税金を使って養わなければならないのだ、という。この数字あわせは、実感的にはかなり説得性があったと見え、対政府要求デモに、「エトランジェを祖国に帰せ!自国の青年に職を保証せよ!」というのが軒並み増加している。
 政府はこの問題にどう応えるのか。世界中から注目されていたが、いち早く採った政策は、滞在許可書の再交付の手続きを厳しくする、ということであった。滞在許可が下りなければ祖国に帰らなければならない、もしそうしなければ不法滞在者として摘発し、強制帰国の方策をとる。しかし、移民の人たち、すべてがすべて、祖国の生活の場があるわけではない。すべてを無にしてフランスに永住する人も少なくなかったという。そういう人たちにとっての滞在不許可は、流民になれ、とフランス政府が命じることになるわけである。かくて「流民」たちは、滞在許可を持たないまま、フランス国内に職・食を求め歩くことになった。
 しかしフランス政府は、1990年代に不法滞在者に対しては永久に滞在許可をしない、という法律を成立させる。この法律案に激したのは不法滞在者のみではない、エトランジェと呼ばれる人々、その人々に連帯をする人々こぞって、デモを連日繰り返した。いくつかの地域では、数十人単位で長期のハンガー・ストライキに入り、抗議した。
 1996年、サン・タンブロワーズ教会の門戸が大きく開かれ、ハンストに入る人々が迎え入れられた。教会内でのハンストは一ヶ月間続いたが、ある日、機動隊数百人が教会を取り巻き、教会の門戸が内側から開かれた。機動隊が突入し、ハンストの人たちを強制撤去した。もともと多くの移民が働き、生活しているこの地域の人々は、ハンストに加わらないまでも、精神的には支援の立場の人たちが多い。教会の門戸が開かれ法案抗議の人たちが入っていくときには拍手をして応援した。しかし、内側から門戸が開かれ機動隊が突入したときには、唖然とし、強いブーイングの姿勢を示した。何故内側から開かれたものが、再び内側から開かれてしまったのか。
 偶然、ぼくは、その事情を知る公文書を見る機会に恵まれた。
「委員会御中 当サン・タンブロワーズは、貴殿の手によって教会内の不法占拠者を排除されることを望む。かつ、教会内諸行事が円滑に行われることにご協力いただくことを望む。 1996年3月23日」
 この文書がきっかけとなり、他の教会内で行われていたハンストの強制排除がなされる。サン・タンブロワーズ教会は自らが内側から門戸を開けたが、他のところでは機動隊が斧で門戸を破壊し、突入したという。
 サン・タンブロワーズ教会は、そしてフランス国は、それぞれが信義上、法道義上の誤りを犯している。このことはあくまでもぼく個人の考え方だが。
 一つは、宗教者が、自らが迎え入れたものを自らの意志で強制排除をしたという愚である。ハンスト集団が教会内物品を破壊した事実もなく、叛意する理由は何もないのである。あるとすれば、「教会内諸行事」ということだろうか。この点は、次のことと関わって、けっして合理的な理由としては成り立たない。
 あと一つは、国家が、宗教施設内に強制的に介入するという愚である。破壊的行為があったならば、我が国で言えばさしずめ「建造物破壊」という理由(それとて、多くの場合は屁理屈)が成り立つ場合もあろうが、このときの諸事例にはそれは当てはまらない。ましてや「教会内諸行事の円滑なる運営」という要請を受けたとなると、100年近く前にフランス共和国が、それまでの数多くの流血の上に成り立たしめた、「国家と教会とは分離される」という法に抵触する怖れがある。現在でもフランス国内の一部地域で、公費が教会運営援助資金に充てられているという実情を考えれば、政府としてはこの事例を以て今回のことを合法と見なすのだろうが、むしろ一部地域が違法合法という二律背反を、特例として成り立たしめているのであって、二律背反を一般化するということは、国家の法道徳の崩壊を招くもとになりかねない。
 このようなことから、このサン・タンブロワーズ教会は、地元の人にはきわめて評判が悪い。
 このような破廉恥な教会があるが、それ以前は、歴史を作る先頭に立っていた地域である。第二次世界大戦中のレジスタンス運動の一つの拠点があったと聞くし、それより遡ってパリ・コミューン時代、11区役所前のヴォルテール像(今は撤去されている)のところで、政令によってギロチンによる死刑廃止が定められたとき、ギロチンを燃やして廃止を確認した。このときの写真を見ると、じつに多くの民衆が歓声を上げているのだ。ギロチンとはあまり縁のなかった民衆、むしろ彼らを支配しているときどきの権力者や重犯罪人を処刑する道具であったギロチンが廃止されることを、民衆はかくも、喝采を送って受け入れたのだ。
 華やかな権力構造をたどってみる歴史もあるだろう。しかし、ぼくが住むこの地域のような、権力から一番遠く、しかし権力から見れば一番近いところにいる人たちの、生きるための呼吸音を聞く歴史は、そして現実は、人が人としてある証をもっとも示してくれている。