(旧稿)さわやかな秋の一日の散歩にて、つい長舌

 秋はさわやかに決まっている。そういう季節感覚を染みこませてパリにやってきた身にとってみれば、「夏過ぎて秋来るらし」なんてのんびりと構えていたら、間違いなく風邪を引いてしまうだろう季節の移り変わりの足の速さが気に入らない。現に、数日来、室内での素足が耐えられなくなばかりか、くしゃみ、鼻水の攻撃にさらされた。こりゃたまらんと、毛布を一枚重ねて寝る始末。アパルトマンにはもうこれ以上布団に掛けるものはない。後はストーブが待ちわびている状態である。パリの秋は、とにかく、寒い。
 冬物の支度をしなければと街に出ることにした。ところが、何と、さわやかな日差しを浴びているではないか!ああ、これぞ、秋。真っ青の広い空に、真っ白い鱗雲、そして一直線に空を横切る飛行機雲。急遽冬物の準備を外に置いて、散歩の一日に切り替えることにした。さて、出発点はどこにしようか・・・・。
 パリは我が国の首都・東京の山手線の内側ほどの面積しかない。1区から20区までカタツムリの渦巻き状に区割りされている。なるほどパリ市の地図を眺めているとエスカルゴに見えてくるから面白い。我がアパルトマンのある11区は東側にあり、隣り合わせの20区が東端となる。そうだ、反対側の西側から出発し、パリ中心地あたりをうろつこうか。
 秋の日の散策を凱旋門からと決めた。凱旋門はパリ西部の16区、17区、8区の交差するところにある。凱旋門までは地下鉄9号線と1号線を使うことにする。その接続駅はナシオン。車内でいつものようにミュージシャンの演奏に出会う。今回はクラリネットを一人で吹いていた。必ずしも名演奏とは言えないが、テクニックさばきがなかなかである。気持ちのいい日だから、という理屈を付けて、1ユーロのチップをはずむ。ぼくの車両の乗客は他に誰一人チップをはずんでいなかった。最近物乞いの数が増えているような気がするが、不況風が襲いつつあるのだろうか。
 凱旋門は地下鉄、シャルル・ド・ゴール・エトワール駅で降りる。アパルトマンからおよそ30分である。構内に降り立ったとたん、旅行客の群、群。パリは一年中観光客が絶えないところと聞くが、凱旋門は観光メッカとあり、人々がつねに賑わう。凱旋門からコンコルド広場へと真っ直ぐ走る大通りはシャンゼリゼ通り。フランス語表記にするとAvenue des Champs Elyseとなる。「エリゼ広場並木大通り」という意味だ。銀行、旅行会社、飛行機会社、映画館、レストラン等々が並ぶ中、高級ブランドの店がひときわ人の目を引く。
 じつはこの大通りからセーヌ川(ラ・セーヌ)方向に抜ける道沿いにもさらに高級ブランド店が並んでいる。表通りが客寄せのためなら、ちょっと賑わいからはずれたところが本格的な店というわけだ。これらブランド店には客層をチェックする、いわば日本の特定のディスコにしかいない?黒服のような役割をする人がいる。ぼくのようなぼろを身にまとい、髪もひげもぼさぼさ、ぼうぼう、靴は穴が開いているような人間は、まず入店の意志を見せたとたん、その彼に丁重に断られる運命にある(だろうと思って、いつも、そこを通りすぎるのだ)。
 フランス社会内ではまずお目にかかることのできないのが、10代のお娘さん、お息子さんたちが、いくつも焦げ茶紙バッグをぶら下げて、高級ブランド店から、やにさがって出てくる光景である。まあフランスの若者が貧乏なだけ、と日本の若者に言われれば身も蓋もない話だが、「ブランド」という価値が奈辺にあるのかという問いを立てれば、トレンドと同義でしかないのが日本の若者の実状だろう。本家本元のブランド店がそれでは泣くに違いないと思うのは日本の貧乏で貧相な復古爺さんのたわごと。ちゃんと、遠く日本からわざわざ目当てをしてきてくださる大切なお娘さん、お息子さんのお気に召すものを特別にあつらえる、という商売上手なのである。したがってこの店々は、フランスの、パリの人たちには、さほど人気があるわけではないらしい。
 日本の若者たち、おばさまと、おばさまにせかされるように財布持ちの旦那様の入店出店の様子を、珍しく、ブランド店前にあつらえられた歩道上のベンチに、お昼のクラブ・サンドイッチ(かたいのなんのって、なけなしの歯がかけてしまう!)を頬ばりながら、腰掛けて眺めていた。10分間に15組(のべ34人)の、明らかに日本人客があった。非日本人はわずか3人である。頭上のプラタナスの木から、朽ちた葉が落ちたのはどれほどだったのか、数えていなかった。掃除のお姉さんが2度往復し、ぼくの足下の吸い殻、紙くずを拾っていた。・・・でもさ、ぼくの着ているバーゲン服と若造がこしゃくにもお買いあげになられたブランドの服と、どこがどう違うのか、あ、かかる金額が雲泥の差だということだけは分かるけどサ、それを除いてはぼくにはさっぱり分からない。
 ベンチでの妄想にくたびれたので、散歩を続けることにする。それにしてもきょうは裏地の破れたジャケットを着込み、背には空のリュック、肩からセカンドバック、腰にはポシェットといういでたち。珍しく黒の革靴を履いている。ちなみに、リュックはやがて「紙屑」でいっぱいになるはずであり、セカンドバックの財布は空になるはずであり、ポシェットの中のタバコは買い換えられるはずである。
 Aux Champs Elyse!(「オー、シャンゼリゼェ」)などと鼻歌が出れば、ぼくも、日本ではひとかどのパリ通になるだろうところだが、ここのどこがいいのか、どこを見ても人、人、人・・、そしてぼくには用のない店が建ち並ぶ。プラタナス並木がやっと秋を教えてくれるのみ。
 写真を撮るために車道に出ている観光客に車がていねいに止まって待ってくれている。でも、撮り終わったあと黙礼一つするわけではない。広い歩道に数十人が団子になっている黒っぽい集団が、大声で名前を呼び合い、叫びあい、けたけた笑っている。見ると「TOYOTA」の看板の前だ。車ショーか何かを見に来たのだろうか。団子の群が通行人のじゃまになっていることは明かで、「パルドン」、「エクスキューゼ・モア」の声がそのたびに出されているけれど、お構いなしに叫声を続ける。たまりかねて、「通行人がすみませんと声を掛けているのですから、少し道をお開けください。」と声を掛けたけれど、「あ、そう」の一言で、微動だにしようとしない。さらにたまりかねて、昔とった杵柄の「巻き舌使い挨拶」をしてやったら、やっと身をずらせて、道を空けた。ワレ、どいたらんかいっ!!身内内の「挨拶」行動は、それこそ地面に頭が着くほど下げてする人間が、身内外に対してはむしろ反り返ってしまう。おぞましい文化性をパリでさらけ出している。これで金をばらまかなけりゃ、とっとと追い出されるところだ。そういうことぐらいは事前に身につけてきて欲しいものだとつくづく思う。
 いや、今日の散歩はこういうことではなかったはずだ。さわやかな秋を確かめ、和み、そして惜しむ一日にする予定だった。とことことこと、プラタナスの木を見上げ、色づいている葉の間からこぼれる青空と、自ずと視界に入ってくる屋根裏部屋のたたずまいを楽しみながら、シャンゼリゼを進む。やがて、ブティック街を過ぎ、歩道の、車道と反対側がマロニエの生い茂る公園道に景色は変わる。公園道の端は昔ながらの、パリ特有の建築物が建ち並ぶ。このあたりになると、観光客が極端に少なくなる。ジョギングを楽しむ人、ベンチでしっかりと愛をささやきあう人、読書をする人が主役を務めている。ぼくはマロニエの木一本一本を見上げながら、葉の四周から次第に枯れていくのを眺めては口にする。「あ、この木の葉は、虫がついたのだろうか。枯れ方が他のとは違う。ハッパが朽ちたように枯れていっている。」「見事に揃った枯れ方だな。このマロニエの木は全体で意思統一でもしているのだろうか。さあ、秋だ、枯れ方ヨーイ!!なんて。」パリには珍しい土の道が足に和む。昨日降った雨で少し柔らかさが増したようだ。マロニエの実が、落ちた枯葉から遠く離れて、落ちている。その数は少なくないから、人手にかかったものではないようだ。コロコロコロコロ、あの不器用な、栗のような統一のとれた形ではない、一つひとつ形が違う、それでいて円形を保っているマロニエの実が、殻が弾け地面に落ちて転がり出し、風雨に打たれてさらに転がり、したのだろう。この実は、やはり、大地に帰り、若木に育つのだろうか。いや、人工化された公園の並木では、実の命はこれで終わりなのだろう。一つたなごろに乗せて、コロコロところがしてみる。
 光沢のある実をそっとぼろジャケットのポケットに収めて、歩みをやや早めた。
 マロニエ並木の公園が終わる。にぎわしさが戻る。目の前には天にも届けとばかりの大きな観覧車がゆったりと回っている。フランスでは観覧車は常置されているというよりは特設されていると言った方がいいと思っていたが、この観覧車は常置されるようになったのだろうか。振り返ってみると凱旋門の威容、そしてこの観覧車の異様。対極で向かい合ったそれぞれで、人々は、上空からパリを一望することになる。ここはコンコルド広場。ゆったりとくつろぐ人もいれば、記念写真に熱を入れる人々の多くの群もある。そして高い木は一本とてなく、古風な石畳ではなく大きな平たい石がモザイク模様に敷き詰められている。フラワーポットの草花が、赤や黄色に咲き乱れる。秋はまさに人工的にあつらえられたこれだけである。
 観覧車の裏手に回ると金色に輝く大きな鉄門。それをくぐりぬけて入るとルーブル宮殿のジャルダン(庭園)となる。噴水のまわりで鳩が水浴びを楽しんでいる。そのまわりでイスにのけぞるように日光を惜しみ楽しむカップル。これからは太陽の光が恋しくなる季節になる。今日のような日こそ、パリジャンは、こうしてつかの間の日光浴を楽しむのだろう。ぼくも二つイスを並べ、鞄を枕にリュックをマット代わりにし、体にはポシェットだけを残して、背中を太陽に向けた。ほんのりとした暖かさからじんわりとした暖かさへと、背中が変わっていくのを感じることができる。うとうととし始めたのはものの5分も経たないうち。
 閉じている瞼になにやら黒い影がスーと走る。目を開けると、目の前に、白黒模様の尾の長い鳥が舞い降りてきた。詳しく名前を知らないのは残念だが、日本の我が家の庭、前の林あたりで、今頃ギャーッギャーッと啼く、カラスの一員、オナガとよく似ている。たった一羽だけしか見かけなかったし、鳴き声一つ立てず、すぐに飛び去っていった。ぼくもイスから身を起こし、広大な庭内を歩き回ることにした。世界に誇る宮殿の庭園らしく、あちらこちらに彫刻物がある。こちらの方はとんと鑑賞眼がない。が、一つひとつの作品に立ち止まり、顔の表情、体つきなどの鑑賞を始めた。
 美術館の建物(宮殿)は偉容である。壁面高く、石で作られた人物が何人も立っている。これらは一つひとつ表情が異なり、人名と年代が併せて彫られている。つまり、フランスの歴史を語る人々が顕彰されているわけである。これほどまでに威厳を持って存在する人物像は、他にはソルボンヌ大学構内を歩いたときに発見した以外にないと、ぼくは思う。ただ、そこここを確かめたわけではないけれども、思わぬところにコンドルセ像があったりヴォルテール像があったり、ルソー像があったりとするから、街全体が歴史を作り育てた人物を大切にしていることは、薄々感じていたのだが。
 ルーブル美術館への入り口である、総ガラス張りのピラミッド型の建築物を目の前にして、ぼくの足は右に折れた。そろそろラ・セーヌ沿いに、パリ名物の露天古書店が立ち並ぶところになるからだ。
 ラ・セーヌの水は黄濁色。ゆったりゆったりと流れる。きょうは砂利運搬船が橋脚の間ぎりぎりに通り抜けていく。彼方に観光船が人待ちでいる。初めて見たときにはなんて汚い水が流れているのだろうと思って眺めていたが、オーブ、ヨンヌ、ロワーヌ、マルヌそれぞれの河の流入を受けるラ・セーヌは、ヨーロッパ大陸の土を刮いでくるわけだから、透明度を期待することの方がおかしいのだろう。全長775キロメートルにおよぶこの河の標高差はわずか470メートルしかないとか。かつてはこの川岸でおかみさんたちが洗濯をし世相を語り合っていたはずだ(洗濯することを「川を打ちに行く」と言っていたそうだ)。石鹸が「発明」されて河の汚染が問題になり始めた17世紀には、「川を打ちに行く」洗濯は禁止され、やがて洗濯を専用とする「洗濯船」がセーヌ川に浮かぶ。今日のランドリーのはしりである。「洗濯船」は第二次世界大戦後もしばらくは浮いていたという。もちろん今日では、ラ・セーヌ上に浮かぶのは、なぜあれに乗るのかとんとぼくには理解できないのだけれども、観光客で満員の船、そして産業船のみである。この川はこれから水かさを増す季節。そして真冬を過ぎて春の匂いが真っ先にやってくるのがラ・セーヌ。山々の雪が解けセーヌ川に到るとき、セーヌ河畔のケーと呼ばれる遊歩道が姿を隠す。ただ、今は秋。夏の乾いた季節が終わり、雨が多くなり始めた。9月半ばにここを見たときよりは、水かさが増し、水の黄濁色がいちだんと激しい。もちろんケーはまだ健在だ。和むようにケーをゆっくりと歩く。
 そのままケーを歩いていくと、やがてシテ島の端、つまり、ラ・セーヌがシテ島を包むように二本に別れる枝の元に到る。そこには、ラ・セーヌで一番古い橋、ポン・ヌフ(新橋!)がかかる。フランス映画の名場面でもあり、観光船の発着場でもあるため、人々で賑わう。が、ぼくはその一つ手前、つまり、凱旋門エッフェル塔寄りの橋がことさらお気に入りだ。 なによりも、その橋は、車が通らない!木が張りつめられたポン・デ・ザールを渡るべく、堤防に上がる。橋元には、数人の若き画家たちが、水彩画を描きながら、作品を売っていた。それにしてもみんな同じ構図。エッフェル塔凱旋門・・・。絵はがきそのものの構図がぼくには気に入らない。ただ一人、女性の画家が、草花をメインとした風景画を描いていた。明るい!まさに「華の都・パリ」をそのままにキャンパスに写したようだ。だけれども、ぼくのパリはくすみ色なのだ。「華」ではなく、単色の濃淡、まさに墨絵の世界がぼくのパリなのだ。そういう絵画は描かれないのだろうか。
 木!木がこれほどまでに体になじむとは!アパルトマンは赤いカーペットが敷きつめられ、キッチンとバスルームはタイルがむき出しだ。パリに来て足裏に感じるのは、布の柔らかさとタイルの冷たさ。そして靴底を通して感じる石のでこぼこ。思わず靴と靴下を脱ぎ、素足でポン・デ・ザールに立つ。けっして暖かくはない。むしろひんやりとし、やがて冷たさを感じる。しかし、感じる弾力は布のそれではない。小学校・中学校の廊下を思い出させる。懐かしい足裏の味。橋のベンチに腰を下ろし、行き交う人々の表情を見つめる。老夫婦が手をつなぎ、語り合って過ぎていく。橋に腰を下ろしてギターをつま弾く若者、その隣でデッサンを楽しむ日本の紳士風、カメラアングルを盛んに定めようとしているアフリカン、多種多様な人々が、それぞれの目線でパリを収めている。凱旋門シャンゼリゼあたりで同じ光景を目にしても、こうした落ちついた心が湧いてこないのはなぜなのだろう。クシャン!くしゃみを飲み込むようにしたが、音がつい漏れてしまう。フランスではくしゃみは人前でするものではないと、フランス風俗史の本から学んだぼくとしては、このくしゃみはとても恥ずかしいものだった。あわてて靴下を履き、靴を履き、背にルーブル宮殿、前にフランス学士院を眺めながら、ポン・デ・ザールを渡り終えた。
 ラ・セーヌの対岸に出る。右手に行けばオルセー美術館エッフェル塔へ、左手に行けばカルチェ・ラタン。今もなお世界各地から集まって若き頭脳が新しい言語、新しい生活、新しい文化、新しい学問を作り続ける学生街だ。それにふさわしく作られたのかどうかは知らないが、ラ・セーヌの護岸壁に沿って露天古書店がずらりと並ぶ。パリ観光のメッカの一つである。今回の秋の散歩の主目的はここを一軒一軒丹念に眺めていくことだ。その前に、挨拶に寄っていかなければならない。
 学士院の建物が切れたところに、ぽつねんと、本を抱えている人物の彫像がある。CONDORCET(コンドルセ)という名前の他には何の説明もない。しかし我が教育学の世界ではフランス革命期に『公教育の原理』を謳った人として銘記されている。ぼくが挨拶に寄るのはそのためではあるが、それだけではない。
 パリに来て西も東も分からず、書店に入るのもためらうほどにノミの心臓だった頃(ちなみに、今はアリの心臓程度だが)、思い切って飛び込んだ古書店ムッシュに、手当たり次第、フランスの教育学関係者の名前を並べ立てSA ICI?と訊ねた(ここにあるか、という問いのつもりだったのだが・・・・)。ムッシュの答えはノン。肩を落として店を出、行き当たりばったりに歩いていて出会ったのがコンドルセ像だったのである。もしかしたらさっきの本屋に、先ほどは思い出せなかったコンドルセの名前を出せば、何かあるかもしれないと思い直し、今度は、コンドルセの名前のみを出した。発音がうまくできなくて、ムッシュに何度も聞き返された。今ではとても優しく、暖かく見えるひげ面のムッシュ、その当時は厳めしい古本屋の親父という風情で、ちょっと待って、と手振りをする。書棚から取り出し渡してくれた本が、"VIE DE MONSIEUR TURGOT."(ヴィー・ド・ムッシュ・テュルゴ:テュルゴ氏の生涯)という表題の本である。ぼくにはコンドルセとどうにも結びつかなかったが、その雰囲気を察してか、古書名鑑のようなものを取り出し、コンドルセの項目を指さしなながら、同書が確かに彼の著作の中にあることを証してくれた。発行年は1787年とある。フランス革命直前に出版されたもので、後で知ったのだが、コンドルセの名著なのだそうだ。かくてぼくの蔵書中最も古い本が手に入り、その後、その古書店ムッシュと昵懇の仲?になり、何かと研究資料収集のお世話になっているわけである。
 コンドルセ像との出会いからパリ生活が、とくに研究面において広がりと深まりを見せてくれたのだ。挨拶しないで通りすぎるわけには行かないではないか。コンドルセ像はぼくにとってはパリの湯島の天神様なのだ。
 ところで、古書店で大切な古書を入手した日、コンドルセの著書をなでるようにして読み始めたが、どうにもTURGOTの文字が気になって仕方がない。どこかで見た気がするのだ。もちろんこの名前は日本で知ったのではない。・・・そうだそうだ、fnac(フナック。フランス国内にある書籍・文具・カメラ、音楽関係等の総合店)の書籍部で、真新しい、しかし内容は古ぼけた「テュルゴの地図」(ルーブル博物館所蔵の複製)が売り出されていたっけ。その地図は1739年のものだったはず。その頃、1871年のパリ・コミュヌについて調べ始めていてナポレオンⅢ世のパリ大改造に出会ったばかりである。オスマン計画によって今日のパリの街並みの基本が作られたが、その発想がすでにその100年前の「テュルゴの地図」の中に見られるのである。何だ、そうだったのか。かくして、ぼくの中では、フランス革命期、パリ・コミュヌ期、そして現代と、三つの100年単位の歴史の点が結びつき、念願の「市民的資質形成」のための教育論の歴史的外枠が作られたわけである。
 天神様ならぬコンドルセ像と別れ、今度こそ露天古書店の並ぶ護岸壁に沿って歩き始めた。フランスの昼休みがちょうど終わった時刻のこととて、ぼちぼちと店を開け始めるのが多い。屋根代わりになっている覆いがちょっとでも開けられるとヌッと顔をつっこみ、老眼鏡をしっかりとかけ直し、一冊一冊、背文字を読む。何でもござれの店もあれば、きちんとジャンルを定めている店もある。カルチェ・ラタンへの入り口、サン・ミッシェル駅までおよそ20軒はあるだろうか。明らかに観光客相手が中心の店もあれば、特殊な専門性をカラーにしている店もある。残念ながら教育学専門店はないが、たいていは歴史専門店で教育関係を見つけることができる。ぼくの教育史研究は、これまでもっぱら非権力者の側に焦点を当ててきたが、パリに来てから、少なくない変更を見せている。というのも、もちろん非権力者の側の生活の論理を明らかにするためではあるけれども、フランス王侯貴族の生活、とくに教育にも、資料的な意味で関心を強く持ち始めた。それはもちろん某女流作家が「第二次世界大戦中、左翼の人は、暗かったと言うけれど、銀座には明かりがついていました」などという言葉の遊びとしか思えない、まやかしの生活派に組みするためではない。ジャン・ジャック・ルソーの教育小説『Émile, ou de l’éducation』(エミール)は貴族婦人に子育ての書を書いてほしいとの依頼を受けて執筆した、ということが内的なきっかけである。本質的には歴史をトータルにとらえることなくして、人々の生活の論理、教育の論理を解き明かすことなどできはしない、ということを痛感しているからである。あまりにも偏向していたぼくの歴史実証スタイルを改めるため、露天では、どちらかというと貴族の生活、教育の実相が分かるような資料を求めた。
 ある露天ではフランスで一番古い図書館を作ったというMAZARIN(マザラン)の伝記(限定出版もの)、別の書店では「プリンスの教育」という本を買い求めた。いずれも日本円にして1000円弱。ゾッキものなのか、稀覯書なのか、そこまでの判別能力はない。後者は図説が入っていて、時代の文化性を確かめるには、絶好である。さらに何か面白いものはないかと、今度は書籍以外にも、たとえばリトグラフ・新聞の類にも目を配ることにした。こちらは本と違って、ファイルされているものを一つひとつ確かめるわけだから、自ずと店の人の目線が注がれる。たいていは「オリジナル」と書かれているけれど、まずは眉唾と思った方がいいのが多い。フランス革命期のオピニオン紙が数多くファイルされていたので、「これは!」と唾を飲んだが、印刷文字が明らかに写真複製。値段も500円もしない。何、内容が大切さ、とは思いつつも、複製品に「オリジナル」などと表記されていれば、内容までまがい物に思われてくる。その店は、今後は寄らないことに決めた。そういう店が半分ほどはある。
 次はポスター様のものがたくさん陳列されている店だ。よく見ると、レストランのメニューらしい。こんなものまで商売になるのか、と思って通りすぎようとしたが、待てよ!食のない生活などあるものか。食卓は語らいの場。その語らいの場で、敬虔さや謙虚さや、常識や、その家族独特の文化などが伝えられてきたのではないか。レストランとなればやや家庭とは異なるが、その時代その時代の文化を象徴する一つである。1700年代からのレストラン・メニュー、あるいはその表紙が揃えられている。1800年代後半はないものだろうか。かのヴィクトル・ユゴーがワニや象をレストランで食べたというが、その証明となるものはないだろうか。だんだん興味が具体性を帯びてくる。店の若いムッシュが近寄ってきて、ここはレストラン・メニューを売っているのだが、それでいいのか、と確かめる。ウィ。どこから来た、レストランを経営しているのか、などと矢継ぎ早に問いを入れてくる。客が立ち寄るのが珍しいのだろうか、それともぼくのいでたちが異様だったからか。どんなメニューがほしいのか、には困り果てた。どんな、ではなく、いつ頃の、と聞いてほしかったのだ。仕方なく、フランス語では数字を言うことができないので、紙に1860−1870−1880と書いて、彼に示した。ウィ。彼はリトグラフを取り出した。何と、日本風に言えば「軍御用達のお店」のメニュー表紙なのである。 しかも1870年代。ワニや象は描かれていなかったけれど、軍関係者の威厳ある様相が描かれ、食べ終わった皿が何枚も積み重ねられ、足下には料理される順を待っているウサギやアヒル、鶏などが描かれている。一種の戯画である。このころは政府が食料調整に乗り出し、直営のレストランを経営した。庶民用である。貴族やブルジョア、文豪たちは独自のルートで食料を調達するレストランに通っていた。さて、軍関係者はどうだったのだろうか?
紙質といい筆致といい当時のものに間違いない。「オリジナル」は額面通りである。買い求めることにした。ムッシュが、素敵なものをプレゼントするよ、というので何かと期待したら、彼の店の名刺だった。名刺に書かれているところに行けば、もっと素敵な掘り出し物があるよ、という意味なのだろう。是非、時間を見つけていきたいと思っている。彼とは握手をして別れた。フランスで握手の意味は、社交辞令的な挨拶であるが、このような店での店主と客との間の握手は、もっと友好的な意味があるそうだ。ぼくは、これで、握手を求め、求められる店を二つ獲得したことになる。
 凱旋門を出発し、優に2時間半は経っている。さすがに疲れが出てきたので、あとは足早に進めることにした。カルチェ・ラタンに立ち寄り、ソルボンヌ大学前の小さな空き地跡が再整備のため工事中のはずである、その工事中の穴を覗くのだ。およそ14世紀からの土の層が露出しており、そこから歴史文化財が発掘されている。大学の中世史研究室の教授、学生、それに市民ボランティアがその発掘作業を進めているはずである。防御金網越しにその作業を今日も覗こう、そして今日の散策はそれで終わりにしようと思っていた。ところが、息はずませ、心はずませて行ったところ、金網景色までは一緒だが、すでにコンクリートが流し込まれ、建物の土台を作っている最中だった。パリに来て建物をたたき壊しているところ、上積みを作っているところは見たが、建築物の土台を作っているところを見ることができたのは初めてだったから、それはそれで良しとすべきなのだろうが、歴史が再び蓋をされてしまったことの悔しさに、けっ!と言葉を口にしてしまった。
 そのとたん、ぼくの後ろに手が掛かるのを感じた。何でだよ、けんか売られるのかよ、そんなに邪険だったかよ、おれ、とびくびくしながら振り返ると、腰がやや曲がったおばあさん−どう見ても80に近い−が「エキスキューゼ・モア、ムッシュ」という。反射的に「ジュヴザンプリ」(どういたしまして)と言葉を出したが、ふと足元を見ると、おばあさん、ローラーブロードを履いているではありませんか!確かに歩くよりは速いから、お年寄りには便利な道具なのかもしれないなぁ、でも、危ないなぁ。おばあさんは、歩くよりかは幾分か早く、ぼくを通り越して、ソルボンヌ大学の門をくぐっていった。あの人、大学とどういう関係があるのだろうか。学生なのだろうか。教授なのだろうか。謎のままである。(1ヶ月後、ソルボンヌ大学の構内でくだんのおばあさんと出会ったけれど、その時にはローラーブロードを履いていなかった。相変わらず腰が少し曲がったままで、分厚い本を一冊、小脇に抱えていた。)
それからパンテオンに寄りルソー像にお目にかかり、リュクサンブール公園を横切り、例の古書店の前を通る。ガラス越しにムッシュの影を認めたので大きく手を振るとムッシュも手を振り返してきた。きょうは立ち寄らない。疲れたので本の背表紙を読むのがおっくうなのだ。とことこと、アンスティテュ・カトリック、俗称パリカトに向かう。ここを終点と定めた。トイレに行きたくなったからである。フランスでトイレを見つけるのは結構大変である。有料トイレが道に立っているが故障中であったり使用中であったりして、なかなか用が足せないことが多い。カフェに行けばあるが、コーヒーも飲まずにトイレを借りるのはまだ気が引ける。生粋の日本人気質がまだまだ抜けない。第一貸してくれるかどうか、聞いてみなければ分からない。ブティック、デパートの類には公共用に開放しているのはまずない。頼んでも断られる。仕方なく、いつでも誰にでも開かれている(と、トイレ使用者は勝手に判断しているわけだが)私立大学でもあり語学学校でもあるそこを借用することになるわけである。
 後ろから、人が駆けてくる呼吸が聞こえてくる。振り向くと古書店ムッシュだ。「あなたの求めていた本の一つが手に入った。見ていかないか」ということだった。うーん、トイレを先にするか後にするか。瞬時迷ったが、ムッシュの親切を無駄にすることはできない。ムッシュと並んで歩きながら、「サヴァ?」「ビヤーン、メルシー。エヴ?」などとその日にあった最初の挨拶を交わす。店内に入って見せられたのが、ラ・コミュヌに関わる公文書綴り。すべての記録がここに収められている。1872年発行。ラ・コミュヌの翌年のことだ。これほどしっかりした関係資料を手にするのは始めてのことである。「これください。ムッシュ、ありがとうございます!」最高級の礼辞を述べた。ムッシュは破顔の笑顔を見せた。いつもの通り、額面から1割引。およそ30,000円の買い物である。
 ショルダーバッグの財布は空になったが、背のリュックとショルダーバッグは、ぼくが求める貴重な歴史資料が入っている。まるで幼子を背負い、腕に抱くようにして店を出たところで、日本の若者のメッカ、A.P.C.からいそいそと出てくる数人の、ぼくから見たら異様ないでたちの若者たちとすれ違った。彼らもまた破顔一笑であった。おそらく彼らから見たぼくも、同じであったろう。彼らが共通ブランドものなら、ぼくはぼくのブランド、すなわち「紙屑」に陶酔しているわけである。
 3時間半の秋の散歩は、まだ青空が広がっていた。しかし、冷気を帯び始めていた。ポケットの中のマロニエの実は輝きを失せていない。