2012年セガン生誕200周年記念国際シンポジウム参加の旅日記

2012年

10月24日(水) 晴れ→曇り
 6時過ぎ起床。7時前に自宅を出る。東武野田線新柏より新鎌ヶ谷、新鎌ヶ谷からアクセス特急にて成田第二ターミナル駅。空港で姫様(幻戯書房編集者三好咲さん)と落ち合う。今回の旅の同行者を務めてくださる。
 11時10分発のJAL便にてパリへ。座席をプレミアム・エコノミー席にグレードアップし、ゆったりとした空の旅となった。飛行機ではほとんど映画を見て過ごす。ド・ゴール空港では2003年以降セガン研究調査の同伴者を務めてくださった瓦林亜希子さんの出迎え。ホテルまでタクシー。その後バスティーユに出て、レオンでムール貝料理をいただく。何年ぶりのことだろうか。
 国鉄ベルシー駅にすぐ近くのホテル・クラレ(hotel Claret)に投宿。お風呂・トイレはなかなか立派だが、冷蔵庫や湯沸かしがないがない。湯沸かしは明日可能ならば購入する予定。

10月25日(木) 晴れ
 昨夜は何度も目覚める。そのたびにトイレ。いつもの旅のごとし。窓から北極星、オリオン座を鮮やかにのぞき見ることができた。
 8時頃起床。朝食はクロワッサン、パン・オー・ショコラ、バゲット、チーズ、生ハム。バナナをテイクアウト。
 「午前中、ダンフェール・ロシェロウ通りの修道女のブティックで土産物を購入し、午後、イタールの墓参りその他」を計画し、出かけた。ダンフェール・ロシェロウ駅を降り立ったところ姫様がカタコンブに入ってみたいとの希望を出されたので入り口にいくと、閉鎖。どうやらこの時期(ハローウィン)はカタコンブで公的な営みが行われるようだ。断念し、修道女の店へ。ここも午後からしか開いていないとのことで、イタール墓参併せてサルトル墓写真撮影に計画を切り替えた。修道女の店の近くのカフェで休憩。久しぶりにショコラを注文。そこからはモンパルナス大通りを歩いてモンパルナス墓地へ。墓地前で鉢植えの菊を購入。

 イタール墓参の後、墓地内を少し散策。サルトルボーボワール墓参。真っ赤なルージュのキス跡がたくさん残されていたのはデザインなのか、それとも墓参者によるものなのか。姫様に「性解放を意味しているのでしょうかね。」とつぶやいた。その後お墓近くのモノプリに立ち寄り、湯沸かし、カップ、マドレーヌを購入。これで宿でゆったりと「お茶」を楽しむことができる。それにしても長い年月の、数多くの回数の旅の経験で、飲み物のサービスがないことは初めてのこと。修道女のブティックを再度訪問。土産物の購入。
 かなりの疲労を覚えたので宿にいったん戻る。しばしベッドに横になり5時過ぎ、近くの公園に出かける。この公園にはいつか(2000年度パリ滞在時)瓦林さんに連れられて来たことがあると、かすかな記憶がよみがえる。何かのマルシェをやっていたのをのぞきに来たのだったと思うのだが。
 夕ご飯はホテル近くのインド料理店で。牛のカルマカレー。サフランライス。デザートにアイスクリーム。大変おいしい店、また来ますと挨拶をし、ホテルに戻った。ぼくに店のムッシュがつけたニックネームは「大声じいさん」。うむ〜。
 いよいよ明日はクラムシーへ。16時31分ベルシー発で向かう。15時半頃、通訳をお願いしているポアティエ大学大学院在学中の藤巻佐知子さんと駅で落ち合う予定。

10月26日(金)曇りのち雨
 昨夜は宿に戻ったらバタン・キュー。8時過ぎだろう。耳元で強烈な電話の呼び出し音で否応なく現実に引き戻される。もうろうとした頭で電話応対。瓦林さんから。クラムシーから問われていた我々の到着時間(26日19時40分頃)を知らせたこと、クラムシーからパリに戻ったら電話がほしいこと、であった。ひたすら眠さと戦っていたため不機嫌な応対であったかもしれないと、悔やむ。
 今朝方4時過ぎ完全に体が起きたため、シャワーとひげそり。今日一日がよい日であるようにと願いながら。
 16時31分発でクラムシーに向かったが、その前に、セーヌ川左岸河岸に沿って歩き−薪材で作る筏の集積場、筏師協会事務所があったと思われるあたり−、パリ植物園を巡り、5区モンジュ通りの朝市に立ち寄り、9区のモロウ美術館で絵画鑑賞を楽しんだ。
 15時半過ぎベルシー駅で藤巻さんと合流。列車は週末ということもあり立っている人もいるほどの混雑。オーセールを過ぎたあたりで姫様が前席の客が読んでいる本の書名がパリ・コミューン関係であることを見て取ったことをきっかけにして、その客と様々な会話。乗客は「ただの労働者だが・・」と言うが、会話内容そのものは教養に溢れていた。彼は「あなたは共産党員か、私は労働者党員だ。」と自己紹介。ぼく「日本では自分が何らかの政党に所属しているのか、あるいは属していないのかということは、大変言いにくいことである現実のため明言を避けるが、リベラリストであることは確かだ」。近くに座っていた女性が「ウマニテ」(フランス共産党機関紙)を「あなたにプレゼント。」と渡してくれた。そこから労働者党氏と共産党氏との「何やらの、穏やかな言い合い」(フランス社会名物の「即席論争」)となる。通訳の藤巻さんのお話だと、労働者党氏はトロツキー信奉者、共産党氏はスターリン信奉者であるとのこと。労働者党氏は「スターリンによってゆがめられてしまったコミュニズムを正当な思想哲学として再生させるために戦っている」とのこと。ひょっとしたら、ぼくは労働者党氏に近い立場で歴史を見ているのかもしれない。ぼく自身は政治的な立場よりも歴史事象としてパリ・コミューンに興味があり史料収集をしていること(労働者党氏はコミューンに関する切手の収集をしていると笑っていた)、今は研究の裾野が広がり1848年革命にも及んでいること、筏師について研究を進めていこうとしているところだと自己紹介をした。労働者党氏は筏師について知っていた。「クラムシー以外の地域にも筏師がいたことを知っているか」と尋ねられたが、彼が求める答えは「カナダ」ということだった。それは初めてのこと、興味そそられる。それぞれの方とクラムシーより前の駅でお別れした。
 クラムシー駅でクラムシー学芸協会長のルモアーヌさんの出迎えを受けた。その同席にセガン伝研究者で医学博士のジャン・マルタン氏の紹介を受けた。口ひげがよく似合う背の高い人。ぼくのセガン研究のベーシックにある思考方法と同じ方だと知ってひどく緊張を覚えたが、マルタン氏に握手の手を差し出した。
 今夏の「セガン研究の足跡をたどる旅」の宿ラ・ポストに投宿。
 20時半から関係者によるディナーセッション(夕食会)。夕食会の切り出しは、明日のシンポジウムの司会を務めてくださる男女お二人の方から「セガンはフランスでは無名に近い存在」という話題提供に始まった。「せいぜい、モンテッソーリを介在して語られる程度」だと。確かに、フランスの教育に関する辞典ではセガンの単独見出しはなく、モンテッソーリ見出し記述の中にその名と業績とが見いだされる。続いて、学芸協会長が、ぼくに「日本ではセガン研究者は何人いるのか。セガンの理論を実践している人はどうか?」と問う。また、「清水寛氏はいまどのようなセガン研究をしているのか。」とも。今回のコングレ(シンポジウム)の日本側報告者として清水寛氏が大きく期待が寄せられていたことを知る一瞬だった。正直に答えるしかない。「清水寛氏の関心は別の人物に移っている。その人は近藤益雄という人で、知的障害を持つ子どもの教育と福祉に生きた人だ。現在、日本ではセガン研究は必ずしも活発ではなく、セガン研究者と呼べる人は2名しかいないと認識している、一人は私で一人は北海道・札幌でセガン理論に基づいた知的障害施設を運営している人。私は教育学が専門、その人は心理学者としてフランス時代のセガンを研究し、セガン教育学に基づいて実践をしている。私は清水寛氏の研究で欠落していたフランス時代について研究を進めてきた。」と説明した。明後日のぼくの報告と重なってしまうが、いわば予告編というところか。
 会食は、セガンをコアにしながら、精神医学やその治療法、聾唖教育、サン=シモン主義等に話題が揺れ動く、参加者は藤巻さん、姫様を加えて9名。主要な女性参会者メンバーが「セガンの言っていることに矛盾があり、史実を特定できない」とか「セガンは子どもの時から家を出された、だから、それがセガンの性格に影響を与えている、言っていることに矛盾が生じている」とかの「セガン評価」として語られたが、マルタン氏は「私はすべての史料を整えて検証している。そうすることで矛盾が矛盾でなくなる」とか、「セガンが里子に出されたのはその時代の特権階級に一般的なことであったことを踏まえなければならない」とか「反論」されていた。つよく同意しながら聞き耳を立てていた。それと同時に、このコングレにはぼくの出番はないとも強く思い、臨席の姫様に「もう、帰りたくなったよ」とささやいた。
 あと一つ、セガンをどう評価するかの問題で、「セガンがサン=シモン主義者であったかどうか」が疑問として出され、同時にその疑問提出者は「セガンを評価するのは彼が社会改革を志向していたからだ、セガンはその立場故にフランス社会からアメリカ社会に出て行かなければならなかったのだ」と言う。それでぼくは、「セガンがサン=シモン主義の一員として加わったことは、セガンがアメリカ時代に書いた1856年論文に明記されているし、その事実評価はアンファンタン著作集の中にも見ることができる。」旨を発言した。もっと重要な資料があるがそれはコングレ本番でのお楽しみ。
 会食の最後の頃にはセガンのオーセール時代のことに話題が及んだが、マルタン氏が十分には読み込んでいない箇所であることに気づき、喜びが倍加した。今日の別れ際には、マルタン氏から、会話の相手が務まるよ、おまえ、という心が感じられた。会食の全体は、明日の報告者ジャン・マルタン氏の独演場というところ。
 以下は夕食会で話題とされた主なことと感想。
○この夕食会で痛感したことは、それぞれのご発言は、まさに日本のこれまでのセガン像そのものであるということ、そしてマルタン氏と川口がセガンのライフ・ヒストリーを追うことによって、これまでのセガン像の真贋を検証したということである。そしてその検証は史資料収集とその読み込み、さらに付け加えればフィールドワークに基づくものでなければならないということであったことである。
マルタン氏によってもほかの誰によっても、セガンの最初の夫人の名前は明らかにされなかった。精神障害者であったとの声も出たが、それはアメリカに渡って夫人が病がちであったことと重なって評価されたことなのであろうか。いずれにしても史資料に基づくものではない。
○この件で印象的なのは、1846年著書に描かれているセガンの家族実像だ。アメリカからの訪問客と今後の白痴教育について話し合っている場面で、セガンは、彼らの傍らで妻が編み物をしながら揺り籠の幼子をあやしていることを綴っているのだが、その描写に見られる夫婦・親子像には人間性・家族愛溢れるものを感じることができる。そしてそれが、セガンが描いているフランス時代唯一の家族実像なのである。
セガン母系について。マルタン氏「セガンの母系について私が初めて明らかにした。」と胸を張っておられた。ぼくはオーセール調査で母系祖父母の死亡証明書を入手したことなどを語り、セガンはその著書で、(母系)祖母の家に自分の部屋を持っていた旨を書いていることが調査の発端であったこと、セガンは子ども部屋論の中でフランス風の子ども部屋ではなくイギリス風の質素な子ども部屋が必要だと書いている、そこにもセガンの母系の影響を見ることができるだろうと、話をした。、マルタン氏「どうしてそう言えるのか?」、川口「だって、セガン母系はイタリア(サルジニア王国)からの政治亡命移民でしょ?」。マルタン氏、強く同意の首肯。いよいよ、我が日本のセガン研究には全く見ることができなかったセガンのライフ・ヒストリーに入り込むぞ、というところで、時はすでに午後11時過ぎ。続きは明日と明後日のコングレのお楽しみに。
 11時過ぎ解散。明朝8時45分に迎えが来るとのこと。

10月27日(土) 晴れ
 午前9時、旧市街から車で5分ほど離れたところの医療センターホールを会場として、クラムシーでのセガン生誕200周年記念シンポジウム開始。クラムシー市長など主催者挨拶に続き、ジャン・マルタン氏による「セガン伝」の報告。1時間半に及ぶ長弁舌。セガン家家系、セガンの育ち、セガンの学習歴、セガンの社会運動、そしてセガンの知的障害教育、アメリカにおけるセガン、最後にイタールとセガンとの関係。文献資料に基づく論理の組み立ては迫力があった。昨夜の会食、朝の立ち話等でぼくが話したことを早速取り入れていた。1.コレージュ時代、セガンは寄宿生活をしていたと考えてきたが、川口によれば、「母方祖母の家に自室を持っていた」ということだから、緻密な検証を今後必要とする、2.川口が著書の中で紹介している1848年の「労働者クラブ」の集会参加呼びかけチラシは初めて見るものだが、これによってセガンが社会改革主義者であることが明確になったと評価できる、など、3回もぼくの名前が出されたことに驚きを覚えた。と同時に、ぼくのセガン研究がフランスで評価されたという実感を得た。明日の報告にどう生かすか。
 午後はシンポジウム参加を取りやめ、ルイ・ナポレオンによる1850年12月のクーデターに対するレジスタンスに立ち上がった筏師処刑の場クロ=パンソンの丘へと向かった。ただ、体力が相当弱っており、丘登りを途中で断念せざるを得なかったのは悔しい。帰路観光協会に立ち寄り、ウインドウに飾られていた筏師のレリーフを購入。今後の研究のための意欲喚起。会場で、ルモアーヌさんから、学芸協会には筏師関係の史資料がたくさんあるので、今度来るときには事前に連絡してほしい、と申し出をなされた。早速条件整備が始まっている。
 夕刻、「エドゥアール・セガンの部屋」の看板−プレート−取り付け行事。いろんな人から声かけをいただいたが、疲れのため、十分に対応できず、申し訳ない気持ち。
 2003年、2005年訪問の際に対応してくださった前市長のバルタンさんと秘書さんとが参加しておられた。バルタンさん「よく覚えているよ。」、秘書さんとはフランス流親密な挨拶(抱擁と疑似キス)「お久しぶり。お元気でうれしい。」と、再会を互いに喜び合う。「清水寛氏はどうしておられるか。」との問いがあったので、「シンポジウムに参加希望を強く出されていたが、足を悪くされて参加を断念された。」と伝えた。
○新しくできた「エドゥアール・セガンの部屋」での懇親会の場で、人を避けるためにぼけっと立っていても、向こうから話しかけてくる。とてもキュートな女性が、「英語はできるか?」と聞いてきたので「ノン」と返答。もちろんフランス語はもっともっとだめね。藤巻さんに通訳をお願いして会話をした。明日、アメリカにおけるセガンで話題提供をする人(ワシントン大学教授)。ワシントンからやってきたという。うんうん、わしゃ、明日、自分の報告終わったらいなくなるケンね、とは口には出さず、一応聞き耳を立てるふりをする。「日本に住んでいた、大阪で2年暮らしていた」というので、「ほんならおおさかべんでいこか」と笑いながら言ったら、ちょっと考え込んでいたが、破顔一笑。懐かしさがよみがえったというところなのだろう。会場内には、セガンの死亡証明書、息子の結婚証明書などのコピーが展示されていたが、キュートなワシントン大学教授氏によるもの。「ご希望の方はメール・アドレスをお知らせください」と書いてあった。もちろん記入。それにしても下手やなあ、ワシ、字を書くの。
○やはり懇親の場で、向こうから話しかけてくる人、やや浅黒い。「ペルー出身の移民医師」だとか。「ペルーは知ってるか?」もちろん、国名は知っているけれど、「ペルーは日本と密接な関係のある国だ」「なるほど、そうか」「フジモリ大統領は日系移民だ。」「ああ、そうでしたねー。」ぼくは困りました。会話を進められない。その場をそっと離れて、藤巻さんにお任せいたしました。
○ディナーセッションまでの待ち時間の間、「自閉症」について尋ねてくる。「おまえはどう思うか」と聞かれても「思う」ほどの哲学を持って自閉症をとらえてきていないから「専門じゃないから答えられない」と言ったら、期待が外れたかの様子。彼は今日のぼくたちの運転手役を務めてくださった方。精神科医セガンを研究していると言えば、結局セガンが対象とした「クライアント」をどう見るか、という議論に進み、現実の「クライアント」にはどのように対応するか、という平行線談笑に行き着く−『生活教育』2010年10月号誌上での、ぼくの著書に対する「書評」で味あわされた、いやというほどの腹立たしい思いと同じようなことはもう勘弁してほしい、というのがその場の素直な感情だった−。障害を持つ子どもに障害に応じた教育や医療を受けさせることは社会の義務。ここまでは日本も同じ。では、その子の親はどうなのか?「障害に応じた教育・治療を受けさせることが最良であることがわかっている場合、親はその子の現実と未来とを保証するために教育・治療を受けさせなければならない、そうでなければ虐待となる。」というのがフランスの常識。だから「自閉症を治療・教育の対象としてとらえる場合、どのような立場が望まれるか」というのが平行線議論となる。さて、日本はどうだろうか。障害者を通常学級で受け入れる「共育」が進んだ思想・実践であるという立場をとる人が多い、と言おうと思ったが、止めた。「議論」に行き着かず、不自由な通訳会話では、腹立たしさを覚えながら「お説ごもっとも」と聞いていなければならないのだから。
 さあ、明日は報告。体調を整えなければ。20日午前3時で夏時間から冬時間に変更される。つまり、夜が1時間長くなるわけだ。心持ち、明日はゆったりと寝ていられるはずである。

10月28日(日) 晴れ

 眠れず、がさごそと報告の下準備中の夜中の3時に冬時間に変更。それと同時に停電。偶然か?停電中、トイレ等で移動することに不自由を覚えたが、耐えるしかない。今日の報告に対する不吉な予兆かと思うほど、ナイーヴな自分に気づく。
 9時からのモンテッソーリ報告は大幅に時間が延長。これはフランス社会では当たり前だとのこと。しわ寄せが全体のタイムテーブルに及ぶ故、運営者泣かせだと思った次第。報告そのものはぼくの既知のモンテッソーリ像が語られていたようだ。

 10時半過ぎからぼくの報告。報告開始前に、「日本の報告を楽しみにしてきているよ。」と声かけをされたが、これまでの報告はすべて具体的な活動とその意義が含まれ、討議もその方向性であるので、ぼくの報告は日本でセガンがどのように扱われてきたか(知的障害教育研究における人物研究の歴史と現状)であるので、セガン教育を実践的に評価する報告内容は皆無である(もっともそれをぼくに求められても出来るはずはないのだが)故、多くの参会者−精神科医、特殊教育実践家、心理学者、クラムシー関係者−には退屈だろうなと予想した。
 プログラムより40分遅れの10時30分、報告開始。時間的に迷惑をかけることはすまいと思い、通訳と打ち合わせをし、冒頭の数分の自己紹介は日本語で行う、その後通訳が報告終わりまで原稿を読み通す。だから、ぼくの実質的な出番は数分であった。いやそういう問題ではなく、質疑応答を併せて1時間というのが所与のタイムスケジュールなので、それに応じるためにはぼくの日本語報告時間をカットした方がいいという配慮であることは記しておきたい。通訳の藤巻さんによる報告は、フランス語原稿に目を通しながら横で聞いていた。調査に入ったあれこれの苦労の記憶、文献の読解苦労の記憶、最後にはこの調査研究に心身ともに協力をいただいた瓦林亜希子さんのご苦労の姿、そして2009年のサバティカルを利用しての戸籍等の調査に同行し、古文書撮影のご協力をいただいた姫様こと三好咲さんの友情溢れる真摯さの記憶が蘇り、こみ上げてくるものを覚えた。報告を終えた時いただいた大きな拍手で、「ああ、これでぼくの清水寛先生の恩義に報いるという自分自身に言い聞かせて送ってきた生活に幕を下ろすのだなあ。」と強く実感した。
 質疑は、だいたいどこでも同じ、自説披露の場に利用され、報告内容にほとんど関わらないことであったが、ぼくのフランスにおける初等教育史の研究フィールドの一つであると紹介した、パリ・コミューンの教育についてどう評価するか、というのはぼくの基本的な課題意識であったので、「政治的あるいは党派的な立場から論じられてきたのがこれまでであったのに対し、私は、生の史資料で語らせたいと思い、資料収集に力を入れてきた。今もその段階であるといえる。」と「評価」の明言を避ける返答をした。もう一つ特徴的な質問(意見)は、「山形の学校を参観に行ったとき、農業的な作業が実践されていた、その山形行きで私はセガンを知ったのだが、セガンの教育論が日本で実践的に取り入れられているのを確認した。」というものであった。その発言は、セガンの教育論がどれほど普通児教育に取り入れられているか、という文脈の中で出されていた。それに対して、「そういうとらえ方も出来るかもしれないが、日本の教育は早くからご指摘のような作業教育を取り入れてきた。そしてそれは一般的にペスタロッチの教育思想や運動の系譜に属している。形が同じだから質も同じだ、という立場を私はとることはしない。」と答えた。これに対する会場の反応は、セガン伝のマルタン氏が大きく頷いていたことが印象的であった。

 トータルで1時間ちょうどの報告・質疑応答終了後、会場隅で精神を休めていると、一人の男性が寄ってきて、「このコングレでの最高の報告でした。言葉の壁という不自由さがあるでしょうけれど、それを克服し、我々フランス人でさえ成し遂げることが出来ていないセガンの実像に迫っていることに、強く敬意を表します。熱意、努力、教養の広さ・深さ、すべてにおいて頭が下がります。ありがとう。」と言ってくれた。また、何人かがトレビアンと声をかけてくれた。姫様も「もう卑屈にならなくていいよ。胸を張って。卑屈な態度をとったらさよならだからね。」と応援歌を送ってくれた。
 昼休み終了後、午後の開始の直前、会場前方(報告舞台)に出るように促された。「クラムシーのセガンが、あなたのおかげで、世界のセガンになった。心からお礼を申します。」学芸協会長の挨拶をいただき、会場から大きな拍手もいただいた。生まれて初めてスタンディングオベーションをいただく光栄に浴した。ああ、やってきてよかったな、と心底満足感を覚えた次第。
○2003年訪問時に当時の市長バルタンさんから聞いていた、1.セガンの映画作成と上映、2.セガン生誕の家のセガン博物館化計画、について、そのバルタンさんから、1.は予算の問題で中断しているが必ず映画を完成させたい、2.セガンの生家は現在不動産屋の所有となっている、それを市が買い取る予定であったが市長が交代したため、これもまた実現されないでいる、必ず実現させたい、とお話をいただいた。

○ぼくが入手したセガンの1850年の肖像写真(モノクロ)と同じ図柄の油彩画が展示されていたので、心臓がぱくついた。肖像写真はいったい何を意味しているのか?というより、清水先生の説(セガン自画像、油彩画)が正しいことが証明された、ということなのか。アメリカ時代のセガンを詳細に追跡しているワシントン大学教授が展示の主だったので、事実を確かめた。「油彩画は肖像写真を元にして描いたもの。同時代の有名な画家が描いたそうだが名前はわからない。現在つけられている値は50万円相当」 そっとカメラに写真として納めさせていただいた。
マルタン氏はセガンのパスポート発行申請書類があるという。それは1850年。職業欄に「医師」とある。これまであれこれと類推されてきたことが一気に片付いた。つまり、セガンは「1850年頃に」ではなく「1850年に」アメリカに渡った、ということだ。
○とはいえ、「医師」という職業名署名には強く疑問を持たざるを得ない。「無資格医師」の存在が許された時代だと考えればセガンの虚言だとは断定できないけれど、フランス時代、「弁護士」を肩書きに使ったり、「医学博士」を肩書きに使ったりしていることを知っているぼくとしては、やはりセガンは「虚言癖」があったと言わざるを得ない。その源は・・・・?
○ジャック・マルタン氏ほかからメールアドレス交換の申し出を受けた。英語書きの名刺を差し上げましたけれど、ねぇ。「お返事差し上げる」のは苦痛だなあ。もっとも、メアド交換申し出には必ず、「資料をお送りします」という言葉がついていた。マルタン氏は「アメリカ時代の史料」、ワシントン大学教授氏は「セガン(家)に関する公文書写しなど」、そしてクラムシー元秘書さんは「あなたが尋ねていたこの地域のフレネ教育に関する資料」。元秘書さんのこの言葉で、2005年3月の雪で凍てついていたこの街への初の単独訪問を思い出した。この地を訪問したときのぼくの研究意識の根底にあるものが何であったのか、フラッシュバックし、思わず涙をこぼした。元秘書さんの暖かいハグをいただきながら、「よろしくお願いします」と申し出た。
 午後4時にクラムシーを発ち、オーセールに向かう。それまでの時間でクロ=パンソンの丘に登る。難行苦行であったのは肥満と年のせいだろう。
 オーセールに降り立ち、ヨンヌ川にその姿を映す夕闇に包まれた街へと向かう。宿ル・マキシムの窓からのぞき見る月が天空で煌々と輝いていた。

10月29日(月) 曇りのち晴れ
 一日のスケジュールに何の外的内的制約もないこの日、オーセール旧市街地をぶらぶらと歩き回る。起伏ばかり、石畳が多く、また狭い曲がりくねった道を車が通り抜ける、工事中が歩行を妨げる等々、疲労感が強く積み重なる。
 今まであまり通ったことのない道を、姫様とああだこうだと言いながら、歩き回った。「それにしても何の目的も持たない散策というのは味気ないものね。」とは姫様の言。セガンなりなんなり、意識のコアとは言わずとも隅っこにでもあれば、軒並み一つ見る目も違ってくる。今まで何も目的を持たないでこの街を訪れたことは全くない故、今日は心が働かないという実感が強かった。それに引き替え、姫様は、家屋壁面に飾られている「家紋」を見つけてはカメラを構えていた。その「家紋」は、ぼくや姫様が図書資料で見てきた筏師ファミリーの象徴なのだ。
 夕食をとるためにホテルを出る気が起こらないだろうと、郊外に足を伸ばして、スーパーに立ち寄りサンドイッチなどを購入。超大型のアメリカ資本と思われるスーパー。これでは町中のマルシェはひとたまりもない。どこかの国で見る醜い資本主義構造。旧市街地は「貸し家」「売り家」の看板が軒並み。まるで、街一つが潰れてしまったような光景である。
 今日の夕食は早く、しかも部屋の中でサンドイッチをぱくつくのみ。就寝も早くし、明朝9時の朝食まで、あるがままの心と体で時を過ごそう。
 満月が朧に天空にある。空はまるで春いや小春(秋)でいいか、外気はまさしく真冬。明日は午後の便でパリに戻る。
 30日明け方3時半過ぎ、弘美君からメール。まず日常でメールをいただくことがないので少し不安な胸の動悸。「報告はうまくいきましたか。」という文面を見てほっと胸をなで下ろした。心にとめていてくれたことに感謝、次のように返信。「こんにちは。シンポジウムは通訳さんのお力でこちらの意図が十分に伝わりました。トレビアンの声もかかり、スタンディングオベーションもいただきました。成功したと思います。明日はパリに戻ります。元気にしています。」 それに対するメール「よかったです。こちらもみんな元気です。お土産よろしくです。」 「はーい。」

10月30日(火) 晴れ→曇り→一時小雨
 午後、オーセールからパリへ移動。午前中、体に無理の無いように昼ご飯の買い出しのため旧市街を歩く。今度いつ来るのか、あるいは来ないのか、そんな感情がちらっとわきはする。オーセール駅に向かう途中、ヨンヌ川にかかる橋の上から中世の寺院の偉容を感慨深く眺めた。おや、川に一羽の白鳥がいるではないか。きっと彼/彼女は夏にお目にかかった孤独白鳥だろう。「元気でね−!」
 オーセール駅で出発便の掲示を見るとパリ-ベルシー行きの表示がない。パリ方向の隣の駅行きのバス便の案内がいくつか出ているので、工事のため振り替え輸送かと思われたが確信を持てない。こういう時に文化の違いを痛感する。結局バス振り替えであり、のどかな田園のただ中をつき走る。対向車線で交通事故があったのを目撃。車前部がぐちゃぐちゃになっておりその後車列が続いていた。隣駅で電車に乗り換え。30分ほど遅れていたようだが、パリに着いたのはほぼ定時。途中の停車駅が1駅だけだったということもあるのだろう。
 来たときと同じホテルに宿泊。ただ、部屋が狭く、バス・トイレも小さくなっていた。ちょっと悔しい思いだが、仕方が無い。少し休んで、姫様が瓦林さんから聞いたというショッピングセンターに出かけるというので、ぼくもご一緒することにした。行ってみて、いや、懐かしい。まさに2000年滞在の折に瓦林さんに連れられて(お供で?)来たマルシェ街ではないか。あれやこれやの店に顔を出して買い物。
 ショッピングを終えてホテルに戻る際、姫様がかねてよりご所望の、ヌッテラ(練りチョコ)のクレープを購入し、姫様曰く「ラブラブで分け合って」ぱくつく−姫様「日記にちゃんと書いておきましょうね。」−。じつにおいしい。ぼく自身、10年ぶりだろう。パリの街歩きでおなかがすいたら、熱々のクレープをぱくついたものだった。しかも、ヌッテラ専用。

10月31日(水) 晴れ
 明日は「フランスのお彼岸」。ハローウイン。この日近辺はフランス社会にとってバカンス。それがぼくと姫様の行動にもろに襲いかかることになる。「午前中はHP/HP博物館見学、お昼を一緒に食べて、午後はフリータイム、夕食は一緒に。」という行動計画に従って、セーヌ川左岸河岸沿いに歩く。港湾事務所を通り過ぎ、パリ植物園を通り過ぎ、さらにノートルダム寺院後陣を見るころに博物館前に到着。が、固く門が閉ざされていた。何の掲示もなく休館。ぼくがここに入ることが出来たのはただの一回。その一回でセガン教具の常設展示が医学部内の医学史博物館でなされていることを知ったわけだから、じつに幸運なことであったと、今となっては思う。
 てくてくてくてく・・・ジベールに立ち寄り、ロマン・ロランの『コラ・ブリニヨン』を姫様に探し出していただき購入。近世筏師の生活が描かれてもいる文学であり、読み通したいと思っている。その後は、オウ・ボン・マルシェに立ち寄り土産品を購入。姫様は日本では手に入らない紅茶を売っている店に行くというのでおつきあい、というより、金魚のうんこ。
 そこから、それぞれが別行動となる。ぼくはどうにも体が動かない状態なので、かつてのように路上で倒れて迷惑をかけてはならないと思い、宿に帰った。午後2時半。それから体を休めながら帰国の荷造り。
 明日は瓦林さんと昼食をともにする。久しぶりにアジア亭に予約を入れてくれるとか。せっかくだからといつもの古書店に行こうと考えたが、瓦林君が電話を入れてみたけれど出ないとのこと。バカンス休暇だろうな。ムッシュ、お元気かな−。

11月1日(木) 雨のち曇り
 今日は「フランスのお彼岸」。宿には多くの宿泊客。バカンスでパリに来た人たちだろう。昨夜エレベーターで乗り合わせたご夫婦は「イタリアーノ」だと言っていた。「イタリアーノ」という言葉と人種とが一致したのは初めてのこと。ぼくにとって、この時まで、「イタリアーノ」とは食事文化のことでしかなかった−浅草・もんじゃやさん「紙ふうせん」の裏メニューにぼくが命名?した「イタリアーノ・モンジャーノ」−から。
 今日の夕刻の便で日本に向かう。また来るのかもう来ないのか。今回の旅ほど体力の衰えを痛感したことはない。旅の直前に風邪で苦しんだからそれが改善しないままであったと考えるか、それとも本当の衰えなのか。「筏師」の持つ文化論的研究はまさに出発するところなのだから、フランス史研究とは「お別れ」するわけにはいかない。だが、「体力」が強制「離婚」を命令するか。それは、帰国して後、何らかの結論が出されるだろう。今の段階では、「オーバー、アビアントウ(「またね−!)」と声かけをして、帰国の途につくことにしよう。
 これにて、ほぼ10年間取り組んできた「セガン・フランス時代」の追跡の幕が閉じられる−。通訳・史料調査・機関交渉等でご尽力をいただいた瓦林亜希子さん、2009年来セガン研究に同伴してくださりめげる心をそのたびに蘇生させてくださった姫様こと三好咲さん、日本とフランスとを電話やメールでつなぎ励ましてくださった貴婦人トドちゃんこと中村祐子さん、本当にありがとうございました。