講演「学びと学習共同体の創造のために

講演「学びと学習共同体の創造のために〜『取り出し型教育』を論じる」(川口幸宏)記録より抜粋 
 *この講演は、まず1996年日本の教師を対象として実施され、2000年フランスの教師に、2001年アメリカの教員養成課程在学中の学生に、2005年にフランスの社会学者で日本教育史をドクター論文で書いた教授の要請に応じて氏の主催する社会学ゼミで、実施された。

○・・・日本の教育現場を強く縛っている教育実践記録の記述方法を見てもそれが分かります。「子どもが何々だから、このような教育を行った」という記述がそれです。私たちにとって、教育とは、子どもが所与の課題、ないしはあるべき世界観に行き着いていないからこそ行われるものである、そのような技術・技能を教授といい、課題や世界観を含めて教育方法という、という観念が根強くあります。技術・技能や課題・世界観が子どもの側にあるとは考えない。教師の側のそれらが子どもの側にどれだけ写し取られているか、ということをさして学習というわけです。  「所与」とか「あるべき」とかはそれぞれの社会状態によって規定・決定されますが、学校というところはある基準で選ばれた「所与」「あるべき」価値がそれを未習得な子どもに対して与え、子どもたちを社会化する仕事をするところだ、と考えてきています。それらが「こうあるはず」「こうあるべき」という一面的・一義的価値観によって統一(画一化)されてしまうところに近代教育の負の遺産があります。

〇子どもの社会化のために必要な所与課題やべき世界観から教育技術をあれこれと練り出すための教師論ではなく、人格主体として今を生き、明日を生きる子どもの「学び」の事実と協働する教師論の建設を願って止みません。

〇「人間というものは本来自分の必要に促されて、自分の本性の奥底に、このような真理への道があることを見出すものである。」と、ペスタロッチはいいます。「自分の必要」は、現代的には、「私の必要」という言葉に置き換えることができると思いますが、それは「立ち止まるところ、すべてに多くのなすべきこと、学ぶべきことがある」状態によって生まれます。言ってみれば、自分が関わりを持ち、関わりを深め、さらにその状態を持続したいという願いと活動の中でこそ「必要」感が生まれるわけです。このような活動を、人間の根っこを耕す活動、と言っていいと思います

〇 ペスタロッチは、学校という場所を、「自分の必要」が満たされる生活の場としてとらえていました。学校を生活化する、というふうに言い換えてもいいと思います。

〇「本当の真理感は身近な生活圏の中で生まれる。そして本当の人間の知恵というものは、自分のもっとも身近な境遇についての知識と、もっとも身近な問題を処理する練達した能力とを土台として成り立つものである。
 このような、われわれ人間の境遇上の必要からあらわれてくる知恵というものは、われわれの実行力を強くし、育てるものである。そしてこの境遇上の必要が生み出すこうした知性の傾向は単純であってしかもしっかりとした見通しを持ったものである。それはまた現実にちゃんとした関係で結びあっている事物の本性の持っている大きな力によって形成された知性である。そしてそのようなものであるから、それはまた真理のあらゆる面に向かって発展しうる柔軟性に富んだものである。
 力に満ちており、感情のこもったものであり、そして堅実な応用力がある、ということが、この知恵の特徴である。」(ペスタロッチ)

〇私たちが教育を語るときのキーワードとして「学び」という概念があります。「学び」というのは、「取り入れ」と「取り出し」の二つの活動によって成立します。「取り入れ」というのは、ある学習者にとって、自分の外にある諸価値を、何らかの方法によって自分の中に根付かせ、自分自身の価値にするということです。それに対して、「取り出し」というのは、自分自身の内部にある諸価値を、何らかの方法によって外界にある価値と結びつける、ということです。いずれも、自分自身と外界とを切り結ぶ、大切な人間の活動です。私たちは、「取り入れ」と「取り出し」とを複雑に組み合わせた活動によって、自他認識や自他関係を深め、発展させていくわけです。このことを「学び」といっておきます。
 ところが、この二つの活動について、象徴的に言えば現実の教育現場が多く陥っているような、「取り入れ」は日常の授業で、「取り出し」は教師の気まぐれによる臨時テストや定期的なテストなどで、というように機能的に分離されてしまったり、「何を取り入れ」「何を取り出すか」についての決定権が「あるはず」や「あるべき」の時代的国家的バイブルである教科書やその運用者である教師にすべてが任せられてしまっていたとしたら、どうなるでしょうか。今、「取り入れ」と「取り出し」とを機能的に分離する、と言いましたが、正確には、「取り入れ」と「取り出し」とが、目的と手段という関係に置かれる、と言った方がいいと思います。「取り入れ」と「取り出し」とがこのような関係にある教育を、「取り入れ型教育」と名付けてみました。

〇いずれにしても、近代学校は、上質のワインの樽生産というような、目的性が具体的で明確であるわけではなく、ある「観念」、つまり個々の人間の精神のあり方と国家・社会の精神のあり方とを「普遍」(ないしは「普通」)という名目における統一性を求めるという、まことに抽象的なものを目的として、「手取り足取り」のカリキュラムに沿って学習者に「取り入れ」させるわけです。私は、現在進行形である学校に、近代学校、という名称を付与するわけです。
 このように、人々の学習のすべてにおいて機械的生産工程に順応するだけにしか有益でない専門的職業・職能訓練の場のような近代学校のあり方に対して、異議申し立てをする、つまり別の「学び」のシステムを探究する教育実践・思想は数多く存在しております。それを私なりの言葉で申しますと、「取り出し型教育」ということになります。

〇日本における「取り出し型教育」の典型は、生活綴方(せいかつつづりかた)であります。生活綴方といっても、様々な立場があり、一様に規定するわけにはいきませんが、小砂丘忠義(ささおかただよし)という「生活綴方の鬼」とも称された人の言説がより端的にそれを言い表しております。小砂丘忠義は高知県出身で、後に東京に出てきて教育雑誌の編集者として活躍します。とくに彼が編集の中心にあたっていた『綴方生活』という雑誌は、当時も、また今日に至るまで、教育史上燦然と輝く遺産とみなされているほどです。
 小砂丘は、大正自由教育が盛んなおり、すでに綴方という「表現」(「取り出し」)を重視した、重視というより教育実践の中心に据えた教育活動を繰り広げています。彼が当時を回想した自伝的エッセイに、「まづ綴方から、と考へて私は教壇に立つた。」という一文があります。修身科を筆頭教科とし綿密に、統制的・画一的なカリキュラムが植民地を含む日本国内に試行されていた時代、しかも、伝達的教授と繰り返されるテストによってこそ学習(「取り入れ」)が有効だとされていた時代に、当時のカリキュラムでいえば国語科の中の一分科でしかなかった綴方をあらゆる教育活動の中心に据えよう、という試みを何故なそうとしたのか、そのあたりは、本当のところは謎でしかないわけです。ただ、彼自身の生育体験では、学校の中で培われた、というよりは、木こりである父親の後をついて歩いたこと、そこでは、「向こうに見えた滝のすつかり凍つた様や、何とも言へず春先の木の匂ゐが好きでたまらなかつたこと」など、そして父親の生活や労働を見よう見まねで手伝ったことなど、まさに五官をいっぱい働かして対象と接し、対象を自己内に「取り入れ」たこと、そして教科書を「読むこと」によって「言葉」(観念)を「取り入れ」ることでは到底起こらなかった、そういったことが、「大変厚い帳だったとしか覚えていぬが、父から買つてもらつた帳に、そのころ、筆で丹念に綴方を書いていた。当時の綴方の先生が、小砂丘は帳も厚いが、書くこともたくさんあるね、といつてくれたことも覚へている。」と回想しているように、綴ることによって自己を表現する、という「取り出し」の活動に小砂丘を夢中にさせていたのです。ペスタロッチもまた、「言葉」という観念化された概念を「取り入れ」ることをもっぱらとする学校教育を「言葉主義」といい、強く批判していましたが、小砂丘もまた、同じように、「言葉主義」に貫かれていた日本の近代学校に対して批判的でした。
 小砂丘も時代の人ですから、他の人と同じように、学校経験は被抑圧的なものでした。それを彼は「とりとめもない生活」といっていますが、その「とりとめもない生活」の中で、密かに、「取り出し」の意味するところを深めていたのでしょう、教師として任用されたその日から、自分の教育実践の中心に「綴方」を据え、「まづ綴方から、と考へて教壇に立つた」わけです。
 ところで、この綴方は、小砂丘の教室でどのように扱われていたのでしょうか。小砂丘が子どもたちと一緒になって謄写印刷をしている写真があります。これは非常に貴重な写真だと思われますが、文集を作っているところです。「表紙やカットを書く子ども、童謡を書く子ども、みんながめいめい、自分のやることを持ち寄ってできた雑誌」が文集であるわけです。文集は作りっぱなしではありませんでした。記念誌ではないのです。「できあがれば二,三時間割いて読んだり雑談したりする」、つまりは、「修身にも地理にも歴史にも代用される」学習材であったわけです。謄写印刷の教育界への導入は1910年代あたりだと思いますけれども、これは、教育界にとっては一大革命と言えるものでした。というのは、一人ひとりの書いたものが数多く印刷され、学級内で、学級を超えて、地域へ、そして他の学校・学級へと伝搬されるきっかけを作ったわけですから。そういう革命的な道具を教育実践の場に持ち込んだ先進性に驚嘆せざるを得ません。こうした小砂丘の綴方教育は、小砂丘に固有のものではなく、すでに大正時代の半ば頃から、日本各地の教師によって営まれていたことが推測されます。
 しかしながら、「取り入れ型教育」をもっぱらとして国民支配を進めていた近代学校の内側で、子どもの内的なものの「取り出し」=表現を中軸に据え、その表現材=綴方を共同の学習材とし、小砂丘の回想では「雑談」とされていますが、子どもたちの対話というコミュニティを通して、自他認識や自他関係を切り結んでいた、という事実は、近代国家によって成立させられ、発展させられてきた近代学校の本質を覆すほどのものであった、と評価してよいのではないでしょうか。
 先ほど、小砂丘的な綴方教育は日本各地の教師によって営まれていた、といいましたけれども、大正期は、近代学校に飽き足らない若い教師たちが相互に深い結びつきを求めて、教育サークルを作っています。小砂丘もその一人ですが、彼が深く結びつきあった教師に上田庄三郎がおります。上田庄三郎の足跡を調べておりますと、たいそうおもしろいことが分かってきました。教師のサークルが同人雑誌を出しているのですが、これは子どもたちの文集と同じように、各自がめいめいに書きあい(各自が鉄筆でロウ原紙に書く)、一つところに集めて(謄写機が数校に一台という程度しか普及していなかったことにも起因している)、雑誌としているのです。そしてそれを読みあって学習しあっている。教師もまた「取り出し」によって自身を成長させているわけです。そして、それらの同人誌は、他のサークル間で交換されています。やがて彼らは、自分たちの子どもたちが作った文集を、その際に同封するようになります。その同封された文集がどのように使われたのか、多くの記録はまだ見つかっていないので断片的なことで類推的に申し上げるしかないのですが、すくなくとも上田は、小砂丘の文集『蒼空』を子どもたちとともに読んでいます。そういう直接的な、フレネの教育法で言う学校間通信はすくなかったとしても、日本の教師は、『赤い鳥』(鈴木三重吉主宰)に綴方や、時には文集ごと投稿し、雑誌に掲載された作品を学習材として選んでいたことは確かです。
 こうした「取り出し型教育」が「生活綴方」と命名され、小砂丘忠義の主宰する雑誌『綴方生活』などを媒介として、日本各地に遼原の火のように伸び広がっていったのが1930年代のことでした。「取り入れ型教育」によって国民教化を完成させようとしていた国家にとってしてみれば、その根底的なところが突き崩される恐怖感があったはずです。思想的には多様であった生活綴方に対して治安維持法という法の網をかぶせ、検挙された教師の数が200数十名、取り調べを受けた数はどれほどになったか、はかり知ることができないはずです。

〇私は、その「司令塔」とは具体的、実物的に存在した組織・機関なのではなく、19年代初頭が、全世界的に「私」という意味を本格的に探究し始めたことではないかと思います。一人ひとりが異なった実名を持つことの本当の意味に気付き始めた、とくに若い世代がそうであったようです。教育界でいえば若い教師が「私」の確立を求めて自らを見つめ、仲間と語り、自らを解放するという営みを始めました。自分自身の「私」に気付いた人が、他者の「私」に気付かないはずはありません。それが「未熟だ」「未完成だ」「放っておくと粗野になる」といっていた子どもに対しても、「私」という実名のある存在である、とみなすのは、当然のことでしょう。

〇日本の子どもたちは、多くの教室で、沈黙を守っています。何か、自分の考えていることを話してみなさい、といっても、別に話すことはない、と返事をしてきます。「取り入れ型教育」に支配された子どもたちにとって、「考え」は、つねに「未熟」であり、彼自身のものとして賞賛されることはありません。まさに「近代教育」の大きな華をここに見ることができます。しかしながら、彼らを匿名状態に置きますと、じつに<多様?>で、<個性的?>な<考え?>が提出されます。<形式的には匿名状態だけれども、実質的には実名である?>、という<事実?>に突き当たります。先ほど申したことを借りていえば、「私」を通して「取り入れ」た諸価値を「私」の必要に応じて「取り出す」、そのような個の「学び」のプロセスのなかで、その必要感をどのようにして喚起するか、言い換えれば、「学び」の技術とはどのようなものであるのか、という課題があります。

(以下略します)