戦前生活綴方教育史研究の窓7 学校間通信あれこれ

 本「研究の窓」では、「制度知」(場合によっては「学校知」というべきかもしれないが、教育行政・教育政策の枠組みで定められた「知」という意味で、「制度知」の概念にこだわっていく)と「社会知」(場合によっては「生活知」というべきかもしれないが、それよりも幅広い「知」という意味で、「社会知」にこだわっていく)とをキーワードとして、あっちこっち揺らぎながら、論をあれこれ展開している。
 揺らぎついでに、今回は、ぼくの研究史系列の三つの柱、「生活綴方」「フレネ教育」「セガン」、ついでのことにデューイに、期せずして一致している「学校間通信」をテーマとして取り上げたい。

1.エドゥアール・セガン『教育に関する報告』(1880年)より

 最初に原著、その後にぼくの訳文を載せます。「学校間通信」(correspondence between the pupils of the primary school of Peronne and those of the school of Dieu-le-fils)というタームで説明できるのかどうかはわかりませんが、実践的には間違いなく「学校間通信」です。同著(E. SEGUIN,“REPORT ON EDUCATION”, MILWAUKER, WIS. DOEFLINGER BOOK & PUBLISHING CO. 1880.)は、セガンが、1873年にウィーンで開催された万国博覧会アメリカ合衆国教育部担当委員(UNITED STATES COMMISSIONER ON EDUCATION AT THE VIENNA UNIVERSAL EXHIBITIONS)として参加した際にヨーロッパ各国の学校・教育施設・福祉施設などを視察した報告書(『教育に関する報告』1875年第1版出版)です。引用に使用した版は第2版(1880年出版)ですが、第1版に加筆したものです。「学校間通信」の記述は、次に示す目次の、「庭園学校」(Garden school)の提案の中の、「地理学」あるいは「地誌」(Geography)の項で見ることができます。セガンの引例した事例、そしてその教育的効果の評価など、傾聴に値するように思います。
 なお、フレネ学校は、まさにフレネが説くところの「庭園学校」の姿を持っていることは大変興味深いところです。(自然林の中、渓谷などで地勢を学ぶことができるなど)

 学校の下の渓谷に地層調査に向かうフレネ学校の子どもたち
 
p.144
 
71. GEOGRAPHY. – It is a trite remark that nothing is so soon forgotten as geography. This is due to the want of interest in what is taught as such, and also t the vague location of the objects studied.

(d) The interest to be created depends on circumstances, and the matter can not be discussed here, but I found an example of it worth quoting at the Welt Ausstelling, which was lost to reward among the richly bound reports of famed schools.

This was a private correspondence between the pupils of the primary school of Peronne, in the north of France, and those of the school of Diue-le-fils, in the south. The young correspondents describe to each other the natural characters, the climate, the situation, the soil, the products, manufactures, usages, festivities, and varieties of their respective towns, townships, and provinces (departments). These letters received and answered with manifest pleasure, taught things impossible to find in print, and to forget. They created, I was told, and believe, among the young writers, feelings of interest which promised to ripen into friendship. They make them love the distant places seen in these descriptions as the home of the friends, and feel that identity of soil and population which is fully expressed only by the word patria. This small contribution of two provincial schools escaped the attention of the commission of rewards and received likely none but our own tribute of admiration: In our judgment, it is a mode of making geography lovable; a matter which can be extended from one nation to another with humane results; which does not exclude the book, nor the chart, but animates both, and binds them with the results of personal observation in a net work of good feelings.

(以下略)
 
71. 地理 − 地理のようなものほどすぐ忘れられてしまうものはないという考えが古くからある。そのように教えられれば興味を持たないのは当然のことだし、学ぶ目的があいまいであれば、それもまた当然のことである。

 (d)取り巻く環境によって創り出される興味、そのことについてはここで議論することはできない。しかし私はWelt Ausstellingについて説明する価値のある事例を見出した。それは、立派に表装が施された名高い学校の報告書類の間に紛れ込んでいて、見逃されていたものである。

 それは、フランス北部にあるPeronneの小学校の生徒たちとフランス南部にあるDiue-le-filsの学校の生徒たちとの間で交わされた私的な通信のことであった。幼い通信員たちは、互いに、それぞれの町のこと、郡区のこと、地方(県)のことを書きあった。自然の様子のこと、気候のこと、地理的な位置のこと、土地柄のこと、生産物のこと、製造物のこと、慣習のこと、お祭りのこと、などなど。手紙は喜びに満ちてやり取りされ、印刷物に示されている、しかしそれでは忘れられてしまうような、大切なことを教えていた。私は語ったことがあるしまた今でもそう思うのだが、手紙は、幼い書き手たちの間で親しく交わることで熟成された、興味の感情を創り出したのだ。そうした感情は子どもたちに、手紙に書かれた離れた土地のことを友だちの住むところとして好きになるようにする。そしてパトリア(祖国)という言葉でしか表現されているに過ぎない土地や人びとの固有性を感じ取らせるのである。二つの地方の学校のこの寄稿作品は報償委員会が見逃すところとなってしまい、われわれのみが注目するところでしかなかった。われわれの判断では、好ましい地理学をなすやり方であること、人文教養的な成果をもたらすような、国民から他の国民へと広げられうる事柄であること、書籍や地図を排除するのではなくむしろ両者を意義付け、よい感情のネットワークで個人的な観察の結果によってそれらを結びつける事柄であること、ということである。

 
続いて、生活綴方・・・
 
2.黒滝成至著『生活主義言語理論と国語教育』(厚生閣、昭和13年)より

 黒滝の本著には、「生活綴方」が「書くことによる教育」であることを枠組みする理論や実践例が多数登場する。生活綴り方研究史でこの本がまったく取り扱われてこなかったことが不思議で仕方がない。以下の引用は、「学校間通信」へと発展していく可能性を含んだ提言である。いわゆる「郵便ごっこ」実践に相当するが、これなどは、デューイ主義の実例であろう。これまで「文集交換」を学校間通信の日本的な例としてみてきたけれども、フレネやセガンが例を挙げているのは、あくまでも子ども主体である。そうした事例はないものか、あれこれ探ってみたけれども、記録に明示されているものは、今まで見つけることができなかった。「文集交換」で付随して、子どもたちの読んだ感想やあるいは土地の産物などが同封されるというようなことはあっただろうけれど、もう少し子どもの活動を組織するようなものはないものかと、資料を探っているうちに行き着いたのが、黒滝本の、次の一節である。これは、直接的には学級内に郵便システムを導入することの提案で、わが国戦後の新教育の中で「ごっこ」として活発に取り入れられたもの。「子ども郵便局」は、ぼくなども、経験がある。しかし、それを学級外に広げていく、学校外に広げていく、という視点があってこそ、「学校間通信」につながっていくものだろう。黒滝本にはそれが示唆されている。
 
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書く生活の組織

 書く必要を感じないのに書かせて、書く力を練ることはできない。子どもの書く生活を導き、さらに進んで書く必要を作り出さなければだめだ。自分の生活を反省して記録を作り、環境をよく見て教材を作り上げるのが何よりで、そこに「問題帳」や「材料帳」の大きな意義があるが、人の力合わせについても、よく指導すれば「助け合い」の必要が子どもたちにも感じられてくる。2年生の中から、

「今度綴り方で、みんなで手紙書きっこして、教えっこするの、みんなが書いて」

という要求が起こり、そこから「励ましあう綴り方」が生まれ、すばらしく成功した例がある。

 だから、「子どもの郵便局」などを置いて、手紙のやり取りをさせ、子どもらしい切手まで作らせるのはじつにいい。「組の新聞」や「張り出し新聞」に何か書き、自分の見聞きした事柄を発表する「知らせ」(報告)なども大きな意義がある。学級を越えて人を動かせばいっそういい。

 これらは、すべて綴り方の勉強だけなく、大きな生活学習として、教育の根本的なものに関係する仕事なのだ。