(旧稿)ある日ある時のパリ歩き <9区 ピガール通り>

オネジム=エドゥアール・セガン(1812年フランス生まれ〜1880年アメリカで没す)が1841年に白痴・痴愚の子どものための教育施設を開いたピガール通り(パリ9区)近辺は、パリ・コミューン1871年)を研究するぼくにとってもなじみの地名である。パリ・コミューン下で生きる一人の少年を主人公にした児童文学「パリ・コミューンの頃、ぼくは子どもだった」(直訳題)の冒頭は少年が義勇兵として従軍する父親に衣類を届ける場面である。モンマルトルの丘の麓ピガール広場の中央に設置された噴水のところで久しぶりに父子が再開する・・・。
 そのピガール広場から放射線状に通りが走っている。1871年3月18日、政府は軍隊を使って、義勇軍である国民衛兵隊の軍備解除を強制しプロイセンに恭順の姿勢を示す活動を開始しようとしたその瞬間、パリ民衆たちはそれを阻止し、政府軍を撤退させた。そればかりではなく、政府はパリを捨てヴェルサイユ宮殿に移る。パリが政治的に空白になったその時からパリ・コミューンが成立するわけである。その舞台は現在サクレクール寺院がそそり立つモンマルトルの丘である。

 ピガール広場からの放射線通りの一つ、ウドン通りがモンマルトルの丘の方へと走っている。ウドン通り2の住居で、偉大な革命家ルイズ・ミッシェル女史が私立学校を開設している。現在その跡地はティー・サロンとなっていた。
 ピガール広場を挟んでウドン通りと反対側に走る一本の道がピガール通りである。ルイズ・ミッシェルはピガール通りでも子どものための施設を開設していたという。そして我がエドアール・セガンが白痴・痴愚の子どものための学校を開設しているのだ。

 ある半日を、ピガール通りの散策に当て、二つの施設の跡地を探し求めることにした。じつは、ピガール広場を中心とした地域はパリには珍しく、夜になるとネオンが灯る。日本の歌舞伎町は極めて特殊な地域でありそれと比較するには気が引けもするが、性格的には歌舞伎町のような地域である。パリの古い時代から酒色を求めて人々が集まるところだ。長く続くピガール通りの、広場に近い半分がそのようなところであり、まちがいなくルイズ・ミッシェルが子どものための施設を開設したあたりである。また、広場から遠ざかって半分はがらりと雰囲気が変わって住宅街兼オフィス街である。セガンが学校を開設したのはピガール通り6。すなわち現在はオフィス街として姿を変えているところである。
 ピガール通りの起点はピガール広場とは反対側となっている。ということは、ぼくはピガール通りの終点から探索を始めたわけである。日中気温が38度という何十年ぶりかと言われる暑い夏のパリ、慣れない土地、しかも安全が保証されない土地を、左右に史跡を求めるという緊張の度合いの強い散策で終点にさしかかった頃には疲労の極致に達していた。赤い文字で「氷」と表示された張り紙の店を見つけた。そこはケーキとお茶の小さな日本茶屋である。
 MOMOKAという名前の茶屋で熱い抹茶をいただきながら若い女性店主に、エドアール・セガンとルイズ・ミッシェルの名を出して尋ねた。予想のごとく彼女は知らないと言いながらも、親切を重ねてくれた。すぐ近くに学校があるからそこで尋ねてみたらどうだろうか、と。残念ながら学校は9月まで休暇中で閉門されている。さらに店の上のアパルトマンに古くから住む婦人がいるから機会があればその人に訊ねておくとも言ってくれた。抹茶ケーキのおいしさと親切に感謝の辞を述べながらその店の番地を見ると、なんとピガール通り5とあるではないか。となれば、道路を挟んだ向かい側こそエドアール・セガンが学校を開設したところ、ピガール通り6である。現在は立派なオフィスとアパルトマンとして使用されている。(注:オスマン改革によって、現在の6番はセガンの時代のそれとは異なっていることを、後日知った。現在の8番がセガンが学校を設立したところ。)

 ・・・ピガール広場から歩き始めてまもなく一人の客引き女と出会った。同行の通訳をお願いしているAさんが「昼間から客引きするのですか?」と聞いたのもやむを得ないだろう。ついでながら復路では二人の客引き女と出会い、そのうちの一人から「ボンジュール、ムッシュ」と声を掛けられた。その時にはAさんと少し間をおいて歩いていたから、一人歩きの老日本人(・・・金持ちでスケベ・・・という定評があると噂に聞いている)に見えたのだ。もちろん応答することなく側を通り抜けたが、これが夜となれば安全は保証されたかどうか、不明である。

 二人の男女――エドアール・セガンとルイズ・ミッシェル――の、約20年ほどの時間差を置いた歴史の具体的な跡(壁面に張られたの顕彰文など)を見つけることはできなかったが、パリの下層の人々の暮らしと酒色の舞台でもあったピガール通り界隈をこの目に収めることができたことは大きな収穫であった。ちなみに、地下鉄駅ピガール構内に近辺の歴史ガイドの掲示があったが、そこにもまた二人の名前は記されていなかった。
(2003年8月記)