旅はドタバタ… ジャマイカ紀行 (1)

 昨夜の妻と上娘の帰宅を午前0時まで待っていたが、それぞれ研究会や仕事の関係があったのだろう、ぼくは先に眠りについた。何といっても朝6時には起き、旅の最終チェックをし、ネコたちを動物病院に預けに行かなければならないのだ・・・。
 目が覚めると、何と時計は7時10分前。妻は目覚ましをかけ忘れたと言い娘は鳴りっぱなしだったけど目が覚めなかった、おとうさんえらい!と誉められる。誉められたところで、これで成田発11時の便に間に合わせるには大変なことを知っているぼくとしては、やに下がっているわけにはいかない、ぼく自身も6時に起きられなかったのだから誰を責めることもせず(責めたところで事態は変わらないしね)、飯抜き、洗顔抜きを厳命し、慌ててネコどもを追いかけ回す。12頭の猫を病院に運ぶためには最低4往復は掛かる。ざっと時間を計算して15分。・・・これがじつに甘い計算であったことを思い知らされることになる。ネコたちはいつもの優しい主たちの振る舞いとは違うことでパニックを起こし、逃げ回る。つかまっても引っ掻き噛みつき、バッグに入れられても無理矢理開けて出てくる。ねえ、頼むから、お願いだから、美味しいご飯をあげるから・・あの手この手で声を掛けても、猫にとってはやられることはただ一つ。先行きの見えない恐怖だけという現実だから、ドタバタ、フギャーーーーっ!の繰り返しが続く。娘とぼくは出血がおびただしい状態。娘に至ってはみるみる手の甲が腫れ上がっていくほどであった。やれやれ、30分余かけ何とか12頭を病院に預け、さあ、出かけましょうか、という段になって、妻が荷の整理を始めた。ン? 昨夜仕上げることなく寝たのだそうだ。電車の時間は?予定していたのはダメだから、その次のに乗ると9時20分頃成田空港に着く、という答え。とにかくそれには間に合わせましょうね、と言い放ち、ぼくは自室で×××を一服。そうでもしていなければ気持ちが落ち着かないからね。
 妻の言う「次の」にはようようのこと間に合う。で、成田駅で乗り換えの段になって、妻の言う空港行きの便がダイアには書いていない。「あらやだ、京成線と間違えたのね。」要するにネットで調べたのだそうだが、彼女の頭の中には、南柏→柏(または我孫子。じつは我孫子が正解であり、これはぼくの決断によった)→成田→成田第二空港ターミナルビルという路線はすべてJR線だけが描かれていたわけで、京成線に乗り換えという案内は見過ごしていたわけである。それによると9時45分着。うなるのは頭の中だけにして、もちろん電車の中で走るのも頭の中だけにして、最終駅到着。ANAのカウンターのところまでは実際に走って向かったが、これが何と長蛇の列。あっちこっちの世界に飛んでいくANAカウンターを求めてあっちこっちの世界に旅をする人たちがチェックインの準備を待っているわけである。しばらくは最後尾に並んでいたが列は一向に進まない。通りかかった掛員に11時の便に乗りたいんだけど、間に合いますか?と訊ねたら、最初の人は、そのままでいてください、気が短く気の小さなぼくはそのままで居続けることなど不可能な精神状態になり、ちょっと遠くにいた2人目に訊ねたら、それはちょっと間に合わないかもしれませんね、と言い放ちすたこらさっさとどっかに消えていった・・・。ン?あのー、何とかしてくださいな、とは内言。直後、第3の女が、にんまり。ン?「ビジネスクラス・カウンターが空いていますから、こちらへどうぞ」。今もってあのにんまりの意味は不明だが、とにかく長蛇の列から抜け出て、ビジネスクラス・カウンター用の荷物チェック機を通すこともなく(「全部機内持ち込みです!」と怒鳴るように答えた)、まったく客の姿が消えてしまっているカウンターで発券をしていただいた。アー、やれやれ。これで急な病気等にならなければ飛行機には乗れまする・・・。娘の手とぼくの指はパンパンに腫れていたからふと頭に過ぎった心配事でした。痛いの何のって。
 約14時間の空の旅はニュー・ヨーク止まり。アメリカ入りはことのほか警戒が厳重になっていた。入国審査の列がなかなか進まない。それもそのはず、「左」「右」「カメラ」と言う入国審査官の命令に従って、左人差し指、次に右人差し指を指紋読み取り機にかけ、その次に目の前50センチほどのところのカメレオンの目のような形をしたカメラレンズに向かう。ぼくはカメラ目線になることを好まない生活をしてきたからそのくせがつい出でてしまう。係官が「カメラ!」と怒鳴る。怒鳴られたって嫌いなものは嫌いじゃ、を押し通してしまうとアメリカ入りが出来ない、アメリカ入りが出来ないとジャマイカに向かって出国も出来ない。我慢に我慢を重ねていると、蠅を手で追い払うように、手で指示する。ぼくの英語理解が能力限度以下であることを彼が見知ったからの身振りではあったろうが、それにしてももうちょっとやり方な〜い?カッコイイお兄さんよー。あ・・・考えてみれば、ぼくたち家族は、空港をかすめていくだけ、いや空港にちょっと停まるだけ、アメリカに税金をほとんど落としていかない厄介者だものな、シッシッシッ!あっち行け。
 前回には経験していないエアー・トレインなる乗り物に乗り、ジャマイカ行きのアメリカン・エアー・ラインのターミナルへ。今度は出国審査を受けなければならない。しかし、どこだ?長蛇の列の大半がアフリカン系のところがそうかしら?それにしても、この長蛇の列のどこが最後尾なの?うろうろちょろちょろ。最後尾にとにかく並んだが、びくりとも動かない。白人系の人たちはさっささっさと進んでいく。彼らの方にそっと寄ってみると「フロリダ云々」とやっている。ぁ、白人系の列は違うのね、じゃ、黒人系のどの列かしらねぇ・・・うろちょろうろちょろ・・・。さっぱり不明状態というのはじつに不安である。先ほどの蠅を追い払われるようにあしらわれた我が語学能力を完全に無視し、敢然と、係官と思わしき混血白人の女性にチケットを見せながら、「私たちはジャマイカに行きたいのです」と申し出、続けて、どの列に並べばいいのでしょう、それと、後時間が1時間しかないのですが大丈夫でしょうか、と訊ねようとしたら、彼女は、こっちへ来い、と、今度はおいでおいでの手振りでぼくを招いてくれた。蠅を追い払うのとおいでおいでとではまるで正反対の行為ではあるが、身体表現であることには共通している。ええい、この際、そんなコンプレックスなど感じる必要はない、とにかく我々はジャマイカ行きの飛行機に乗るため出国手続きが出来ればいいのだ、やれやれ・・・・・。ん、今度は蠅を追い払う手振りだ。いぶかっていると、しかたがないな、という表情をし、ぼくの前に付き、おいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいで・・・。オイオイ、着いたところは先ほどの列じゃないのさー。ぼくのきわめて不機嫌な様子から次なるぼくの行動に恐れをなしてか、まず娘が「私たちはジャメイカに行きたいのです」、続いて妻が「キンスグトーン空港に行くにはこの列ですか?」と申し出、訊ねた。係官が、にっこり笑って、この列は、ほら、そこが先頭でしょ?この人たちみんなキングストーンよ、後についていけばすぐよ、と娘と妻に応えた。娘が、「おとうさん、ジャマイカがなぜかジャパンに聞こえたみたいね。で、日本行きについてカウンターに聞いてくれたみたい。で、違うようだから、考えに考えて、おとうさんは、きっと、ジャメイカに行きたいと、彼女に言ったのだろうと、彼女は判断したみたいね。」と、ぼくを慰めてくれた。娘の暖かい愛情とは裏腹に、ぼくは、この後の10日間、絶対英語はしゃべらないぞ、というささやかな決意をしたのである。
 ジョン・エフ・ケネディー空港でも行列と時間との戦いに終始したぼくたちは、ジャマイカ、いや、ジャメイカのキンスグトーン空港での入国手続きの列はめぐまれ、きわめて前列であった。さあ、このゲートをくぐれば、娘夫婦が向かえに出ているはずだ。後はもう自力で必要なのは息をするぐらいなもの。やれやれ、と思いきや。・・入国手続きのカードの記入漏れのところで引っかかることになる。そこはジャマイカ、いやジャメイカ、ええい、めんどうくさい、ジャマイカでいいジャン!とにかくジャマイカでの滞在先住所を書く欄である。飛行機の中では空欄でも何とかなるだろうと思っていたが、入国手続きの列の先をふと見るとホテルの広告がある、あれを書きましょうよ、と妻に言うと、そうじゃないんだからダメ、と一蹴されてしまっていた。係官、にっこりもしないで、ここが空欄だが、どこに滞在するのか?と訊ねる。そしてその住所を書きなさい、ときつく命令下さる。えーと、あのー、と日本語でオロオロ表現を繰り返すだけの父母にはもう任せておけないと、娘が、私の姉がジャマイカ人と結婚しているので、そこで泊まります、と応えた。「その住所は?」「日本に書類を置いてきたので分かりません」「電話番号は?」「それも置いてきたので分かりません」「(あきれ果てた表情をしたのは異国の国の人の顔色であっても分かったが、引き続き)お姉さんの夫の名前は?」「イアン・○○○○○です」「じゃ、あっちに情報センターがあるから、そこで調べてもらいなさい」
 トホホ。ぼくは誰も責めません。ぼくが荷の中に入れておけばよかったのだから。トホホ。内言もその辺にして、後は、娘のリードに従うのみ。情報センターでは、「それじゃ、出迎えに来てくれているのね?」「ハイ。間違いありません。」「じゃ、今から呼び出すから、来てもらって書いてもらえばいいわね」・・・・何度も何度も呼び出しをかけてくれたが、娘夫婦はやってこない。アチャー、こっちも通じずかい。どうなるのだろう、この身は。1時間ほど粘ってくれたがウンともスンとも応えてくれない娘夫婦の行動をいぶかってか、それとも目の前の訳の分からない蠅をとにかく追い払いたいのか、「この紙に書く通りに書きなさい。入国手続きではこれで押し通しなさい」と、親切に、未知の住所を書いて渡してくれた。・・・ぼくたちが入国手続きを終えたのは、もちろん、ニュー・ヨークからの便の乗客の最後であったし、それより30分後についたフロリダからの乗客の最後ですらあった・・・。
 娘夫婦と孫が出迎えてくれていた。放送にはまったく気がつかなかったという。確かにあの喧噪の中で放送を聞き分けるのは大変な努力が必要であるだろう。
 法律上の息子の運転する三菱車に、それから揺られること4時間。ジャメイカ半島中央部フランクフィールドの山の上の広大な敷地のお宅にやっと着くことが出来たのである。飛行機の中で、大きな体で抱え込まれていた大きな大きな荷物がぼくの左肩をいやというほど殴打し、かなり長い時間骨に痛みを感じ続けるなど、不愉快な出来事が数々あったが、そんなことは絶対に大したことなのではない、と思えるほどの一日であった。
 法律上の息子の母親を、ぼくは英語でなんと呼ぶのだろう?分かりません。やがて来る数日の間に、かの国のかの家族の人たちは彼女をマミーと呼んでいることを知る。そのマミーがぼくのことを、ダディーと呼んでいるらしいことは、何日も何回も声掛けされて分かるようになった。ならばぼくも彼女のことをマミーと呼ぼう。そのマミー、「イアン君の姉」「イアン君の兄」「イアン君の弟」に歓迎の挨拶を受け(いやー、じつに簡単でした。ハロー、だけですもの)、ぼくたちのジャマイカ滞在が開始されることになる・・・・。