「筏師哀歌」再録

 「仕事歌」というジャンルが確かにあった。それが人々を繋ぐ絆でもあった。主として第一次産業第二次産業地帯。「都市化」「近代化」が失っていったものは「仕事歌」。具体によって人々が繋がるこの紐帯は強い。拘束性すら持つ。だから、「近代化この良きもの」の洗礼を「学校理屈」で受けたぼくなどは、「仕事歌」からできるだけ遠のき、紐帯を強引にほどき、抽象性で「連帯」などという言葉で吠えて青年期を送ってきた。むなしい。だって、形は何も残らないもの。
 考えてみれば、ぼくが修士論文で扱った大正自由教育の実践家上田庄三郎が「前近代」と「近代」との狭間期で「自我」形成に苦しんでいたのだった。それを真正面から取り扱わず、彼の中の「近代化」志向こそが民主主義だと断じ、その立場から歴史の進歩を語った。だから、彼が教育実践の中で「ガタガタ荷車どこへ行く〜♪」という「仕事歌」を作詞作曲し子どもたちに歌わせたことを、「仕事歌」として理解せず、「近代学校における地理教育と近代音楽(近代童謡)との結合の産物」と理解した。だから、「荷車」を引く人や押す人、という「人」の立場に理解を及ぼそうともしていなかった。今想うと、じつに悲しい「結語」である。
 セガン研究を進めてきた中で、セガンが生まれたクラムシー、育った地オーセールは、ヨンヌ川沿岸であり、その川および川沿いの運河(ニヴェルネ運河)に、ある仕事歌が響き渡った長い時代があったことを知った。その仕事歌とは「筏師哀歌」。

☆「筏師哀歌」訳と訳注
1.クラムシーとパリを行ったり来たり
巨大ないかだのご主人は
連結薪(トラン・ド・ボア)を操って
ブルジョアたちを暖める
川にクソ
2.きゃつらが水門に着いたなら
貧乏人と金持ちを
鈎付き棒(ピコ)で分けるのは
岸辺に立ってすることさ
川に尻もち
3.小塔河岸を手に入れたのは
トロールのお殿様
さあ、ちび殿、お椀をおしまいなさい。
渡し板は必要ございませぬ (*1)
クソを川で
4.森の周りのあっちこっちから聞こえてくるよ
ツグミのヒナの歌声が
「作ってもらった巣が気に入っていたのに
木は行っちゃった」
流れに沿って
5.ヨンヌ川がセーヌ川に合流するのは
モントローの近く
なのに心はバスティーユ
それでうきうき
川にクソ
6.守護神の息吹が元気づけるのさ
イル・マルゴー(*2)の男どもを
キャツラはクラムシーの男どもと、よく似てる
ベルシー河岸へ
川にクソ
7.頭一杯に
あんなことこんなことを詰め込んで
聞かせてやろう、目にしたことを
聞き込んだことを
クソしに川へ
8.あの話がちゃんと頭に残るように
そう、素敵なマオーのことさ(*3)
パリに向けて筏流しをする前に
男は入れ込んでおいていた…
川に尻
9.ベトレーム(バヤン)の司教様はなさいます
子どもに洗礼を授ける時
洗礼の日子どもを素っ裸にし
水にそのまま浸けてしまわれる
川に尻
10. ワシの歌がちゃんと韻を踏んでいないなら
捨てにゃならん
思い出を取っておきたい
本当の物語を
川に柳編ラケット持って(*4)
11. もしもおまえたちがシッシュ橋から我が歌を投げ捨てるなら
歌は流れ去っていく
その時、大きないかだの我が仲間たちが
鈎付き棒を突き出すさ
川に尻

(*1)ラトロールの領主はヴィレーヌとブルーニョンの領主でもあった。領主のギラルド・ド・ソゼは1711年に旧クラムシーの南端にある小塔河岸(ブヴロン川沿い)に居を構えた。「お椀」とは、古い軍事用語で、兵士や船員が一緒の食べるスープの木製の椀のこと。「椀をおしまいなさい」という表現には、「いい加減で争いごとを止めなさい」という意味が込められている。「渡し板」とは敵地攻撃の際に城郭壁に渡される板。この節ではクラムシーはおまえさんには渡さないよ、という戯れになっている。
(*2)ボルドーの近くジロンド川(フランスのアキテーヌ地域圏ジロンド県内を流れる川)の中洲の小さな島。独立精神が強い。
(*3)マティルド・ド・ダンマルタン(Mathilde de Dammartin)またはマティルド(2世)・ド・ブローニュ(Mathilde (II) de Boulogne, 1202年 - 1260年)は、ブローニュ女伯。名はマオー(Mahaut)とも呼ばれる。1248年にポルトガル王となったアフォンソ3世と結婚し、ポルトガル王妃にもなった。ポルトガル語名はマティルデ・デ・ボロニャ(Matilde de Bolonha)。
ブローニュ女伯である母イドと、女婿で共同統治者であるルノー・ド・ダンマルタンの娘として生まれた。1216年、母の死により伯位を継承する。1223年、クレルモン伯フィリップ・ユルプル(フランス王フィリップ2世と3番目の王妃アニェス・ド・メラニーの息子)と結婚した。彼はマティルドとの結婚と同時にブローニュ伯を名乗り、ブローニュ、モルタン、オーマール、ダンマルタンの共同統治者となった。
ルイ8世が1226年に若死にすると、フィリップ・ユルプルは兄嫁で摂政のブランシュ・ド・カスティーユに対し反乱を起こした。1235年にフィリップが死に、マティルドは一人で統治をしたが、男性の統治者が必要となり1238年にポルトガル王子アフォンソと再婚した。アフォンソは1248年に兄サンシュ2世の後継として王位に就いたが、ブローニュ伯も兼ねた。しかし、5年後の1253年にマティルドとアフォンソは離婚した。前夫フィリップとの間に一男一女をもうけていたマティルドであったが、アフォンソの間に子供が育たず、高齢で今後生まれる見込みも少ないことから、王位継承者の欲しいアフォンソが離婚を必要としたと見られている。言い伝えによると、マティルドは即位した夫に同行せず、ブローニュに残ったままだったという。
理由は不明であるが、マティルドの息子は王位を主張してイングランドへ渡った。彼は子孫を残さなかった。また、娘はシャティヨン=モンジェ卿と結婚していたものの、子供が育たなかった。マティルドの直系が絶えると、伯位は従妹アデライード・ド・ブラバンブラバント公アンリ1世とマティルド2世の叔母にあたる妻マティルドの娘)に継承された。
(*4)原文はDes Chis… dans l’iau. Chis… に該当する単語はchisteraと思われる。chiseraはバスク人の球技pelote用の柳編みの樋型手袋を意味する。