歌を強烈に求める今日

 ぼくが「歌」を求める源は、少年期から青年期にある。歌うことを得意とした。
 小学校高学年時、NHK名古屋少年合唱団入団希望を強く持ち,入団試験を受けた。第一次の「作文」は「ぼくの夢」というテーマが与えられ、交通事故の被害をできるだけ小さくするための車の「発明」を綴った。パス。第二次は歌唱力テスト。変声期に入っていたため高音部がかすれてしまい、残念ながら不合格となった。その時の課題曲は「赤トンボ」。ユゥヤーケコヤケェノのケェノがかすれてしまったのだ。それでも学芸会では先生からの指名で独唱。何を歌ったのかなあ。思い出せない。
 中学校でも同じく独唱、2年生の時はヴァイオリンを弾いたので歌っていない。独唱は「古戦場の秋」だった。マンドリンの合奏曲として人気が高いが、中学校1年の時の音楽の教科書の参考歌で載っていたのだと思う。楽曲は思い出せるが歌詞は曖昧。ちょっとませすぎていたんじゃないかなあ。「何か独唱しなさい」と言われて選曲したのが「古戦場の秋」だったけれど、先生がよく許したものだと思う。
 短調のこの歌にぼくは強い心を寄せ、つらいことがあった日には、夜、大声で歌って憂さを晴らしたものだ。    http://d.hatena.ne.jp/jittyan/20111209 に歌詞を載せていた。
 「夕月一つ 空に掛かる 戦場(いくさば)の蹟に 風ぞ騒ぐ 千草戦きて 泣くに似たり 虫もこそ啼けや 虫ぞ」
 「誰が子ぞ一人 空を仰ぎ 戦場の蹟の 風に吹かれ 涙涸れ果てて、心泣くは 雨もこそ降れや 雨ぞ 」
 こんな難しい日本語を当時の中学校では(音楽という教科を通じてではあったけれど)教えていたんだな、という感慨が湧いてくる。
 高校では姉が入っているので合唱部へ。1年の時は姉の影に隠れて小さくなっていたが―とにかく「川口さんの弟さん?かわいいねぇ」と、「お姉さん」たちにいじられるたびに真っ赤になって逃げていたほどだ。高校2年になって姉が卒業していなくなり貴重な男声合唱団員としてバリトンパートを担当した。NHK合唱コンクールで東海地方予選準優勝。それに自信を得たのだろう、ダーク・ダックスを真似て、バス、バリトンバリトンテナー、テナーの男性ヴォーカルを組み、毎日のように合唱を楽しんだ。ちょうどその頃、キクコさんというお嬢さんと話すことが多くなり、なんと歌をプレゼントしたいと考えた。昭和36年(1961年)だったろう。「ともしび」「北上夜曲」「雪の降る町を」などなど。そして「ヤーマノムスーメロザーリア〜♪」(山のロザリア)。そう「山のロザリア」は、ちょっぴり恋して、やがて去りゆかれる,失恋ともいうほどではないけれど、少し甘い残り香を哀しむ歌となった。なんだかぼくの人生について回る情緒を象徴しているなあ。テナーの大桑君、バリトンテナーの谷君は、どうしておられるか。バスの粉川君は卒業してすぐ会社の研修で事故死してしまった。
 そんなあんなを偲びながら、変調してしまったこの声(肉体)(「歌を失った」 http://d.hatena.ne.jp/kawaguchi-yukihiro/20140508/1399544433 )で、「山のロザリア」「ともしび」のバリトンパートを思い起こしつつ、歌おう。